歩く 鎌倉街道・上道
 東村山→ 多摩
 (東京都東村山市)   (東京都多摩市)
 iー愛ロマンチカ
      
この区間は、2011.10.20に歩いた。
曇り空、ただでさえ下手な写真がさらに見栄えしなくなってしまうのが心配。
街道を一日歩くと、やたらめっぽうに約800〜1000枚の写真を撮り、
その中から約150枚ほど選んでホームページを作成している。
ようするにデジカメがなかれば、成立しないホームページ作成です。
10年前、東海道53次を歩いた当時のデジカメは、まだとても大きくて重くて、
それを首に吊るして一日歩いたが、今思うとよく首の骨が折れなかったと思う。
それから7台目の今使っているソニーデジカメは、手のひらサイズ重さ120グラム、
ただシャッターを押すだけで下手さに関係なくきれいに撮れるというすぐれもの。
ただ、この曇空の天候には勝てそうもない。
    
2011.10.20、早朝横浜を出発し、7:54西部新宿線東村山駅に到着。
   
前回の終点、府中街道東村山駅東口信号交差点から、旧鎌倉街道の府中街道を南へ出発。
東村山郵便局前信号交差点の先で
西武新宿線踏切を渡り、
野口橋信号交差点で新青梅街道を横断して野口橋を渡って、
その先右側に、江戸時代まで牛頭天王社と呼称し野口の天王さまとして賑わった
八坂神社
(境内に、トイレあり)

   
続いて右側八坂小学校脇を通り、
信号前方の
緑色陸橋に続いて西部多摩湖線架橋を潜る。
左手の陸橋と架橋の間に、
八坂駅
その先約200mに、東村山市と小平市との境界の
八坂信号交差点
旧道は、交差点から左斜めに進み小平第六小学校の東側につながっていたが、
現在は道が消滅している。
ここでは、迂回するため交差点を直進し府中街道を進む。

   
小平市の府中街道を南に進み、
西武拝島線踏切を渡り続いてただ今工事中の
西武拝島線高架下を潛ってブリジストン前を通り、
八坂信号から約1.2km地点の
小平第六小学校信号交差点を左折する。
   
小平第六小学校脇を通り、小平六小東信号を直進し、
そのすぐ先
わらべや日洋本社角の丁字路を右折する。
この丁字路が、先に消滅した旧道との接続点。
すぐ左側に「鎌倉街道」標識が立ち、閑静な
小川町東街5住宅街の旧道を進む。
   
一直線の道を進み、小川町2に入り村田建設ビル角で青梅街道を横断し、細い道に入り、
左側に、史跡を記した
「鎌倉街道」案内板の立つ道をまっすぐ進む。
   
右側のぶどう園横を通り、さらに進み突き当たりの車道を左折し、すぐ右折する
   
津田町2地内の細い道を進み、続いて津田町3の閑静な住宅街を進んで、
突き当たりで
木立に入る。
わらべや日洋本社角丁字路から木立まで、ほぼ一直線の約1.7km。

   
玉川上水から分離した新堀用水にかかる小さな橋を渡り、
続いて玉川上水にかかる
鎌倉橋を渡り上水本町2地内車道に出て右折する。
玉川上水:江戸時代に慢性的な水不足を解消するため、
老中松平伊豆守信綱を最高責任者として、玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟によって開削された、
多摩川の羽村堰から四ッ谷大木戸に至る全長約43kmの水路。
上水に沿ってコナラやクヌギ等の雑木林が残っている、よく整備された
散策路となっている。
   
すぐ左折し、道なりに約300m進み、五日市街道との信号交差点にでる。
旧道は、この交差点からコイン洗車機方向右斜めに進み、
府中街道東恋ヶ窪5丁目信号交差点辺りにつながっていたが、現在は消滅している。
迂回するため、信号から右折し、その先で府中街道の
上水本町信号交差点に出て、左折する。
   
府中街道を南に進み、すぐ小平市から国分寺市に入り道なりに進む。
恋ヶ窪信号変則交差点を直進し、その先200mほどの東恋ヶ窪5丁目信号交差点を直進する。
この信号辺が、消滅した旧道との接続点。

   
続いて、東恋ケ窪4丁目交差点直進し、そこから約200m地点で府中街道と別れ、
斜めに左折する細い道に入り、道なりに進む。
  
約100m進んだところで、右に分かれる道があるが、旧道は直進する。
その先で
西武国分寺線境界金網に旧道は遮断され、消滅する。
旧道は、線路を横断して反対側につながっていた。
ここでは、迂回するため先ほどの分かれ道に戻り、左折する。

   
突当りで府中街道に出て左折し、西武国分寺線踏切を渡り、すぐ左折する。
   
線路境界沿いに100mほど進み、突当りで道なりに右折する。
この突当り辺が先ほど線路で遮断されて消滅した、旧道の接続点。
西恋ヶ窪1地内の緑の
フェンス沿いに進み、その先で車道を横断する。
車道手前左側に、
「むかしの用水(恋ヶ窪村用水)・むかしの道(鎌倉街道)」の案内板が立っているが、
経年で文字がかすれ判読難しい。
   
横断した左側に、参道階段(写真右)があり奥に熊野神社(写真中)
熊野神社:和歌山県熊野の大神を勧請鎮祭したもので、
元弘建武の頃(1331)新田義貞鎌倉勢と戦のとき、兵火に消失し、その後数度社殿が再建された
現在の本殿は、1763年(宝暦13)に造営されたもの。

境内に、「廻国雑記」の地名を詠んだ
歌碑
「朽ちはてぬ名のみ残れぬ恋ヶ窪今はた訪ふも知記りならずや」。
廻国雑記:1486年(文明18)の6月から約10ヶ月間、
聖護院門跡道興准后
(どうこうじゅごう)が、
京都を出発して北陸・関東・奥州を遊歴したときの紀行文。
各地の地名を読み込んだ優れた和歌が多い。

  
      
さらに道なりに進み、約300m進んだ右側に東福寺門柱。
寄り道し、中に入り参道階段右側に、畠山重忠と夙妻大夫
(あさずまだゆう)の悲恋物語の
左から順に、
傾城墓由来碑、傾城墓碑(写真中)三代目一葉松(写真右)
傾城墓:重忠は当時国府ヶ窪と呼ばれたこの地の夙妻太夫という遊女と恋仲であった。
重忠が平氏追討のため源義経に従って西国へ下っていたとき、
恋敵が重忠が戦死したとの嘘をついて夙妻に重忠をあきらめさせようとしたが、
悲しんだ夙妻は姿見の池に身を投げて死んでしまった。
知らずに凱旋した重忠はことの顛末を聞き、
哀れに思い夙妻のために一堂を建立し無量山道成寺と名付けて霊を祭ったと言う。
また里人も、夙妻大夫を哀れに思い墓の脇に1本の松を植えたところ、
その葉は不思議にも一葉であったという。
現在の一葉松は、姿見の池から移しかえられた3代目松。

  
そのすぐ先右側丁字路角に、新しい花が供えられた地蔵尊(写真中)
丁字路左手水路は、復元された
恋ヶ窪用水(写真左)
恋ヶ窪用水:江戸時代の1657年
(明歴3)
国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村の田の潅漑用水に利用するため、
玉川用水から分水して作られたもの。

さらに進み、丁字路から約150m右側に
階段
手前左側に、「国分寺姿見の池緑地保全地域」看板。

   
保全地域は小高い林で奥に復元された姿見の池がある。
階段を通り過ぎ、その先突当で
JR中央線境界金網で遮断される。
旧道は、中央線を横断して府中街道の西国分寺駅南入口信号交差点につながっていた。
ここでは迂回するため、先ほどの階段を上り
舗装道を進み府中街道に出て、左折する。
   
府中街道を南に進み、
眼下にJR西国分寺駅プラットホームを見て通り過ぎ泉町2丁目地内に入り
西国分寺駅南入口信号を直進する。
この信号辺が、先に消滅した旧街道との接続点。
さらに進み、信号から約400m地点に
泉信号交差点の卍型横断歩道橋
   
歩道橋上から、前方はこれから歩く府中街道、右手はJR武蔵野線跨線橋
  
府中街道を100mほど進み、右斜めの細い道に入り、道なりに進む。
約100m地点の
駐車場辺で旧道はJR武蔵野線境界金網で遮断される。
旧道は、金網を越えて武蔵野線の反対側の家並の一番外れ辺につながっていた。

   
ここでは、迂回するため先ほどの泉信号交差点に戻り、
武蔵野線跨線橋を渡り、階段を下って先に進み、最初の分かれ道を左折する。
   
武蔵台2丁目地内の細い道を約150m進んだ丁字路を左折し、
50m進んだ突き当たりを
右折して、その先約60mの丁字路を左折する。
   
突当りを右折し、境界金網沿いに進み、
家並の外れのところでゆるく右方向に進み西元町4丁目地内に入る。
この家並の外れ辺が、先に武蔵野線の境界金網で消滅した旧道との接続点。

   
道なりに進み、続いて如何にも古道の雰囲気が漂う切通の中を進む。
途中、
切通両側に階段
左側階段上には、尼寺北方の塚。
右側階段の上には、鎌倉時代末頃に建立された
伝祥応寺跡
伝祥応寺:市内本多四丁目の祥応寺の前身と考えられている。
土塁と溝とで東西30m、南北45mの区画が形づくられ、
東西9m南北18mほどの規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物だったと推定されている

   
切通しを抜け、広い整備された道(写真中)を進む。
右側に黒鐘公園、
左側に武蔵国分尼寺跡(写真左)
武蔵国分寺・尼寺:741年(天平13)聖武天皇詔により、
鎮護国家を目的として全国80余諸国に僧寺と尼寺の造営が始められた。
武蔵国は、3km南の国府(現府中市)鎮護するためこの地一帯が適地として選ばれた。
七重の塔、僧寺、尼寺等を含む七堂伽藍を備えた
東西約900m南北約550mの広大な敷地であった。
武蔵国分寺は、尼寺は、
その後1333年
(元弘3)建武昼行中興の戦いの際新田義貞軍によって焼失された。
その先の
分かれ道は、右手を進む。
   
道なりに進み府中市武蔵台1丁目地内に入り、突当りの車道を右折しすぐ左折する。
マンション脇の道を進み、突当りで県道14号線東八道路に出る。
   
旧道は、東八道路を横断して遠く正面に見える高い塔(東芝工場内)を目指して進んでいたが、
現在は東八道路で道は消滅している。
迂回するため、右折して武蔵台小学校南信号から横断し、
道路沿いに戻り、
旧道の接続点の丁字路を右折し、高い塔を目指して
細い道を進む。
   
突当りで車道に出る。
旧道は、車道の反対側の東芝府中事業所内を通って
その先美好町2丁目48ハイツみなみ角丁字路に接続していたが、現在は消滅している。
ここでは、迂回するため車道を左折して道なりに進み、
JR武蔵野線ガード下を潛って、
府中街道刑務所角信号交差点を右折する。
   
府中街道を、JR武蔵野線沿いに進み、晴見町2丁目信号の手前約50m手前で
階段を上りJR武蔵野線を横断する。
   
道なりに進み、日鋼町信号を直進し次の東芝町信号丁字路を左折し、
美好町2地内
住宅街中を進む。
   
東芝町信号から約150m交差点の焼肉レストラン「あいまさ」角を右折し、
約150m先美好町2丁目48
ハイツみなみ角丁字路を左折して、住宅街の旧道を進む。
この丁字路辺が、先に東芝府中事業所で消滅した旧道との接続点。

   
丁字路から約400mの突当りで丁字路に出る。
旧道は、丁字路を直進し府中第4中学校の中を通っていたが、現在は消滅している。
迂回するため丁字路を左折し、すぐの
丁字路を右折て学校の境界柵沿いに進み、
境界柵の外れで右折し、
突当りの角を左折する。
この角が、先ほど消滅した旧道の接続点。

   
中学校境界塀沿いに進み、その先で国道20号線甲州街道美好町交番前信号交差点を直進し、
美好町3丁目地内に入る。
続いて
美好町3丁目西信号交差点を直進して分梅通りに入る。
   
道なりに進み、浅間神社前信号交差点を直進する。
信号右側にただ今工事中の
浅間神社、参道入口右側堂内に高さ1m超の屋敷分の庚申塔
屋敷分庚申塔:屋敷分村(現・府中市美好町三丁目)の人たちが、
1674年(延宝2)ぬ建立したもので、
市内で最も古い庚申塔。本尊の青面金剛像と三猿が彫られている

   
さらに進んで分梅町1丁目に入り、右側に天王宮八雲神社
参道入口右側に、
元応の板碑
天王宮八雲神社:本殿完成は1867年(文久3)で、現在も分梅地域の鎮守として慕われている
元応の板碑:鎌倉時代から室町時代の間、
秩父産の青色している緑泥片岩で板碑(追善供養の卒塔婆)が盛んに造られた。
ここの板碑には、元応元年
(1319)に造られたという刻印がある。
   
さらに進み、右側に陣街道碑
陣街道:この鎌倉街道は、陣街道とも呼ぶが、
由来は中世に軍勢が陣立して往来したことによる。また、浅間道、分梅道ともいう。

その先で、
JR南武線踏切を渡る。
   
道は光明院坂と呼ばれているゆるい下り坂となり、左側に鎌倉時代末開山の光明院
坂を下りきった
分梅駐在所信号交差点を直進し、分梅3丁目地内には入る。
坂下に広がる平地一帯は、
1233年
(元弘3)新田義貞と北条泰家が合戦をした分倍河原古戦場。
   
道なりに進み、信号から約300m地点の分梅二丁目信号続いて中央道高架下を潜り、
その先約200mのところで
右にカーブする。
旧道は、このカーブ地点を直進し多摩川を渡り、
多摩市関戸3丁目の現鎌倉街道新大栗橋信号交差点辺につながっていた。
ここでは迂回して、現鎌倉街道へ出て多摩川の関戸橋を渡り、新大栗橋信号交差点へ行く。

   
右にカーブして道なりに進み、突当りで都道18号線現鎌倉街道中河原駅北信号に出て左折し、
現鎌倉街道を南に進み、
歩道橋続いて京王線中河原駅舎下を潛る。
   
その先約600mの関戸橋北信号先で多摩市に入り、多摩川にかかる関戸橋を渡る。
   
橋から400m進み、川崎街道との交差点新大栗橋信号に出る。
この信号辺が、先に消滅した旧道との接続店。
旧道は、信号から現鎌倉街道と分かれ並行する右側の細い道に進み、関戸4丁目に入る。

ビルの谷間をまっすぐ進み、出たところで大栗川にかかる大栗橋側道を渡り、
関戸5丁目地内に入り道なりに進む。

   
道は極ゆるい上り坂となり、大栗橋から約200m右側に地蔵堂と「関戸古戦場跡」標柱
地蔵尊は、背に「関戸村 寛文三年・・・念仏講中」と刻まれていいて、
江戸前期に建立されたもの。
関戸古戦場:鎌倉時代の1333年(元弘3)5月16日、霞ノ関(現多摩市関戸)一帯で、
北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦場。
新田軍が勝利し、北条泰家は鎌倉へ逃走したが、
この関戸の合戦から6日後の1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。

さらに坂道を上り、
信号丁字路を直進する。
   
その先左側に、当時の雰囲気が漂う小山商店建物
続いて左道端にこの道中久しぶりにお目にかかる
常夜燈と馬頭観世音碑
道なりに進み、
熊野神社前信号丁字路を直進し、関戸6丁目に入る。
   
信号右手に、1489年(延徳元)和歌山県の熊野三社神社を勧請した熊野神社
参道左側に、復元された
霞ノ関南木戸柵(丸柱)列
霞ノ関南木戸:鎌倉時代の1213年(建暦3)に、鎌倉街道に設置された木柵の関。
中世の関所跡として、地名にも「関戸」と称せられる貴重な史跡という。

参道階段頂上からは、眼下にはるか遠くまで見える
多摩市の景観
  
さらに進み、多摩市役所信号丁字路を直進し、貝取地内に入り道はゆるい下り坂となる。
多摩市役所西信号を直進し、
その先で都道157号線との交差点の乞田五差路(実際は六差路)の
乞田信号に出る。
交差点からの旧道は、左手都道157号線の右側の
細い道(写真右)を進みり、乞田地内に入る。
   
細い道を道なりに進み、
その先約200m
突当りで都道158号線多摩ユータウン通りに出て右折し、
多摩ユータウン通りを西へ進む。
   
約300m進み、愛宕交番前信号丁字路を左折し、
約200m先で乞田川にかかる
釜沼橋を渡って豊ケ丘1丁目地内に入り、
京王線相模原線、小田急多摩線のガードを潛る。
(愛宕交番前信号辺から、ガードまでの旧道は消滅しているが、概略この経路)

   
さらにゆるい坂道を約300m上り、貝取神社前信号交差点を直進して豊ケ丘2丁目に入る。
貝取神社は、信号から次の右折する小路に入って右側にある小さな神社。
   
坂道を上り、貝取神社前信号から約700mのところで青陵中学校北信号交差点を直進し、
豊ケ丘3丁目地内に入り団地内の
ゆるい坂道を下る。
その先で豊ケ丘4丁目に入り
貝取交番前信号交差点を直進する。
   
(以下の写真は、2011.10.27再撮影したもの)
ゆるい坂を下り、
恵泉女学園大学前信号で都道156号線を横断し、
南野2丁目地内に入り
一本杉公園通りを進む。
   

すぐ先左側に、、鎌倉時代の1253年(建長5)開宗の妙櫻寺
続いてゆるく右にカーブする左側に、
「鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)跡」標柱。 
その先信号から約150m地点で左折し、
恵泉女学園大学キャンパス北側道路へ入る。
   
 
15:41 今日は、ここまで。
この辺からでは、最短の京王線永山駅まで約3kmであるが、
ハッピーにもすぐ空タクシーが通りがかり乗車。
横浜へ。

   
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