キタイスカヤ街
松浦洋行 屋上から見た キタイスカヤ 街と向こうに 松花江 を望む。

2度目の ハルピン

昭和14年

4月に有風は日満製粉哈爾浜本社専務に就任する。家はハルピンの北郊、松花江をのぞむ江沿い南側の高みに或るハルピン市警察街51号。ハルピン学院の「韃靼」学生はしばしば有風家に来て俳論や文学論を話していた。
5月11日、外蒙古との国境に近いノモンハンで蒙古軍と日本軍の小規模な紛争が起き、これがソ連軍と日本軍の本格的な戦闘に拡大する。圧倒的な物量のソ連軍の機械化部隊に日本軍は惨憺たる敗北を喫する。

毒鬻ぐカインの裔の避暑豪華

主に阿片の売買で巨富をなしたユダヤ系の商人、夏ともなれば松花紅の対岸、太陽島の別荘で豪華な一夏を送ることを誇りとしていた。聖書にあらはれた猶太の民とは全然違う生き方で。(有風)

2月に俳誌「韃靼」が創刊され、有風は句評を担当する。
右は「韃靼」昭和18年5月号表紙。長谷川朝風画のハルピン風景、モデルはバイコフの娘。

汽車喘ぎあな五百重山凍てはてぬ

日満製粉は興安嶺の西に三千町歩の農場を持って工場自給用の小麦を栽培していた。ここに行くには鉄道に乗って興安嶺を越さなければならない。興安嶺は南北1000キロメートルにおよぶ丘陵で、平均高度1500メートル。五百重山(いほえやま)は幾重にも重なる山。

韃靼表紙

昭和15年

有風、哈爾浜日日新聞の俳句欄の選者となる。4月12日、飯田蛇笏が哈爾浜に来て、翌日鉄道倶楽部で大俳句会が行われる。

サポールの天にかかりて柳絮とぶ

蛇笏

白露の娘瞳の水色に夏きたる

蛇笏

7月盆の十五日、山口青邨が哈爾浜に来てホトトギス句会がヨット倶楽部で催される。松花江河畔での燈篭流を見る。

夕焼けは一瞬にさめ流燈会

青邨

有風評「橋本関雪(日本画家の筆だね。」

青高粱は夜を朝としぬ展望車

青邨

明け易い夜はしらじらとして来た。窓外に見る畑は見ゆるかぎり高粱である。夜のとばりのさめるがままにひろがって行く青一色の高粱(きび)である。それは爽快無比のものであった。(青邨 山雨海風)

あじあ号
大連とハルピン間を満鉄の特急「あじあ号」がつないでいた。

菊揺れて女が揺れて食堂車

聲として喜雨を讃へぬなかりけり

大陸の七月八月の暑さは言語に絶する。それだけに喜雨の欣びも日本に倍する。雷電を伴ひ、瞬時にして街路が川と化し、植物が蘇り動物が蘇る。そして嘘のようにカラリと晴れた後では家々のベランダに現れた人々が「いい、おしめりでしたね」と祝福しあふ。

工場の闇は立體花火は黄

ハルピンの七月一日には市制施行記念行事として毎年花火大会が催された。松花江の中州での花火や仕掛花火の種種相を見んものと江畔に集ふ日本人、満州人、白系露人等数は数万人を越え、ゆっくり眺める場所を占めるためには昼のうちから出かける必要があったのだが、松花江畔に位置する日満製粉は花火大会当日江岸に画した八階建工場のて屋根に桟敷を設け客を招待してサービスを行っていた。(桂秀草)

東風の塔パスハの鐘を撞くが見ゆ

パスハはロシア語の復活祭を意味する。春の新月出現後の第一日曜をもって定められている。ハルピンに居住する白系露人にとって年中最大の休日。その前夜は多数の信徒が協会に参集して、幾百の蝋燭をかかげ厳粛盛大な祈祷をささげる。午前零時に達するや寺院の尖塔のあたりから鐘がたからかに鳴りひびき、その下の礼拝堂では、牧師の「基督は復活したまへり」とつぶやく。そのつぶやきは次第に大きくなって堂をあふれ、歓喜と興奮のの坩堝と化す。(荒毛達朗)

聲として喜雨を讃へぬなかりけり

春空の青くかなしき浮氷かな

春の新月の第一日曜の復活祭(パスハ)の頃、スンガリーは解氷期である。結氷するときの流氷と、解氷するときの流氷とでは、その趣が異なっている。軋みながら或は早く或はゆるく、或は盛り上り或は水中に没しつつ流れて行く流氷、迷子のように岸辺にとまっている浮氷、これと対照的に青く澄み渡って沈黙する春空、人生と運命の関係がふと脳裏をかすめて、静動の比較の中に生きとし行けるものの悲しみを感じる。(荒毛達朗  『雲』昭和29年4月号)

チブス猖獗月光奮の十四日

哈爾浜で赤痢、腸チフスが流行して日本人罹患者が500名を越す。関東軍細菌戦部隊の謀略と言われている。

昭和16年

有風は日満製粉哈爾浜本社専務となる。ハルピン広播電台から「俳句の作り方」を放送する。4月、哈爾浜学院黒水会が句集「樹氷」発行。

白夜光陸の人魚は樹に石に

砂を巻き上げる強い風が吹いて、柳絮が飛び始めると、まもなく夏が来る。青空に聳える楡の梢から初夏の陽を浴びて実が歩く人たちの肩に降りかかるようになり、やがて悩ましい白夜が訪れる。松花江(スンガリー)岸や対岸の太陽島では、ロシア娘が涼を求めて白夜の中を散歩していて、人魚のようだ。(有風)

白夜光さみしとさめて居たりけり

スラブ民族の享楽を極める夏の夜、中老の日本人たちは散歩し、読書し、そしてベッドに入るだけの生活だった。茫々たる白夜光の中に淋しく東洋の将来を考えながら。

松花江河畔
松花江河畔(哈爾濱物語 杉山公子)

大凍江天の唖の神とあり

冬将軍の君臨する間、渺渺たる太松花江が丈餘の堅氷に閉されて仕舞ってトラックが通ひ砲車が通る様になる。夕ぐれこの河畔に佇てば一鳥啼かず全く寂寞たる天地の陶畫である。
遊子はここに興亡を考へ、運命を思ひ神を想ふ。そのことによって一層深められてゆく寂寞感である。天談らず江答へず、大自然の唖の神が只黙せよ。そして人間に物想はしめよと命じている景物詩である。(有風)

鶴唳けりアルカリ地帯霜かたく

鶴、九皐に唳く様なアカデミックのものではない。ハルピンから西走する鉄路の両側、アルカリ地帯と呼ばれている不毛の曠野、夏は塩を噴いて白く、冬はいち早く霜を置く地帯。(有風)

九皐(きゅうこう)は深い沢である。大興安嶺の東、東北平原の西側はアルカリ地帯である。12月8日に太平洋戦争が始まる。

昭和17年

やや鯰身じろぎ森羅なべて春

土中で冬眠して越年する鯰は、いと微な季節の気温の上昇を感じてみじろぐが、未だ生物として の生命を回復しない未覚睡の状態にある。しかし鯰は今四季の進行を感じているのである。ここ に自然の背後の壮大な天体の輪廻が描きだされる。…目にも止まらぬ土中の身動きはこれを始発 電体として「森羅の春」となる。正に法華経の「森羅万象、一法之所印」である。(象徴の杖 関 川左経)

昭和18年

啓蟄の舌をふるはす爬蟲かな

煦々たる春光、駘蕩たる春風を孕んだ大気のうごきに、蟄居の蟲けらも、いくぶんわくわくした気持ちで地上世界に娑婆の風をうけようとするところに著しい季節を持つ。蟄したる爬蟲が今やその外気を望んで「舌をふるはす」の情にある。この「舌をふるはす」が実に一作の生命で、深く玩味すればするほど、笑っても笑ひきれない愉しい魅力である。(飯田蛇笏 現代俳句の批判と鑑賞)

冬薔薇の棘のするどき虚空かな

運命にだまされつづけ春着縫う

5月に「韃靼」が「俳句満州」に統合される。「韃靼」俳句の幾つかを「韃靼」 小沼正俊から紹介する。

料梢の運河を四方に溶鉱炉

西島麦南

遠雷に異属睦める湯壷かな

中川宗淵

大霧のあしたひそかに学徒征く

森川遊子

流燈や韃靼の水とこしなへ

野島一良

キタイスカヤの宵美しき封江期

竹崎志水

街四温パンの箱馬車通ひけり

桂秀草

四迷忌やわが青春の露語辞典

合志洋

西島麦南(1895-1981)は「雲母」俳人で、岩波書店の校正者。
中川宗淵(1907-1984)は臨済宗の禅僧、俳人、龍沢寺住職。
森川遊子はハルピン工業大学学監、終戦直後処刑された。

昭和19年

11月に句集『四温光』刊行。

青黴の春色ふかし鏡餅

睦月とは固体よりも液体を摂る月である。神棚に斎きまつった鏡餅など二十日といふ声を聴くまで忘れ果てて居る。そして光琳描くところの巨松青苔のような黴に駭くと共に春の嫩緑を思い浮かべる半歳冬眠のハルピンの生活である。(有風)

神の手が突っ放したる橇崖に

崖にひっかかっている橇がある。奥地から引揚げの途中の出来事らしい。運命の神に見放された人たち。余りにも救わねばならぬ不幸の人たちが多過ぎたので神の手も廻りかねたのであらうか。

昭和20年

劫初の野牛と人ゐて初日出づ

興安嶺から蒙古にかけては人間の数より家畜の数が遥かに多い。原始荒涼の牧野、わずかに人と牛ととを点ずる地平から昭和二十年の初日が昇る。天地開闢を思わせる清潔な初日だ。(有風)

佐々木有風
佐々木有風
1892-1959

目次
最初のハルピン
2度目のハルピン
引揚
戦後

付記
作者名が記されていない俳句(茜色)は佐々木有風作である。


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シベリア抑留 の俳句
信之論 高杉晋一
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