歩く 鎌倉街道・上道
 横浜・瀬谷→ 泉
(神奈川県横浜市瀬谷区) (横浜市泉区)
iー愛ロマンチカ
経 路 図
「旧鎌倉街道 探索の旅 上道編」芳賀善次郎著より
    
この区間は、2012.5.24に歩いた。
ゴールの鎌倉まで、あとわずか。
ここでは無理をせず鎌倉までの距離を少なくする程度に歩いた。
こんなゆったりした街道歩きは、これまで経験がなく気分がよい。
5.24 9.:48 前回の終点横浜市瀬谷区本郷3丁目大門小学校前から、住宅街を南へ出発。
今朝は天候もよく、のんびり歩き途中の丁字路を直進し、
その先で
相鉄線ガード下を潜り、瀬谷6丁目地内に入り信号交差点を横断する。
相鉄線ガードから、約300mの分れ道(写真中)は右手を進む。
その分れ道のど真ん中に、文字が判読できないほど風化した
地神塔(写真左)
通常なら交通障害になるために撤去されていると思われるが、よくぞ残っていると思う。
地神塔:豊作を祈って大地や天候の神を祀るためのもの。
分れ道から約200mの突当たりは、
左手を進みすぐ右折する。
その先で、県道40号線厚木街道を横断(写真左)し橋戸3丁目地内に入り細い道(写真右)を進む。
すぐ左側に鳥居があり、高い参道階段頂上に、小さな
稲荷神社
その先約50mの分れ道は右手の坂を進むが、
約100m上った突当たりの
第一よいち荘で遮断される。
第一よいち荘から宗川寺近くの丁字路までの約700m区間の旧道は、消滅している。
迂回するため、先ほどの分れ道を左折して坂を上り最初の丁字路を右折してなりに進む。
約200m進み左側境内(写真右)に、「七サバ神社」の一つで祭神が佐馬頭源義朝の佐馬社
七サバ神社:当時、境川流域では疫病が流行すると、
境川に点在する神社をまわり厄除けする民俗信仰が盛んで、
これを七サバ参りといい、神社を七サバ神社と言っていた。
その先の分れ道(写真中)は、右手を進む。
分れ道の三角地帯に、花が供えられて
地神塔(写真左)を挟み左に野仏像、右に道祖神。
途中
丁字路は直進し、北新地内に入りヤマザキパン前を進む。
その先の分れ道は左手を進み、次の丁字路を直進して突当たりで右折して坂道を下る。
その先突当たり丁字路を左折する。
この突当たり丁字路辺が、先に消滅した旧道との接続点。
住宅街の中の
旧道を道なりに進み、北新自治会館前を通る。
その先でゆるい下り坂道(写真右)となる。
坂の途中左側へ入る細道は、瀬谷八福神の1つ1625年
(寛永2)開山宗川寺への参道。
坂を下りきったところで、県道45号線中原街道を横断して下瀬谷3丁目地内の旧道を進む。
中原街道:中世以前からの古道で、
東海道が整備される以前は東海道の一部として機能していたが、
江戸時代東海道整備後は、
江戸虎ノ門(東京都港区虎ノ門)と平塚中原(神奈川県平塚市御殿)をつなぐ脇街道となった。

中原街道から約400mの
変則4差路を右折して、ゆるい坂道を下る、
4差路から約300mの信号交差点を直進し、その先の和泉川にかかる東橋を渡りすぐ右折する。
相沢川東側沿いに進むが、突当たりの住宅で旧道は行止まりになる。
旧道は、ここから泉区上飯田町峠工房先の丁字路までの約1km区間が消滅している。
迂回するため、橋の手前から右折し相沢川西側沿いに進み、
約100m先で和泉川にかかる
小径橋を渡ってすぐ右折し、下瀬谷1丁目地内に入る。
相沢川フェンス沿いに進み、右手に最近統合してできたさくら小学校
その先で横浜市泉区上飯田町地内に入り木立の道を進み、
右手に神奈川県大和市の飛び地に建つ
上和田中学校
再び
舗装道路に出て、右手に宮久保公園を見ながら進む。
藪山橋前を通り、その先の分れ道は左手の舗装道路を進む。
すぐ先左側峠工房の前を通り、工房から約100m先
丁字路を直進する。
この丁字路辺が、先に消滅した旧街道との接続点。
道なりに
旧街道を進み、介護老人福祉施設ヴィラ泉前を通り、車道を横断して細い道に入る。
その先の分れ道は右手のガードレール沿いに道なりに進み、
車道から約500mの
丁字路は直進する。
右側に、美しい形の松の木
そして右手境川の向うには大和市の
上和田団地の建物群
道なりに進み、その先で車道を横断する。
横断した左角の木立の中に、「
「江戸柳明古地図案内板が立つっているが、
地元の人に尋ねても地図上の現在地が不明で、正直?。
「江戸柳明」古地図
江戸時代、柳明は「えどやなみょう」と称し街道に商家が立並んでいたさま、を表示したもの

木立の後ろは、民家風「羽田郷土資料館(郷土の農機具など展示)」があるが、
玄関の門扉には鍵がかかっていて全く人の気配なし。
この辺から鎌倉街道(地元では、大山街道が通称のよう)沿いに約1.8km区間は、
せせらぎ緑道」として整備されていて水路のある歩道を演出している。
その先で、東海道新幹線ガード下を潜り、分れ道は左手を進み、
いちょう団地の東側のせせらぎ緑道を進む。
途中道が鍵型になっているところの左側階段(写真中)は、本興寺(写真左)への参道階段。
さらに
せせらぎ緑道を進む。
丁字路でせせらぎ緑道は終わり、右側の車道に出てさらに進み。
その先で
いちょう団地前信号交差点を直進する。
右側いちょう小学校前を通り、ゆるく左、右にカーブし、
信号から約150m地点で
左折して細い道に入る
しばらく前の道と並行して進み、その先の分れ道は左手の坂を上り、続く分れ道は直進する。
しばらく道なりに進み、突当たりでゆるく左にカーブし、その先の交差点を右折する。
広い車道を進んでいちょう団地入口信号丁字路を直進し、
道なりに進んで次の明成幼稚園入口信号丁字路を横断して左側飯田神社境内脇を通る。
境内の外れに鳥居(写真中)があり、奥に飯田神社(写真左)
飯田神社:境川沿いにある「サバ神社」の一つで、主祭神は源義朝。
縄文時代は、境川沿いは入り海で、神社境内からは縄文後期の注口土器が出土している。

鳥居の前には、
七観音像、庚申塔、道祖神、地蔵像などが並んでいる。
さらに真っ直ぐな道を進み、上飯田団地前信号交差点を直進して飯田農協前を通り、
その先でゆるく
右にカーブして進む。
次の上飯田団地入口信号交差点で県道22号線長後街道を横断し、
交通量の殆どない道
を淡々と進む。
左側にとても立派な長屋門
飯田郷は、飯田五郎家義の地頭領で、街道筋には長屋門をもった家が多かったという。
飯田五郎家義:家義は、平安時代末期にこの地を治めていた。
その後、家義は、源頼朝が挙兵し石橋山の戦いで大敗し逃亡したとき頼朝を危機から救い、
また富士川の合戦での活躍したことの論功行賞により、飯田郷の地頭に任ぜられた。
頼朝は家義を鎌倉武士の鑑とし、
鎌倉の北に位置する重要な地である飯田郷の鎌倉往還の街道沿いに家義の居館を築かせた。

さらに進み、途中下飯田地内に入り
交通量の少ない道を進む。
上飯田団地入口信号から約2kmのところで
相鉄いずみの線架橋、
続いて市営地下鉄ブルーライン架橋
を潜る。
すぐ先、左側木立の中に富士塚公園(写真右)
公園の中に、「
富士塚城址
富士塚城址:飯田五郎家義の館があった、と言われているところ。
ただ今、13:26。
ゴールの鎌倉まで、後わずか。
今日は余裕でこれで終わり。
公園外れの横断歩道を渡り、右折して細い道を進み地下鉄ブルーライン架橋を潜り、
その先で境川を渡って藤沢市に入り、
富士塚公園から約1.5km西にある
小田急江ノ島線湘南台駅から、横浜の我家へ。
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