ハルピン俳句

中国黒龍江省にハルピン市がある。其処は東洋の風土と西欧の文華とが渾然と融化して、「東方の巴里」と呼ばれた。ここには凍江の橇があり、パスハの鐘声があり、百夜の音楽がある。
「吾れ等はこの風物に浸り、その行事に哺まれて、文学の成長をつづけて行く。われ等は経から、緯から、このハルピンを眺めている。そしてこれを如何に文学的に表現せんかの研讃をつづける。観察し表現し、そしてその経度のもつ、また緯度のもつ生命の特徴をうたわねばならぬ。」    韃靼 東経北緯 佐々木有風

最初の ハルピン

昭和2年

月夜雨またも浴びたる障子かな

俳句正道としての温故知新の渾然たる句境そのものの慥かさである。磐石の据わりを見せている裡に、澄んだ純乎たる詩の香味が溢れている。(蛇笏)

ささ啼や大望の身のふところ手

三十五歳、東拓支店長として、あれこれ夢を持っていた時代だ。と謂つても決して奈翁や由比正雪の様な大それた望みではない。只、漠とした大陸への憧れ、さうした夢であった。そして昭和3年にハルピン支店長に転勤を命ぜられ、勇躍して大陸への旅に登った。(有風)


大正15年12月26日に大正天皇が崩御し、昭和へと改元される。佐々木有風は大正6年に東洋拓殖株式会社に入社して、昭和2年、旧朝鮮全羅北道益山裡里にある東拓裡里支店長であった。東拓は旧朝鮮で土地の取得と、日本農民の殖民を事業とする国策会社で明治41年に設立された。大正4年の対中国「二十一ヶ条要求」により、東拓の事業範囲が満州にも拡大され大正8年に哈爾濱に支店を設け、不動産金融を始めた。
「ささ啼」は鶯が藪の中で鳴くことで冬の季語。

ささ啼や大望の身のふところ手

昭和3年

唄はざる葦刈船の一農夫

昭和3年6月4日早朝、奉天近郊の皇姑屯(こうことん)の京奉線と満鉄線が交差する場所で満州軍閥の張作霖が乗る特別列車が爆破された。関東軍参謀河本大作大佐が、国民党の犯行に見せかけて行った謀略であった。易幟革命によって抗日運動が盛んになり、中国大陸を蔽い日本が太平洋戦争に突入する時代が始まる。
9月に裡里で俳誌『朝雲』が創刊されて飯田蛇笏と佐々木有風が選者となる。表紙は佐々木林風画である。2ヶ月後の11月に有風は哈爾濱支店長に任じられ、12月2日に出発する。

綿毛の群れ行く冬木どこまでも

妻のカツヱが南満州鉄道から見える風景を詠む。

俳誌朝雲

昭和4年

媚びよれば鳴るは春夜の耳環かな

ハルピンは東洋の風土と西欧の文華とが渾然融和しいる。昼は教会の鐘がなり、夜はキャバレーの灯がきらめく。その灯の下では鼻の大きなロシア人と翡翠の耳輪をした姑娘とが閃く杯を挙げて居る。(有風)

耳環はイヤリングである。大正9年に数万人の白系ロシア人が北満州に逃げ込んできた。「日本人の数は特殊業者を加えて総計3800名というのだから、お互い同士の行動や懐ろ勘定など手にとるごとく判るので、まあ親類づきあいの様なものだった。こうした中に日本の北方政策を考えて勉強していた日露協会学校があった。(有風)

ハルピン駅
ハルピン駅

醉ひさます人の往き来や春夜星

キタイスカヤと云ふのは支那街という意味のロシア語でハルピン第一の繁華街です。綺麗な切石で舗装されて南北に走り、道路の両側はショーウィンドウの妍を競って、毛皮商、洋品店、食料品店、レストラン、バー、キャバレー、ホテル、劇場、百貨店に及ぶ西欧的建築が軒をつらね、三十の人種が卍巴に交錯して生活していた。足の長い唇の赤い露西亜美人が盛んに往来して、その形の良い脚には後ろから行く人が全く見とれた。千数百米に及ぶこの街の北端には七百米ほどの河幅を保ちつつ、西から東に悠々と流れるスンガリーが横たわっている。(荒毛達朗)

キタイスカヤ通
キタイスカヤ通


楡の錢散り敷く道ぞ八方に

華麗な塔、素朴な楡。哈爾濱の風土的体臭は、この二つの蒸発のもつれあひである。春空にさし出た枝の焦茶色の楡の花の点々。晩春、初夏の舗道に、また若人の帽子の上に音もなく降る楡の銭の緑。これが無かったら哈爾濱の息吹きはない。ハルピン市が緑の町の賛嘆に値する所以は、楡の樹々たちが寒さに強いことと、その活着率の良いことに負うている。そして華麗な春に焦茶色の花をつけるなどといふ渋さを見せながら、玄冬素雪の朝には赫奕と万朶の樹氷と燃え出づるなど楡の性格はほほえましい程度のつむじまがりでもあるのだ。(有風)

中央寺院
中央寺院

昭和5年

クリスマス踊り子サロメべろんべろん

ハルピンでは3千人余りの日本人と、革命のロシア帝国を脱出してきた五万余りの白系露人が、五十何万かの中華民国の市民の中に雑つて暮していた。本国を持たぬ白系露人はみすぼらしい生活であり、旧ロマノフ王朝の将官が、そちこちの守衛になったり、客賓の有名な音楽家が地下室のキャバレーで踊り娘のためにボロンボロンのピアノを叩いて日常を送って居た。露人の娘は大抵キャバレーの踊り娘となって希望なき日常を送っていた。そうした暮しだけにキャバレーでの仇名も、カチューシャと薄命の女を気取って見たり、詩人らしくサッフォーと名乗ったりしていたが、その中で熱情に生きるのだとサロメと云われている女が居た。クリスマスイブにウオッカをあふるごとに、すっかりべろんべろんの酔態で奔放に振舞つていた。こんな句が喧々囂々(けんけんがくがく)の批評の的となった。俳句とは或種のマンネリズムの埒の中でぐるぐる廻りをすべきものと思われてゐた時代だつたからだらう。(有風)

クリスマス踊り子サロメべろんべろん

蜻蛉の空にさざなみあるごとし

日盛りも過ぎた清澄な秋の日がこの蜻蛉の群に放射している。舞い飛ぶ蜻蛉の、陽光に対する一定の角度に応じて、瞬間その翅が光輝く。
(河野喜雄 有風論 俳句新潮 第2卷第1号昭和27年)

佐藤由紀子氏の仏語訳
Les libellules. Ne font-ils pas des rides dans le ciel

蜻蛉に空にさざなみあるごとし

霾天の城市の春の駱駝かな

霾(ばい)は地上のものが埋まるほど、土が雨のように降る中国大陸の気象現象で、日本に飛来したものを黄沙と呼ぶ。ハルピンの春、黄沙が舞う街を駱駝の隊商が歩んでいる。

韃靼に身はニタ秋の生身かな

盂蘭盆會の晩の句である。この頃の哈爾濱は日本の國力が影をひそめて居た時代である。「はるけくも莱つるものかな」といふ感傷に憑かれがちで、できあがった句

昭和6年

燈台は白くかなしき牡蛎の宿

牡蛎料理を出す海辺の侘びしい旅亭。窓から海中に突き出した岬が見える。天は青く、海は青藍、燈台が白々と輝いている。悲しみのいろである青の中でしろの燈台は一層悲しみを強調している。そして牡蛎の殻も白い。(言葉の魔術を探る 河野喜雄)

噴水に花薔薇もろくなりにけり

川端康成の作品のように繊細である。「伊豆の踊り子」に流れてゐる叙情精神をもっと都会的に、 近代人の感覚で歌つたものであらうと想像している。(現代の俳句 岩田潔)

松花江きよらに四方の恵方かな

韃靼に棲めばいづち恵方ともわかたず、ひそかに思いけらく雪に浄められたるこの大平原みな我が民族の発展すべき恵方なりと、即ち東西南北を拝して歳旦の儀となす。(牡蛎の宿)恵方はその年の干支をもとにして決める縁起の良い方向。

燈台は白くかなしき牡蛎の宿

昭和7年

人獣の相搏つ露の壁画かな

「言葉の魔術士」の言葉が秘められている。壁画は人獣相闘図であって、恐らくエジプト、アラビア、乃至ギリシャの古典であって、初期のレアリズムの手法に拠って、逞しい古人の裸形を描いたレリーフか何かであろう。「露の」であるから早朝か、夕食後の大分更けてからである。作者は深々と肱掛椅子に倚つて、パイプ片手に朝ならば珈琲、夜ならばウヰスキイを啜っている。そして玻璃戸を通してひたひたと感ぜられる湿冷の記につつまれながら、静かにこの古代風の壁画に魅入っているのである。(言葉の魔術を探る 河野喜雄)

乳のごとく四月雨ふる大地かな

有風は4月に朝鮮大田(だいでん)東拓支店長、9月に東京に戻る。哈爾浜在2年半であった。3月に満州国発足。8月に松花江氾濫して大洪水、哈爾浜罹災家屋約20万戸、防水工事が始まる。

昭和9年

眼のうちの泪まばゆき小春かな

11月17日母チヨ死去、81歳

昭和10年

むらさきの暮天に蘆の折れにけり

暮天に蘆の折れてゐる。まことに単純至極である。然し句の深さ、色彩の純粋さに到っては何と形容したらいいのであらう。一見放膽の如くして、驚くほど肌理の精い藝である。(岩田潔 現代の俳句)

光陰が穢せし雪に天ンの東風

颯爽としている句である。「天ンの東風」が甚だ良い。「光陰が穢せし雪」と、かう来ると、下五    に余程昂然としたものを据えないと、竜頭蛇尾になってしまう怖れがある。そこへ「天ンの東風」だ。これで完全に生きている。(岩田潔 現代の俳句)

昭和11年

つんどらの遠き谺をききとむる

松花江の沿岸に立って北方に拡がる曠野を見ているとその寂寞の彼方から微かな物音が聞こえてくる。地の果てに棲むオロチョンの鞭の音か、冬帝の靴の先に踏まれて一夜にして堅氷と化する川の呻りか、オーロラの光りは、さうした一切のものを人間の目から隠す充分な力を持って縹渺としてゐた。(有風)

ツンドラは永久凍土。谺はこだま。オロチョンは興安嶺周辺に居住する民族。2月26日早朝、大雪の東京で数百名の兵が、政治家、重臣たちの多くを暗殺した。

木霊棲む断崖もちて江凍てぬ

西は大興安嶺、東は小興安嶺の裾を迂曲する黒龍、松花の流れは凍てては冬のよき交通路とはなるのだが、断崖だけは禿鷲と木霊の領国として人間の登攀を許さぬ角度をもって屹立している。(有風)

畔つくること影つくる春日かな

いちぼうの広野、春日の平面。勤勉ではあるが租笨農業しか知らぬ農民が犂鋤をつけた馬と共に現れる。その犂鋤が鋤き返して作ってゆく幾条の畔の平行線、それだけがこの広野で影と呼ばれるべき存在なのだ。原始的メカニズムから美しい油絵が生まれる。

牡蛎の宿
牡蛎の宿 昭和9年

昭和12年

満州国政府と関東軍は満州での製粉工業を統制し、生産能力を高めるため、昭和9年に日満製粉株式会社を設立、本店はハルピンである。有風は4月に日満製粉事務所長となる。10月、ハルピン学院に文学研究会「黒水会」ができ、12月に最初の句会が国際飯店で開かれる。出席者は上西行乞、満鉄の桂秋草、有賀淡水、竹崎志水、青木郊水、久保木信也、村山孚陽。
7月7日、北京郊外で盧溝橋事件が勃発、8月、日本軍が上海を攻略、12月南京占領。抗日ゲリラが頻発する。

火田の婦双乳垂れて夕焼くる

北鮮、火田民。男とも女ともわかぬ生活力の逞しさ。短い上衣 の下から除いている豊満な乳房で女といふことだけは判るのだがー長白山系の大夕焼ける火田民は朝鮮北部で焼畑農作をする農民。

佐々木有風
佐々木有風
1892-1959

目次
最初のハルピン
2度目のハルピン
引揚
戦後

付記
作者名が記されていない俳句(茜色)は佐々木有風作である。

【PREMIUM】
シベリア抑留 の俳句
信之論 高杉晋一
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香水を詠む