信之論 ー孔子・老子の誡めー
人生行路難山にあらず川にあらず只人情反復の間にあり、と咏じた中国の詩人があるが、信じべき人が凡べて信じ得るならば、人類の悲劇は全部と迄は行かなくてもその大部分は解消されるであろう。親子、兄弟、夫婦、主従、朋友の間、政治家と大衆の間、指導者と被指導者との間の信頼関係が保たれる程頼母しく力強いことはなく、その信頼関係が失われる程の不幸はないであろう。凡そ人の信頼に応えるという事はその志操に於て、その行動に於て、ある時は壮烈であり、ある時は悲壮であり、ある時は優美でさえある。これに反し人の信頼に背く行為はその事自体が己に生活の破綻を意味する。ある時は不徳であり、ある時は罪悪であり、ある時は卑劣であり多くの場合不幸と悲劇とを招来する。聖人の仁義の教を嘲笑して虚無を説いた老子も信(まこと、言行一致いつわりのなきこと)の一字だけは否定することが出来なかった。反って信の徳をたたえている。孔子に至っては論語の至る所に信の徳を説いている。共同生活を立前とする人類社会に於て、信は凡ての徳の基礎となり、平和や秩序や幸福のよつて立つ基本だという事ができる。
論語の顔淵篇に子貢が孔子に政治の要諦を問うた一節がある。「子貢政を問う。子曰く食を足し兵を立し民之を信にす。子貢曰く必ず己む事を得ずして去らば此の三者に於て、何れか先にせん。子曰く兵を去らん。子貢曰く必ず己む事を得ずして去らば此のニ者に於て、何れをか先にせん。曰く食を去らん。古より皆死あり民信なくんば立たず。」実に力強い表現である。この一節に見ても、孔子という人物は政治の起訴として如何に人間の道徳を重く見ていたかを知ることが出来る。政治の要領は第一に食料を充分にして国民に食生活の安定を保証すること、第二に国土防衛の為に軍備を充実すること。(孔子の時代は幾多大小の国が対立していた戦国時代であった。)、第三に国民の間に信義を重んぜしむる事等の三つの要件を説いたのであるが、子貢が更に事情己めるとすれば何から先にやめたらよろしいかと問うたのに対し、孔子は先ず第一に軍備をやめよ。次に食料の保障をやめよ。民が飢え死んでも人間は結局死ぬものだから致し方ない。ただ信義だけは失ってはならぬ。信がなくなれば滅亡あるのみといい切つているのである。不抜の信念であり不朽の見識である。その他、孔子は「信なれば人任ず」と説いている。論語子張篇に子夏がいつている。「君子は信ぜられて其民を労す。未だ信ぜられざれば即ち以って己を励ましむるとなす。」と何れも民主主義の今日の政治にも適用される文句である。今日の議会政治の原理も、要は大衆の信頼と納得を得て政策を実行するにある。
老子の第十七章に政治の階級を説いている。「太上は下之有るを知る。其の次は親しみて之を誉む。其の次はこれを畏る。其の次はこれを侮る故に信足らざれば信ぜざることあり。悠として其れ言を貴む。功成り事遂げて百姓は皆我然りと謂ふ。」これを今の時代の政治にその儘あてはめる事は少し無理があるかと思うが、洵に含蓄のある言葉と思う。最上級の政治は聖人舜が治めた時代のような、大衆は自ら満足し政治に対する不満もなければ関心もないといふ状態、恰も我々が生きる為には必要欠くべからざる太陽や空気の有難いことも忘れて平気でその恩恵に浴しているようなものだ。その次は大衆は為政者に親しみこれを謳歌する。(明治天皇の治世は大体これに近いものではなかったか) その次は大衆は為政者を畏れる。(軍閥官憲の力が絶大となって大東亜戦争に突入せんとした頃はこれに近いものではなかったか) その次の政治になると大衆は為政者を侮蔑する。こうなっては終わりである。(今日の為政者は稍之に近い感じがするが) この劣悪な政治の因って来る所以は、為政者が信頼できないから大衆が信頼しないだけの話である。その信頼出来るか出来ないかは、言った事を実行するかしないかにある。出来もしない公約を麗々しく並べて選挙に臨む政党の如きは、信を失って、侮蔑されるに至るであろう。最上級の政治は功成り事成就して、百姓共は敢えて為政者のやった事と思はず、自分達がやつたのだと思う政治である。無為にして化することを説いた老子は、流石に深淵にして含蓄のある事を言つていると思う。
貫一お宮の紅葉山人の小説から、一国の政治、国際間の交渉に至る迄、見様によつては信頼できるか出来ないかの一点をめぐつての活劇とも見られる。人間の群る処常に猜疑あり。これによって人情常に反復して、或は苦悩となり、反逆となり、人間の悲劇は尽くる時がない。もし赤心を人の腹中に敷く人あり。これに応えてよくその信をつなぎ得る人あらば、洵に人間世界の壮観というべきであろう。信長が光秀に逆かれ、シーザーがブルータスに裏切られ、キリストがユダに売られて何れもその生命を失つた如きは、正に人類最大の悲劇であろう。日英同盟存続中の英国はよくこの条約を守った。第二次世界大戦中、中立条約の存続中にも拘らず日本を背後より打倒したソビエトは国際信義に背くものであり、大ソビエトの名を汚すものであって、その精神を改めざる限り、永遠の繁栄は望み得ないであろう。
赤穂浪士一隊の信頼をつないでこの壮挙を完了した大石蔵之助も偉いが、その一味も正に士中の士である。更に大石の依嘱を受けて秘密裡に一隊の武装を整備し、あらゆる迫害に堪えてその信頼に応えた天野屋利兵衛の如きは、正に人傑中の人傑と称してよかろう。その他或は死を以て信頼に酬い、或は営利の為に信頼を裏切つた様な事例は、歴史上数限りなく存在する。
アレクサンドル大王がペルシャ遠征の途上ペルシャ王グライアスの六十万の大軍と戦わんとした時、不幸にしてシリヤに於て原因不明の大病に罹つた。侍医のフィリップスは忠誠を以て王の信頼を得ていた者であるが、非常手段として一服の劇薬を調合して王に飲ませる決心をした。この時先陣のパルメニオ将軍から急使があって密書を届けて来た。それは医師フィリップスはグライアスに買収されているから充分警戒する様にとの警告であった。王は誰にもこの手紙を見せずに枕の下に入れておいた。そしてフィリップスが薬を持つて来た時、この手紙を出してフィリップスに読ましめると同時に自分はその薬を飲んだ。一方は薬を飲みおわり、一方は手紙を読みおわって立つ。顔を見合した時、王は顔色一つ変えず、笑い乍ら明朗に打解けて、その医師に対する信頼の情をましたが、フィリップスの顔色は蒼白となり、泣いてその無実なる事を誓った。王は劇薬の効により早く健康を恢復してペルシア戦争の目的を達する事が出来た。
およそ古来大業を成し遂げた人物は何れも赤心を人の腹中にしく事の出来る度量を持つていたと同時に、これに応え得た多くの同志や部下を持つていた事を発見するであろう。しかもよく信じ得る人と信ずべからざる者との判別を誤らなかった叡智の持主であつた事を発見するであろう。信頼する事も難しいが、信頼される事も容易な事ではない。されば孔子も「信を好んで学を好まざれば其蔽や賊なり。(条理に外れた事を無理にやり通そうとして反面、事を誤る。)」と戒めている。又老子第六十四章に「夫れ軽諾は必ず信寡く、易とする事多ければ必ず難多し」と軽率に約諾するを戒めている。
論語泰伯篇に曾子予言として有名な句がある。曰く「以って六尺の孤を託すべく以て百里の命を寄すべし。大節に望んで奪うべからざるは君子人か君子人なり。」と。
(「雲」昭和31年2月)
論語の顔淵篇に子貢が孔子に政治の要諦を問うた一節がある。「子貢政を問う。子曰く食を足し兵を立し民之を信にす。子貢曰く必ず己む事を得ずして去らば此の三者に於て、何れか先にせん。子曰く兵を去らん。子貢曰く必ず己む事を得ずして去らば此のニ者に於て、何れをか先にせん。曰く食を去らん。古より皆死あり民信なくんば立たず。」実に力強い表現である。この一節に見ても、孔子という人物は政治の起訴として如何に人間の道徳を重く見ていたかを知ることが出来る。政治の要領は第一に食料を充分にして国民に食生活の安定を保証すること、第二に国土防衛の為に軍備を充実すること。(孔子の時代は幾多大小の国が対立していた戦国時代であった。)、第三に国民の間に信義を重んぜしむる事等の三つの要件を説いたのであるが、子貢が更に事情己めるとすれば何から先にやめたらよろしいかと問うたのに対し、孔子は先ず第一に軍備をやめよ。次に食料の保障をやめよ。民が飢え死んでも人間は結局死ぬものだから致し方ない。ただ信義だけは失ってはならぬ。信がなくなれば滅亡あるのみといい切つているのである。不抜の信念であり不朽の見識である。その他、孔子は「信なれば人任ず」と説いている。論語子張篇に子夏がいつている。「君子は信ぜられて其民を労す。未だ信ぜられざれば即ち以って己を励ましむるとなす。」と何れも民主主義の今日の政治にも適用される文句である。今日の議会政治の原理も、要は大衆の信頼と納得を得て政策を実行するにある。
老子の第十七章に政治の階級を説いている。「太上は下之有るを知る。其の次は親しみて之を誉む。其の次はこれを畏る。其の次はこれを侮る故に信足らざれば信ぜざることあり。悠として其れ言を貴む。功成り事遂げて百姓は皆我然りと謂ふ。」これを今の時代の政治にその儘あてはめる事は少し無理があるかと思うが、洵に含蓄のある言葉と思う。最上級の政治は聖人舜が治めた時代のような、大衆は自ら満足し政治に対する不満もなければ関心もないといふ状態、恰も我々が生きる為には必要欠くべからざる太陽や空気の有難いことも忘れて平気でその恩恵に浴しているようなものだ。その次は大衆は為政者に親しみこれを謳歌する。(明治天皇の治世は大体これに近いものではなかったか) その次は大衆は為政者を畏れる。(軍閥官憲の力が絶大となって大東亜戦争に突入せんとした頃はこれに近いものではなかったか) その次の政治になると大衆は為政者を侮蔑する。こうなっては終わりである。(今日の為政者は稍之に近い感じがするが) この劣悪な政治の因って来る所以は、為政者が信頼できないから大衆が信頼しないだけの話である。その信頼出来るか出来ないかは、言った事を実行するかしないかにある。出来もしない公約を麗々しく並べて選挙に臨む政党の如きは、信を失って、侮蔑されるに至るであろう。最上級の政治は功成り事成就して、百姓共は敢えて為政者のやった事と思はず、自分達がやつたのだと思う政治である。無為にして化することを説いた老子は、流石に深淵にして含蓄のある事を言つていると思う。
貫一お宮の紅葉山人の小説から、一国の政治、国際間の交渉に至る迄、見様によつては信頼できるか出来ないかの一点をめぐつての活劇とも見られる。人間の群る処常に猜疑あり。これによって人情常に反復して、或は苦悩となり、反逆となり、人間の悲劇は尽くる時がない。もし赤心を人の腹中に敷く人あり。これに応えてよくその信をつなぎ得る人あらば、洵に人間世界の壮観というべきであろう。信長が光秀に逆かれ、シーザーがブルータスに裏切られ、キリストがユダに売られて何れもその生命を失つた如きは、正に人類最大の悲劇であろう。日英同盟存続中の英国はよくこの条約を守った。第二次世界大戦中、中立条約の存続中にも拘らず日本を背後より打倒したソビエトは国際信義に背くものであり、大ソビエトの名を汚すものであって、その精神を改めざる限り、永遠の繁栄は望み得ないであろう。
赤穂浪士一隊の信頼をつないでこの壮挙を完了した大石蔵之助も偉いが、その一味も正に士中の士である。更に大石の依嘱を受けて秘密裡に一隊の武装を整備し、あらゆる迫害に堪えてその信頼に応えた天野屋利兵衛の如きは、正に人傑中の人傑と称してよかろう。その他或は死を以て信頼に酬い、或は営利の為に信頼を裏切つた様な事例は、歴史上数限りなく存在する。
アレクサンドル大王がペルシャ遠征の途上ペルシャ王グライアスの六十万の大軍と戦わんとした時、不幸にしてシリヤに於て原因不明の大病に罹つた。侍医のフィリップスは忠誠を以て王の信頼を得ていた者であるが、非常手段として一服の劇薬を調合して王に飲ませる決心をした。この時先陣のパルメニオ将軍から急使があって密書を届けて来た。それは医師フィリップスはグライアスに買収されているから充分警戒する様にとの警告であった。王は誰にもこの手紙を見せずに枕の下に入れておいた。そしてフィリップスが薬を持つて来た時、この手紙を出してフィリップスに読ましめると同時に自分はその薬を飲んだ。一方は薬を飲みおわり、一方は手紙を読みおわって立つ。顔を見合した時、王は顔色一つ変えず、笑い乍ら明朗に打解けて、その医師に対する信頼の情をましたが、フィリップスの顔色は蒼白となり、泣いてその無実なる事を誓った。王は劇薬の効により早く健康を恢復してペルシア戦争の目的を達する事が出来た。
およそ古来大業を成し遂げた人物は何れも赤心を人の腹中にしく事の出来る度量を持つていたと同時に、これに応え得た多くの同志や部下を持つていた事を発見するであろう。しかもよく信じ得る人と信ずべからざる者との判別を誤らなかった叡智の持主であつた事を発見するであろう。信頼する事も難しいが、信頼される事も容易な事ではない。されば孔子も「信を好んで学を好まざれば其蔽や賊なり。(条理に外れた事を無理にやり通そうとして反面、事を誤る。)」と戒めている。又老子第六十四章に「夫れ軽諾は必ず信寡く、易とする事多ければ必ず難多し」と軽率に約諾するを戒めている。
論語泰伯篇に曾子予言として有名な句がある。曰く「以って六尺の孤を託すべく以て百里の命を寄すべし。大節に望んで奪うべからざるは君子人か君子人なり。」と。
(「雲」昭和31年2月)
赤心=いつわりのない心
虚円論
功を建て、業を立つる者は多く虚円の士なり。事を憤り、機を失ふ者は必ず執拗の人なり。(菜根譚)
現実の問題として絶対的の虚円とか絶対的の執拗とかいふことは一般人には容易にあり得ない。大概程度の問題である。しかし禅的に之を探求して見るとあらゆる我執を一枚一枚取り去って終へば最後には絶対的虚円の境涯に到達することが出来る訳だ。そこ迄到達すれば悟道の境地に達したものと見ることが出来る。
よく明鏡止水といふ事がいはれるが若し一片の我執が残ってゐたならば此の境地にはなれない。
(「雲」昭和29年8月)
現実の問題として絶対的の虚円とか絶対的の執拗とかいふことは一般人には容易にあり得ない。大概程度の問題である。しかし禅的に之を探求して見るとあらゆる我執を一枚一枚取り去って終へば最後には絶対的虚円の境涯に到達することが出来る訳だ。そこ迄到達すれば悟道の境地に達したものと見ることが出来る。
よく明鏡止水といふ事がいはれるが若し一片の我執が残ってゐたならば此の境地にはなれない。
(「雲」昭和29年8月)