ロマンチック凾館
18坂道を訪ねる
iー愛ロマンチカ
   
函館山の麓には、海に向かって多くの坂道があり、
その道沿には
明治末期から昭和初期にかけ建てられた
教会、領事館、商家などが数多く点在している。

麓に坂道が多いのは、函館が
箱館といわれた、
開港間もない時代文化の中心が函館山ふもとの
西部に集中していたことによるもので、
当時の函館を偲ばせる名前が現在も残っている。


2006.11.10
この坂道を一つひとつ訪ねて見た。
訪ねた坂道は単なる坂道ではあるが、
いろいろな表情を見せてくれた。

ただあいにく写真技術が拙い上に、
天候もあまり味方してくれず、
その美しい姿をご披露できなかったことを
残念に思う。
     
宿泊地の湯の川温泉から路面電車にのり、終点凾館どつく前駅で下りてちょっと戻り
右折して坂道を凾館山に向かって約300m登る。

    
今来た坂道が函館最西端の魚見坂で、西小学校手前で振り返ると遠くに凾館湾の青い色が映える。
魚見坂(うおみざか):函館がニシンンをはじめ漁業の最盛期だった時代、この坂から魚群や豊漁船を見下ろすことができたので、そう呼ばれた。最盛期には、生きた魚がピチピチ跳ねて光って見えたという。
西小学校横の通り、次の坂道へ進む。
  
次の坂道は幅の狭い船見坂で、やはり遠くに函館湾が見える。
船見坂(ふなみざか):港に出入りする船がよく見えたところから、名づけられた。
次の坂道へ進む途中に、由緒あるような白い土蔵がなんとなくみすぼらしく、たたずむ。
   
3番目は千歳坂で、ちょっと下った右側に、上部に背美鯨の模型が据えられた鯨族供養塔がある。
函館は捕鯨とは縁が深く、1857年(安政4)幕府はジョン万次郎を函館へ派遣して捕鯨指導をさせている。
千歳坂(ちとせざか):近隣にあった神社の松の木(千歳松)に因み名付けられた。
    
次の坂道へ行く道の右側に、1655年(明暦元)創建の実行寺(写真左)東本願寺北海御廟がある。
実行寺には、函館戦争で市中に放置されたままになっていた旧幕府軍戦死者の遺体が葬られている。

   
4番目の坂道は幸坂で、ここからも遠くに凾館湾の船舶が見える。
幸坂(さいわいざか):1875年(明治8)までは近くにある山上神社から「神明社」といっていたが、坂下の湾岸を埋立て幸町(現弁天町)ができたので、坂の名前も幸坂となった。
次の坂道への通りを、進む。
   
5番目は姿見坂で、心なしか坂道が色っぽく見えてしまう。
姿見坂(すがたみざか):坂上にあった遊郭にちなんでつけられた名前。函館の遊郭は、1803年(享和3)料理茶屋として出願・許可されたのが始まりで、のちに「山ノ上遊郭」と称し、開港にともない規模が拡大した
次の坂道への通りを、進む。
   
6番目は常盤坂で、これまでと違いキリリとした端正な表情を見せる。
常盤坂(ときわざか):坂の上にあった松の大木にちなんで名付けられた。
次の坂道への通りを、進む。
   
7番目は弥生坂で、なんとなく女性ぽっい雰囲気が伝わってくる坂道に感じてしまうが、如何ですか?
弥生坂(やよいざか):市街地の1/3を焼き尽くした昭和9年函館大火後に「春のような繁栄」を願って名付けられた。
次の坂道への通りを、進む
   
8番目は東坂で、前方に木々など遮るものがないせいか湾が広く見える。
東坂(あずまざか):当時の浄玄寺(現東本願寺北海御廟)近くにあった通称「東の坂」の名残。
元町公園正面前の次の坂道への通りを、進む。
   
函館山をバックに、きれいに整備された元町公園
正面階段を登り、左側に「
箱舘奉行所跡標識、正面に奧に旧函館区公会堂
   
写真左から順に、正面左手奥に「旧開拓使函館支庁書籍庫」、正面左に「旧北海道庁函館支庁舎」、
正面奧に「
旧函館区公会堂」、正面左手に「函館四天王像」。
函館4天王とは、函館の繁栄と市民精神の源流となった、
今井市右衛門、平田文右衛門、渡邉熊四郎、平塚時蔵の4人。

   
元町公園正面には、9番目の広くてきれいな石畳基坂
函館を代表する坂道で、かっては街の中心地で、松前藩時代には亀田番所、幕府直轄時代には箱館奉行所、
明治になってからは開拓使支庁、凾館県庁、北海道庁の支庁などが置かれた。
基坂(もといざか):明治にこの坂下に、凾館の道づくりの里数を測る基点となった里程元標識が建ったのが、名前の由来。
紅葉の道を通り、次の坂道への通りを、進む。
   
10番目は日和坂で、どこにでも見られる庶民的な道のよう。
日和坂(ひよりざか):港を一望できる空模様がよく判断できたことから名づけられた。
次の坂道への通りは、何か昔の宿場情調をかもし出している石畳の通りで、ふと懐かしく思う。
  
通りの右側の坂道の突当りには、1135年(保延元年)建立の北海道最古の神社という船魂神社があり、
義経が津軽から蝦夷へ渡る途中遭難しそうになったところを船魂明神の加護で無事凾館に到着した,
という言い伝えを持つ。

   
11番目は石畳のきれいな八幡坂で、凾館市街を眺める坂として最高のロケーションにあると言われる。
八幡坂(はちまんざか):昔この坂上に凾館八幡宮があったとことに因んでつけられたもの。
   
次の坂道への通りの右側には、日本で初めてギリシャ正教を布教した凾館ハリストス正教会(写真左)
左下にはローマ教皇寄贈の祭壇や聖像がある
カトリック元町教会がある。
   
12番目の大三坂は、教会や洋館が並ぶエキゾチックな石畳の坂で、「日本の道百選」に選ばれている。
この坂道以降は直接凾館湾を見ることはできない。
大三坂(だいさんざか):坂で宿を営んでいた大三義兵衛の名前に因んで付けられた。
   
次の坂道への通りの右側に十字架をイメージした外観で有名な凾館聖ヨハネス教会
凾館ハリストス正教会と凾館聖ヨハネス教会の間にある細長い急な坂道は
チャチャ登りという。
チャチャはアイヌ語で「おじいさん」の意で、腰を曲げて登らなければならないほど急な坂道という意味。

   
13番目は二十間坂で、とても幅広くかつ石畳敷き坂道で、どことなく格式を感じてしまう坂道。
坂の登りきったところに「二十間坂道」と刻まれた
石碑がある。
二十間坂(にじゅっけんざか):道幅が約20間(約36m)あることから名づけられた。
   
14番目はロープウエィ山麓駅手前にある南部坂で、下った左側に美しい洋館風の元町壱番館があり、
その前に坂道の由来ともなった「
南部藩陣屋跡石碑が建っている。
南部坂(なんぶざか):江戸幕府から北方防衛を命じられた南部藩の元陣屋がこの坂道にあったことに由来
   
15番目は谷地坂であるが、この坂道を探すのに大変苦労したほど小さな坂でまた地元人も知らない。
地坂(やちざか):遊興地として有名であった谷地頭に行く坂であったことから名づけられた。
   
16番目の護国神社坂は、スマートな貴公子というタイプで、遠くには湾でなく山並が見える。
護国神社坂(ごこくじんじゃざか):護国神社に通じることから名づけられた。
護国神社坂は別名
倒産坂ともいわれ、坂の両側に家を建てて門をつくると「不敬であり罰が当たり、かまどがつぶれる」と言われた。
   
17番目は護国神社坂の中ほどから右折して進むあさり坂で、唯一のひらがな名の坂道である。
あさり坂:数多くのあさり貝の殻が発見されたことから名づけられた。
次の坂道への通りの右側に、「石川啄木居住地跡案内板が立っているが、形跡はまったくなく看板のみ。
石川啄木居住地跡:故郷岩手県で一家離散した石川啄木は、明治40年5月に凾館に来てこの青柳町で借家住まいをしたが、8月に大火があり勤め先が焼けて失業してしまい、9月には札幌へ移住した。わずか4ヶ月の短い凾館住まいであった。
     「
凾館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
   
最後の18番目は青柳坂で、石川啄木の歌を知るとなんとなく悲しさが漂ってしまう。
坂道はこれで終わりで、1番目からの所要時間は約2時間30分。
青柳坂(あおやぎざか):青柳町へ向かう坂ということから名づけられた。
  
坂道を堪能して青柳坂を下り、市電通りに出て左折して進み、市電宝来町駅からJR凾館駅に向かう。
   
トッ
凾館山を登山する
ロマンチック街並を散策する
旅と旅行と