ハルピン の歴史

現在の哈尓浜 地球の緯度を北に辿って45度46、経度を東に廻って126度36、そこに東洋の風土と西欧の文華とが渾然と融化している一つの都会を見出すであろう。ハルピンがそれである。そこには凍江の橇があり、パスハの鐘声があり、百夜の音楽があり、そしてまた冬籠りの文学がある。
『韃靼』 東経北緯

楡の錢散り敷く道ぞ八方に  有風

右の写真は現在の哈尓浜市ーかって,中央のロータリーに中央寺院があった。

1891年 明治24 帝政ロシアがシベリア鉄道建設に着手,5月31日,ウラジオストックの駅予定地で皇太子ニコライが出席して鉄道起工式が行われた。
1894年 明治27 8月,日本が清国に宣戦布告。1895年4月日清講和条約
1896年 明治29 ロシアが露清条約により東清鉄道(満州里綏芬河)の鉄道敷設権を獲得する。
1897年 明治30 3月東清鉄道会社C.E.R設立。
1898年 明治31 ロシアが遼東半島(旅順,大連)を租借し,哈爾浜と大連を結ぶ 東清鉄道 南部線の敷設権を取得する。ロシアは鉄道ルートと松花江(スンガリー)が交差する場所に街の建設を開始する。ここが 哈爾浜 市である。
1899年 明治32 ロシアが 哈爾浜 の都市計画を策定,鉄道管理局を設けて鉄道工事を開始する。
1900年 明治33
駅の南側の南崗に 中央寺院 竣工。
中央寺院はロシア正教の教会,正式名は聖ニコライ会堂。古代ウォルゴッド様式で北ロシア風に丸太を組上げて建てられた。
中央寺院はハルピンを象徴する建物となる。1966年の文化革命時に取壊されて跡地はロータリーである。(TOP写真)。

中央寺院

松花江鉄橋完成。松花江岸に 傅家甸 ができる。陸軍大尉石光真清がロシア調査の目的で哈爾浜に入る。

松花江鉄橋

1901年 明治34 哈爾浜 〜綏芬河 間の鉄道完成。石光真清が馬家溝に写真館を開く。
1902年 明治35 哈爾浜 〜 満州里 間の鉄道完成。
1903年 明治36
哈爾浜 〜 旅順 間の鉄道が完成し東清鉄道全線営業開始。右は哈爾濱 駅。建物はアールヌーボー様式である。現 哈尓浜駅は1950年代に建替えられた建物。
キタイスカヤ 街、モストワヤ 街の建設を開始する。

哈爾浜駅

1904年 明治37
2月,日本人引揚。日露戦争始まる。
哈爾浜 ヤマトホテル 竣工。露が「東清鉄道 理事公館」として建設したが1935年から満鉄が「ヤマトホテル」として経営する。写真は現在の「龍門大厦」,手前がヤマトホテル,後方の高層は新館。

ヤマトホテル

1905年 明治38 5月,日本海海戦。9月,日露講和条約。
日本がロシアから東清鉄道と南部鉄道線の経営権を取得する。
1906年 明治39
南満州鉄道 設立,初代総裁後藤新平
旅順,大連地区および南満州鉄道の守備部隊として関東軍が組織される。
キタイスカヤ に モデルンホテル 営業開始。モデルンホテルはフランス ルネサンス様式の建築でホテルに併設してカフェー,レストラン,劇場がある。1913年から満鉄の経営,部屋代は浴室無しが2円50銭〜4円50銭。劇場は欧米映画上映専門。

モデルンホテル

埠頭区市街図

画像をクリックすると大きな地図になる。
ハルピン市地図
1907年 明治40
キタイスカヤ通りにルネサンス様式の松浦洋行開店

松浦洋行

キタイスカヤ風景ー東京ハルピン会から送っていただいた写真(作者不詳)

キタイスカヤ風景

1909年 明治42 西本願寺附属小学校(後の桃山小学校)設立、最初の児童数4名。
伊藤博文が哈爾浜駅構内で安重根に暗殺される。
1912年 大正元年 辛亥革命により清国倒れる。日本人1086人。
1914年 大正3年 第1次世界大戦始まる
哈爾浜特務機関建築
傅家甸の市街造り開始。
1917年 大正6年
ロシア革命
ヨット倶楽部竣工

ヨット倶楽部

1918年 大正7年 ロシア革命によって囚われたチェコ軍の救出を名目に日本がシベリアに出兵する。
1919年 大正8年
五四運動
チューリン百貨店竣工。ロシア人が経営していた百貨店でウォッカ、紅茶、毛皮などの工場も持ってチューリンブランドも販売していた。

チューリン百貨店

東洋拓殖株式会社支店開業。東洋拓殖株式会社は朝鮮に日本人移民を送り込む事業を進める目的で1908年(明治41年)に設立された国策会社である。しかし事業がうまく進まないので1917年から事業範囲を満州にも拡大し、不動産・金融、投融資を行っていた。

東洋拓殖哈爾浜支店

1920年 大正9年
シベリアの白系政府が倒れ、数万人のロシア人が北満に逃げ込む。哈爾浜人口33万人、内日本人3600人
日露協会学校開校。大正6年、日露協会が「露語講習所」を設けた。大正9年、これを発展させて、ロシアの経済に通じ、風俗習慣人情に通じる人材養成の為の公費学校を設立した。設立委員長は後藤新平である。1933年に「哈爾浜学院」となる。1945年廃校、多数の学生がソ連抑留となった。卒業生1412名。1987年に同窓会が「哈爾浜学院史」を刊行した。

哈爾浜学院
哈爾浜学院(昭和8年)

1922年 大正11年 シベリアから撤兵
1923年 大正12年
9月1日、関東大震災
日本人小学校校舎完成(設計ジダノフ)
哈爾浜桃山尋常高等小学校に改称

【桃山小学校小史】
明治42年 西本願寺附属小学校
明治43年 哈爾浜日本人居留民会附属小学校
大正5年 哈爾浜尋常高等小学校
大正12年 新校舎完成
昭和16年 桃山在満国民学校と改称
昭和20年8月16日 活動停止

桃山小学校
桃山小学校(昭和12年当時)

1924年 大正13年 第一次国共合作、モンゴル人民共和国独立宣言
1925年 大正14年 治安維持法
1927年 昭和2年 10月市電が開通、距離16km、南崗地区と埠頭区を結んでいた。1987年に廃線。

市電
市電ー待っているのはハルピン高女生徒、市電の向こうは博物館

1928年 昭和3年
5月、与謝野寛、晶子来哈

哈爾浜は帝政の世の夢のごと白き花のみ咲く五月かな    晶子

6月4日、張作霖爆殺
哈爾浜広報電台が南崗長官公署街の新庁舎でラジオ放送を始める。周波数は674Hz、出力1kw。1932年に満州電信電話株式会社に移管される。

哈爾浜広報電台

1932年 昭和7年
満州国成立、関東軍が哈爾浜を占領。9月、満州航空設立
松花江氾濫
満州開拓移民団が佳木斯(ちゃむす)に入る。
ソフィスカヤ寺院竣工

ソフィスカヤ寺院

1933年 昭和8年 哈爾浜学院創立
1934年 昭和9年(康徳元年)
特急「あじあ号」新京ー大連間で運転開始

特急あじあ号

哈爾浜女学校開校。哈爾浜女学校は始めはウクライナ協会クラブを借用して開校した。第1学年は52名。昭和10年に馬家溝に移転。昭和18年に哈爾浜富士高等女学校と改称。

哈爾浜女学校

1935年 昭和10年 中国「抗日救国宣言」
ソ連が新京〜哈爾浜間鉄道を満州国に譲渡、特急「あじあ号」が哈爾浜まで延長される
花園小学校、哈爾浜中学校新設、ホテルニューハルピン着工
1936年 昭和11年

1937年 昭和12年 盧溝橋事件
満州拓殖公社設立
4月27日、室生犀星が哈爾浜「モデルンホテル」に宿泊、ホテル向いの喫茶店「マルス」に行く。喫茶店「マルス」ではロシア娘がブランデーを入れたロシアケーキ、アイスクリームサービスする。チョコレートはロシア美人を描いた化粧箱に入っている。

喫茶店マルスの少女光りて  露西亜娘の大きな臀うごき
日もすがらお茶をはこべり。
大き臀だぶつけども  少女は少女ゆゑ清げなり
われ  とつくにありて  大き臀眺め
詠めぬ英字新聞に肘をつき  大なる虎のごと悲しむ。
犀星

1939年 昭和14年 5月、満蒙国境でノモンハン事件勃発、9月停戦
1940年 昭和15年 皇紀ニ千六百年
1941年 昭和16年 12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争勃発
1945年 昭和20年 ソ連が日本に参戦、北満州に侵攻
8月15日敗戦
1946年 昭和21年
満州から邦人引き揚げ、一般人百万人。ソ連抑留者五十万人。
右の絵は 哈爾浜富士高等女学校 堀野敦子 氏の「38度線を越えて」

38度線を越えて

二度と戦争が起こらぬように、そして絶対に我が子、わが教え子を戦場に送らないように、たとえ刑務所に入れられてもーーという老教師の心からの思いです。そして私たちが踏みにじった中国、朝鮮・韓国の方たちに、心から謝罪を申しあげます。これだけを申しあげれば私たちは安らかに人生を終わることができます。二十一世紀を生きる皆さまに、戦争が起こらない時代を築いてくださるよう期待いたします。
1997年11月 相沢ヨシ 北村正代 馬場タヘ ハルビン日本人女学校 戦時下の教師より ハルピンを語る会編

【主な参考資料】
哈爾浜物語  杉山公子  地久館
幻の都ハルピン案内  下里猛
友情の哈爾浜  室生犀星
ハルピン日本人女学校  ハルピンを語る会
哈爾浜桃山小学校   哈爾浜桃山小学校同窓会
哈爾浜桃山小学校同窓会員名簿
韃靼ー大陸俳句の青春と軌跡  小沼正俊
東洋拓殖  大河内一雄  日本経済新聞社
重き流れに  佐多稲子  講談社
黒龍江への旅  高野悦子  新潮社
哈爾浜の都市計画  越澤明  ちくま学芸文庫
大連と中国・東北歴史散歩  日経BP企画


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