シベリア抑留 の俳句
斎藤有思の シベリア抑留 8年間
寛城子で貨車に乗せられる。外気温は零下35度
凍壁に書く吾子の名は三並ぶ
拾ひえし煙草の凍てのかたかりき
2000キロメートル運ばれ、12月27日東シベリアのチタ郊外に或る監獄に入る。北緯53度、日中気温零下50度。
ふぐりの毛身の凍つるまで剃られけり
黙々と行くや霧氷の街昏るる
バイカル湖畔
隙間もる寒夕焼けを掌に拾ふ
1946年1月4日チタを出発、石炭も薪も無いので貨車の床板を焚き続け、凍った黒パンを犬釘で割って分ける。貨車はシベリア本線を離れてさらにトルクシブ鉄道で南下、4800粁乗って1月19日に砂漠の町アルマ・アタに着いて囚人ラーゲリに収容された。幅15メートル、長さ40メートル位のバラック2棟に400名近く収容された。ペチカがバラックの両側に3個づつ。作業はバラック建設の肉体労働。7月に1000人、8月に1500人の日本人捕虜が更に収容された。
秋霜に抗えるもの虜囚の詩
望楼のある農場や暮の秋
1948年5月、カラガンダへ
働けるわが身ほとりも白夜光
1949年5月、懲役25年の刑を受ける。
秋晴れや枕となりし靴をはく
1950年9月、ハバロスクへ
懲役の一日の果ての大き夏野
1952年12月、家からの手紙あり。
年逝くやわれに族の故山あり
大いなる凍壁を背に座りけり
1953年7月、帰還のためナホトカへ
昂ぶれる心風炎の底に立ち
コスモスや鉄扉きびしき内に棲み
我が失せし歴史の齣や秋の風
身にかぶる歴史の誤謬虎落笛
1953年11月28日、帰還船興安丸に乗船
駆けあがるタラップの凍て心急く
自由自由と指もて書けり冬畳
友売りし彼奴蹴倒され冬畳
1910-1978 斎藤保 哈爾濱学院卒業後満州電業株式会社。敗戦時満州電業調査役、ソ連に抑留されて昭和28年に帰還。帰国年の12月7日 第18回国会「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」で抑留について証言。1957年に「ソ連のエネルギー構造と電源開発」を刊行。
帰国後の句
春着著て生き死ににの話してをりぬ
唇赤き女あふれて冬の霞
囚人の慣ひ身に古り春寒し
金沢磬々
1946年1月から1949年7月までの3年半アルマ・アタに抑留。「あらたう句会」。
溜息が氷りてしろき堊となる
爪で掻く壁の氷をくちびるに
高原のいのち愛憐みあかざの芽
雛の子ら今宵何処に灯せる
大場白水郎
昭和21年8月3日、奉天から無蓋車に乗せられ、朝錦懸俘虜収容所に入る。
ゆく春や銃殺も亦いさぎよし
あてのなき日を送るなり秋の雨
囚われの露宿に馴れつ月の秋
博多沖に二十日間停泊
秋風や黄旗かかげし隔離船
9月16日、東京に帰る。
お互いに命拾いて秋袷
敦賀風焔
終戦
月繊し「楡の鐘」は凍てて鳴る
塋のみち四温の芦のからにしき
獄中
鶏頭乱れたり彼我の主義相距て
向日葵や月の炎のひややかに
鵙の天死を待つことの白哲に
流木作業
鐘凍てて神への途を誰も訪はず
耳たぶが真赤に透いて枯野の日
肺結核
早春の風鳴る肺を抱き帰る
興安丸、帰国
八汐路に生まるる泡の晩夏光
鰯雲かく美しき墳墓の地
抑留、「ハルピン俳句会」、昭和28年帰還。「雲」同人。帰国後の句(昭和31年)
願いの糸垂るるさいはて闇の壁
放浪の荷が肩に乗り冬の雁
引揚の友みな遠し雪に棲む
白夜句会
マルシャンスク収容所はモスクワ東南350キロメートルにあり、日本人捕虜約5千人が収容されていた。ここにラーゲリ句会の「白夜句会」があった。
1月12日、チタ駅に着く。チフス患者30人
氷雪の旧き流刑の地を踏みぬ | 船水以南 |
マホルカを喫うや巨いなる手套 | 小沼正俊 |
伐採、運河工事、農耕
樹の空洞にもの棲み哭ける暮春かな | 船水以南 |
吾子連れし妻が馴鹿夢を駆す | 船水以南 |
雁仰ぐ俘虜国籍を異にして | 船水以南 |
北極光巨いなる詩を真夜に書く | 船水以南 |
霜夜来し車輪カンデラに明暗す | 佐久間木耳郎 |
おろしあの夏は短き桔梗かな | 佐久間木耳郎 |
日焼けせしスラヴ乙女と泥炭掘る | 佐久間木耳郎 |
楡の花ちりつぐ白昼のコルホーズ | 佐久間木耳郎 |
伐木の年輪黄なり朝曇り | 小沼正俊 |
帰還
冬涛に迫り母なる大地あり | 船水以南 |
はなやかに時雨るる海に帰り来し | 佐久間木耳郎 |
船水以南
1914-2003 船水清 昭和21年1月ソ連抑留、1947年12月帰還。
1920- 佐久間英弌 敗戦時予備役少尉。1947年1月復員後「雲」同人。帰国後の句
青葡萄おのが翳りの中に澄む
妻受胎春かすかなる朝桜
小沼正俊
1920-2009 哈爾濱学院で俳誌『韃靼』の編集に携わる。1950年帰還、青森県三本木高校長を経て青森大学助教授。1988年に『大陸俳句の青春と軌跡 韃靼』刊行。
佐藤青水草
寒夕焼煙草賣吾子と街に逢ふ
手巾賣る憂愁夫人春の泥
満州電業白城子事務所長、敗戦により新京、ハルピンに潜行漂泊して昭和21年10月に斉々哈爾に居た妻子6人と共に、原爆後の広島に引揚げた。帰国後の句
ふるさとは瓦礫鉄骨冬日和
食に飢え文学に飢え冬麗ら
かたつむり酪農刻を違わざる