プロセルピナ

プロセルピナ

はるか かなた、この壁に つめたい慰めをなげる
光はーただのひとときーとおい、わたしの
宮殿のとびらに、射したのだ。
はるかに、とおい、花咲くエンナの野原は、
いちど味わうと 地獄に釘づける、このおそろしく
いまわしい果実のために。はるかに とおい
あのなつかしの空は、つめたい灰色の冥府から。
はるか、ああ なんと この夜は遠いのだ、
なつかしの むかしの 日日からは……
「ああ、かわいそうに、あわれなプロセルピナよ 」
D.G.ロゼツティ 松浦暢訳

一年中、春の森でプロセルピナは百合や、すみれの花を摘んでいました。ある時ハデスに略奪されて冥界で妻となります。プロセルピナの母は娘を取戻してほしいとゼウスに頼みます。ゼウスはプロセルピナが冥界にいる間、何も食ぺてはいけないと条件を出します。しかしプロセルピナは冥界で柘榴の汁を吸ってしまい、一年の半分を冥界で、半分を春の使者として大地で暮らすことになります。 ロセッティの『プロセルピナ』のモデルは、1857年にロセッティが会ったジェーン・バーデンである。彼女と、ロセッティと、ウィリアム・モリスは後に三角関係となるが、1859年にジェーンはモリスと結婚する。1860年にロセッティはリジーと結婚するが、リジーは1862年に亡くなります。1868年頃、ロセッティは眼を病んで絵を描くことに自信を失い、リジーの墓から埋葬した自分の詩集を掘り出して、これを非難される。後のロセッティの絵には憂いが見える。1871年7月にロセッティはモリス夫妻とオックスフードシャーにある古い屋敷のケルムスコット・マナーを借りる。ジェーンは、ケルムスコット・マナーでロセッティと暮らし、ロンドンのクイーン・スクウェアでウィリアム・モリスと暮らすが、1874年にロセッティはケルムスコットを離れる。ロセッティが『プロセルピナ』を描き始めるのは1872年である。

ウィリアム・モリス

王妃ギネヴィア

肩にあつまる薄紅の衣の袖は、胸を過ぎてより豊かなる襞を描いて、裾は強けれども剛からざる線を三筋ほど床の上までひく。ランスロットはただ窈窕として眺めている。前後を截断して、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える 。
『薤露行』 漱石

ウィリアム・モリスもジェーン・バーデンをモデルにして『ギニヴィアの王妃』を描く。
アーサー王の妻ギニヴィア王妃は、王が催した騎士の試合でランスロットと出会って、一目惚れして恋に陥る。ある時アーサー王が2人の関係に気付いてギニヴィアを火あぶりの刑に処すと決める。処刑を知った鯉ランスロットはギニヴィアを救出した。ギニヴィアは尼となる。

英国留学中の夏目漱石はナショナル・ギャラリーを見学して、そこでターナーブレイクミレィロセッティの絵を観る。
化学者の池田菊苗と一緒にカーライルとロセッティのチェイニーウォーク16番のチューダーハウス家を見学する。
テイト・ギャラリーではウィリアム・モリスが描いた『ギニヴィアの王妃』を観る。 ロセッティが描く『プロセルピナ』と『ラ・ピア・デ・トロメイ』の女の顔と、漱石の文が表現する顔は同じである。プロセルピナは、厚めで少し上を向けた上唇と赤い口紅、白日夢の眼、とがったあご、少し長めで丸みを持ったうなじ、はっきりしている顔立ちである。
『草枕』の那美は、
くちは一文字に結んで静かである。眼は五分の見いだすべく動いている。顔は下膨の瓜実形で、豊かに落ち付を見せているに引き易えて、額は狭苦しくも、こせ付いて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮ている。鼻ばかりは軽薄に鋭くもない。遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。…どうしても表情に一致がない。悟りと迷いが一軒の家に喧嘩をしながら同居している体だ。この女の顔に統一の感じがないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。
『草枕』 夏目漱石
『虞美人草』では藤尾の
波を打つ廂髪の、白い頬に続く下から、骨張らぬ細い鼻を承けて、紅を寸に織る唇が----唇をそと滑って、頬の末としっくり落ち合う顎が----顎を棄ててなよやかに退いてゆく咽喉が----次第と現実世界に競り出してくる。「なに ? 」と藤尾は答えた。 昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の返事である。
虞美人草 夏目漱石
江藤淳も『決定版 夏目漱石』で藤尾のイメージはプロセルピナであると言っている。さらに
小野清三様と子昂流にかいた名宛を見た時、小野さんは急に両肘に力を入れて、机に持たした体を跳ねる様に後ろへ引いた。未来を覗く椿の管が、同時に揺れて、唐紅の一片がロゼッチの詩集の上に音なしく落ちてくる。全き未来は、はや崩れかけた。
『虞美人草』 夏目漱
漱石がロセッティやバーン・ジョーンズの絵画と感応し、ロセッティが深く染み込んて雅文で描いたのが『薤露行』、『幻影の盾』、『草枕』、『虞美人草』である。
ジェーン・バーデン
ステンドグラス モリス

佐々木 梗 横浜市青葉区
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