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この区間は、2013.4.18に歩いた。 ここでは、鎌倉街道・中道のスタート地点を、 県道261号線の茨城県古河市中央町2丁目2の丁字路として、いざ鎌倉へ向かった。 スタート地点までは、埼玉県加須市向古河の東武日光線新古河駅から、 いわゆる支道を通って到達した。 支道区間は、別途リンクで掲載してある。 なお、スタート時は、旧日光街道(旧奥州街道)と旧日光御成街道と一緒の街道となる。 (以下、本文では、全ての街道の「旧」を省略して記載している。) 日光街道は、約10年前歩いたところであるが、 当時は今回と反対方向の日本橋から日光へ歩いているためか、 風景もところどころしか記憶になかった。 ところで、4月に街道を歩いてこの10月にHPを完成させるまで、約半年。 街道歩きも、あの中山道のときのような情熱が薄れてしまったようで、寂しく思うこのごろ。 |
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経 路 | ||||||||||||
支道区間 「新古河駅〜旧街道スタート地点」 |
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本道区間 | ||||||||||||
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石畳の支道の突当りが、スタート地点県道261号線古河市中央町2丁目2丁字路。 なお、ここからの鎌倉街道・中道は、 日光街道(奥州街道)、日光御成街道と一緒の街道となっている。 日光御成街道:中世以来の鎌倉街道・中道を江戸時代に整備して作った街道で、日光街道の脇街道。徳川将軍が、日光東照宮へ社参する際に利用した街道。 本郷追分(現在の東京都文京区向ヶ丘)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流する。 |
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丁字路を右折し、きれいに整備された街道を南に向かう。 約300m先右側「陽明堂」店舗前に、「史蹟古河城御茶屋口門跡」碑。 御茶屋口門:江戸時代、徳川将軍が日光社参するとき、古河城が宿城となっていた。 入城のとき利用した道の入口がこの御茶屋口で、 「御茶屋口」は、 社参初期に将軍の休憩所として建てられた茶屋がここにあったことに由来する。 |
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さらに約300m進み、原町信号で鎌倉街道・中道は261号線と分かれ直進する。 信号から左手に分かれる261号線が日光街道で、コーナーに「日光街道古河宿」燈籠。 以降も同じであるが、ところどころで日光街道と同じ経路をたどるが、 こちらでは、鎌倉街道はマイナーの扱いとなっている。 古河庁舎前信号を通り、続く鴻巣信号で国道354号線を横断して進む。 |
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古河総合公園前、古河病院前を通り、 鴻巣信号から約2.5kmの「けやき平入口」バス停先の信号で左折する道路を横断し、 続く左折する道路を左折する。 約200m進み、右折する細い未舗装道に入る。 |
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これが旧街道?と思わせる道を道なりに、フエンス沿いに、右下に青果倉庫を見てさらに進む。 |
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その先の十字路を直進し、さらに先約150mのガードレールのある用水路の橋を渡り、 右手の車道に進む。 旧道は、車道の手前から左折するが、現在は建物などで消滅しているので、 ここでは車道沿いの歩道を進む。 |
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歩道を進み、約300mのところで舗装された細い道に入る。 この道が先に消滅した旧道で、約300m先でJR東北本線ガードを潜る。 |
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道は未舗装となり、 すぐ先で旧街道は駐車場から車道の反対側までの約200mが消滅している。 迂回するため、駐車場沿いに左手に進み突当り丁字路を右折して、車道に出て左折する。 車道を約100m進み、「古河市立第三保育所」前信号で横断して道の反対側に渡り、 すぐ、入口に石碑が立っている細い道に入る。 この細い道が、旧道となる。 |
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細い道を道なりに進み、交差点を直進し、ゆるい坂を上り突当りで車道に出て右折する。 この左手からくる車道は、先に分かれた日光街道で、ここで再度合流する。 |
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利根川堤防に向かって進み、 約50m先右側に、文字が風化して殆ど判読不可能な「房川渡と中田関所跡」案内板。 多分、この辺りは利根川の房川渡し場跡で、対岸には中田(栗橋)関所跡がある、 と記載されているのではないかと思う。 現在は、渡し舟がないので、 すぐ先正面の利根川堤防階段を上がり、堤防を左折して利根川橋を渡る。 |
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堤防から前方、 対岸の利根川橋から右手約200m辺りに、房川渡し場と中田(栗橋)関所があったところ。 堤防を進み、利根川橋を渡る。 対岸に近い所に、埼玉県との境界標識「茨城県古河市」が立ち、 これから先埼玉県(栗橋町)に入る。 |
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橋を渡り終え、道なりに右折し利根川堤防沿いに下る。 堤防の内側の、河川敷に栗橋(中田)関所、利根川に面して房川渡し場があった。 下り切ったところの八坂神社前信号で県道60号線を横断して左折して、 日光街道と兼用の60号線を進む。 |
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右側の八坂神社脇のゆるい坂の60号線を下り、栗橋宿に入り信号を直進する。 八坂神社:慶長年間、中利根川の洪水で多数の鯉と泥亀に囲まれた流れてきた神像が、 元栗橋の天王だったことから、これは神意と思いこの地に祀ってある。 本殿前には、鯉の形をした狛犬と亀の形をした狛犬が対になっている。 |
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立寄り:立寄りをするため、信号から少し先の横断歩道(写真右)のところから左折して 青色ネット(「遺跡の発掘調査」中囲い)沿い細い道に入る。 突当りの堤防法面に、 「栗橋関所跡『房川渡中田・関所』」案内板(写真左)と右側に「栗橋関所跡」碑。 栗橋関所跡『房川渡中田・関所』: 栗橋関所は、日光街道唯一の関所で箱根、碓氷と並ぶ重要関所。 利根川を越す要地「利根川通り乗船場」から発展した関所で「房川渡中田・関所」と呼ばれた。 関所位置は、前述の堤防内側の利根川のほとりにあったが、堤防改修で跡碑はここに移された。 |
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元の道に戻り、県道60号線を進み栗橋駅入口信号丁字路を直進する。 立寄り:ここで、静御前の墓を訪ねるため、信号から右折する。 道なりに約1kmの栗橋駅東口前にある、 「旧跡光了寺」と「静御前之墓」門柱の立つ小さな広場。 広場の右手に、「静御前の墓」案内板、左手奥に「静女之墳」墓。 ここは、日光街道を歩いたときも訪れた。 静御前の墓:京都の白拍子だった静御前は、 源平合戦で功績のあった源義経の寵愛を受けていたが、 その後義経は源頼朝の不興をかって奥州平泉藤原氏のもとへ落ちのびた。 静御前は、義経の後を追って京都を発ったが、途中現在の古河市で「義経討死」の報を聞き、 仏門に入り義経の菩提を弔いたいと京都へ引き返した。 しかし、病に倒れ1189年(文治5)9月15日この地の高柳寺で 22才で死去したと伝えられている。 この広場が、高柳寺境内の跡で、高柳寺はその後古河市中田に移転し名も光了寺と改めた。 光了寺には、 静が15歳のとき雨乞いの舞で後白河法皇から賜ったいう「舞衣」が伝わっている。 「静女之墳」墓石は、1803年(享和3)利根川氾濫の復旧工事を指揮した、 関東郡代中川飛騨守忠英が建立したもの。 余談:美人となるとついつい力が入り、長文になってしまいました。男の哀しさ? |
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元の栗橋駅入口信号に戻り、県道6号線を進み東3丁目信号(写真右)を直進し、 その先左側に栗橋宿の本陣を務めた池田鴨之助の墓のあるが顕正寺。 この寺院には、聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来像が安置されている。 |
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さらに200mほど先左側空地奥に、火あぶり処刑場跡に建てられた炮烙地蔵。 炮烙地蔵:栗橋関所破りをして火あぶりの刑で処刑された多数の人たちを憐れみ、 土地の人が火あぶりになぞらえて供養のため炮烙地蔵として祭ったもの。 突当りで、旧道は、左折する県道60号線と別れ、直進することになるが、 現在は国道4号線栗橋信号辺りまでの約300m区間が消滅している。 ここでは、迂回をするため突当り右端の細い道を進む。 |
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道なりに約100m進み、右側用水路を横断して左折しその先で国道125号線のガードを潜り 約100m先十字路を左折する。 |
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突当りで、国道4号線造成法面の丁字路に出る この法面の沿った細い道が旧街道で、 左手先約100mのところで4号線に接続する国道125線法面に突き当たる。 この地点が、先に消滅した旧街道との接続点。 右手の法面沿旧道のゆるい坂を上る |
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上り切って国道4号線脇駐車場広場に出て直進して大きな木の左側の細い道に入り、道なりに進む。 |
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約100m進み、右からの道が合流する手前(写真右)、左手民家の庭に「会津見送り稲荷」。 会津見送り稲荷:江戸時代、参勤交代の領主の先遣隊として江戸へ書面を届ける途中、 この地栗橋宿下河原まで来たところ洪水で道に迷ってしまった。 そのとき突然白髪の老人が現れ道案内をしてくれたため、無事江戸へ書面を届けることができた のちに、この老人が狐の化身とわかり、会津藩でお礼の神社を建て稲荷さまとして祭ったもの。 |
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道なりに進み、上り道となり両側の木立(写真右)を過ぎた左側に、 香取宮と八幡宮が併設されている川通神社(写真左)。 さらに進み、前方の国道4号線に向かって進む。 |
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国道4号線に近づくと、 歩道が消えて(?)なくなるためその延長上の草むらの中をかき分けて進み、 ガードレールを跨いで4号線の側道に出てすぐ坂を下り、久喜市小右衛門地区の側道を進む。 |
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東北新幹線ガード下を潜り、ところどころにある4号線乗降取付け道路の脇を通り、 工業団地信号の高架道路下を潜る。 |
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ひたすら4号線に沿って進み、 丁字路右角墓地に面して、栗橋宿と幸手宿の中間にあった一里塚。 一里塚の上には、昭和初期に近くから移築されたという弁財天堂。 その先で、小右エ門(南)信号の高架下を潜る。 |
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高架下の先で外国府間地区に入り、 しばらく進んでゆるい坂を上って一旦4号線に接近して下り、再び側道を進む。 側道に入ってから約3km地点(小右エ門(南)信号高架下から約450m地点)の丁字路を、右折する。 突当りに、約300年前から鎮座している電電社湯殿社合殿。 その手前から、左折する。 |
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一直線の道を進み、途中の分かれ道は直進して集落の中を通り、 道なりに進んで高須賀地区に入りその先で中川の堤防に突き当たる。 旧街道は、その延長上の約200m先の4号線高須賀信号辺りに接続していたようであるが、 現在は消滅している。 |
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迂回するため、ここでは左折して坂道(写真左)を上り4号線に出て右折し、 中川(写真中)にかかる行幸橋を渡り、その先で旧街道との接続点高須賀信号丁字路に進む。 |
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信号を直進して旧街道の4号線を進み内国府間地区に入り、左手に県営権現堂公園。 県営権現堂公園:桜の名所として有名な幸手権現堂桜堤には 、約1000本のソメイヨシノが1kmにわたって咲き誇る。 また、6月には色とりどりの紫陽花、9月には真っ赤に染まる曼珠沙華、 1月には白い可憐な水仙と、1年を通して権現堂桜堤を楽しめる。 公園外れの内国府間(北)信号を直進し、その先約500mの内国府間信号で、 左手に進む4号線と別れ旧街道は右手の県道65号線を進む。 |
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左側に、「日光街道」「(日光)御成街道」の標識が立つが、鎌倉街道の表示はない。 先にも述べたが、街道筋では「鎌倉街道」は全くマイナー扱いか、知られていない。 落胆もせず、先に進み北2丁目地区に入り突当り信号三叉路で右折して進み、 その先の突当りは道なりに左折する。 |
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幸手商店街の中を通り、幸手駅入口信号交差点を直進し、左側の高札場跡に神明神社。 神明神社:1755年(宝暦5)、伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社。 境内の菅谷不動尊は、たにし不動尊ともいわれ、 眼病の人が、たにし描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益あるといわれている。 その先の、志手橋信号の分かれ道は、右手の県道65号線を進む。 |
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まっすぐな道を進み、東武日光線踏切を横断し、その先約200m右側に神宮寺。 神宮寺:源頼朝が、奥州征伐の折りこの地で鷹狩をし、戦勝を薬師如来に祈って開基した寺。 さらに、65号線を進み、神宮寺から約200mのベルク店前信号を直進する。 ここで、日光街道は、信号から左折し鎌倉街道と別れる。 |
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信号から約300m先で、道は左にカーブする。 カーブする右側に、「正徳二年」銘の刻まれた庚申塔。(正徳二年=1712年) |
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上高野地区に入り、信号丁字路を横断した角に「御成街道道しるべ」。 その先で、ただ今工事中の圏央道上川原地区高架橋下を潜る。 |
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高架から約500m左側に、埼玉県北葛飾郡「杉戸町」標識(写真左)。 さらに約600m進み、右側に八幡神社(写真右)のある八幡神社信号丁字路を直進する。 八幡神社:下野村の鎮守であったが、大正12年の関東大震災で焼失し、 その後再度火災にあい、現在のものは平成13年に再再建されたもの。 |
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信号から約600mの昌平高等学校天青寮前で、 左斜め前に分かれる下高野地内の細い道に入る。 なお日光御成街道の65号線は直進し、鎌倉街道とここで別れる 木立の中の道を、田園風景の道をひたすら道なりに進む。 |
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集落の中を過ぎ、天青寮から約700mで車道に出て、左折する。 すぐ右側に、愛宕神社の鳥居があるが社殿も閉じられたままで、廃社? 住宅街の道を進み、途中の丁字路は直進する。 |
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その先右側に、西行法師見返りの松。 見返りの松:30年以上にわたり高野山で修業を続けた西行法師が、文治年間(1185〜1190)、 奈良東大寺再興歓進のため奥州平泉の藤原氏を訪れる旅に出たが、 途中、この付近で病に倒れ下高野の小庵で村人の手厚い看護を受けた。 全快した西行は、旅立ちのとき別れを惜しむように庵の庭先にあった松の木を、 何度も振り返って出発したといわれ、いつしかこの松を「見返りの松」と呼ぶようになった。 現在の松は、3代目のものと言われている。 隣接して、753年(天平勝宝5)行基により開基したと伝えられる永福寺。 |
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さらに進み、右側に全長寺。 全長時:幸手城主一色直朝の命を受けて、弟直春が一色氏累計の菩提を弔うため建立した寺。 その先約500mで、広い車道に出て右折する。 |
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広い車道を進み、満願寺橋信号交差点で県道372号線を横断する。 立寄りのため信号から右折して372号線に入りすぐ先の左側に、 文字が風化して殆ど判読できない「鎌倉街道と高野の渡し」案内板。 現在は、渡し場跡に万願寺橋がかかっている。 |
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元の車道に戻り、古利根川にかかる満願寺橋を渡り、車道を進む。 |
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万願寺橋から約60mのところで、左折する細い畑道に入る。 これが街道?と思うような、また私有地の畑道のような、恐るおそるの旧道を進む。 南埼玉郡宮代町地内の畑道を約50m進み、右折するさらに細い道に入る。 |
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前方の住宅を頼りに畑道を進み、住宅前からは立派な道となり、県道85号線を横断する。 |
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ここも、これが街道?と思われる畑道を真っ直ぐ進み、突当りで東武伊勢崎線の柵に出る。 旧街道は、線路を直進し反対側の墓地の左側に出るが、ここでは迂回するため左折する、 |
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柵沿いに進み、踏切を渡り、右折して柵沿に進み、 墓地左側の丁字路(2013.10.12再撮影)を左折する。 この丁字路辺りが、旧街道との接続点。 墓地沿い(2013.10.12再撮影)に、真っ直ぐ進む。 |
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突当りで、車道(2013.10.12再撮影)に出る。 旧街道は、車道を横断して進むが、今日はここまで。 車道を右折し、約1km先の東武伊勢崎線和戸駅から、横浜へ。 |
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