歩く 鎌倉街道・上道
 武蔵高萩→ 東村山
 (埼玉県日高市高萩) (東京都東村山市)
 iー愛ロマンチカ
      
この区間は、2011.9.8に歩いた。
この日ようやく東京都(東村山市)に入り、ゴールの鎌倉まであとわずか。
高崎を出発してからの日数を数えると、時間がかかり過ぎてしまったが、
どうも一日の歩く時間が少ないことに原因がありそう。
初期の東海道を歩いた時などは、デジカメの明かりを頼りに真っ暗な道を歩いたっけ。
あのファイトはどこへ行ったやら!

   
2011.9.08早朝横浜を出発し、8:36JR川越線武蔵高萩駅に到着。
   
駅北側の出口から線路沿いに西へ200mほど進み、
今日の出発点
(前回終点)「鎌倉街道踏切」標識の立つ踏切へ到着。
今日の区間は、基本的に南東方向へ進む。
踏切を横断し、日高市高萩地内を道なりに進み右側
鈴木商会前を通り、
次の左にゆるくカーブする手前で、右手の
細い道に入る。
   
未舗装の道を、道なりに進み、突当りで県道15号線を横断し細い道に入る。
   
道は下り坂となり、突当りの小畦川のところで丁字路になる。
旧道は、丁字路を直進し
対岸の道につながっていた。
ここでは、迂回のため丁字路を左折する。

    
川沿いに進み、を渡り、すぐ右折して住宅街の中を進む。
   
その先の分かれ道は、右手の川沿いの道を進む。
続く
左にカーブする辺りが、先ほど消滅した川向こうからの旧道との合流点。
小畦川の対岸に、先ほど下った来た旧道坂道
   
川沿いの道を進み、合流点から約150mのところ右側に川の上にかかる橋の門扉
その先でゆるい坂となり
分かれ道は、左手を進む。
    
高萩と中沢地区境界の道を進み、車道を直進し突当り丁字路を左折、右折して進む。
    
ゆるい坂道を上り、上りきったところで車道を横断し左手に駒形神社を見て進む。
真直ぐなのどかな道に、左側に「
松本鍼灸院看板
    
その先の左にカーブするところで旧道は直進していたが、
現在は山野経師店などの建物で遮断されている。
ここでは、道なりに左にカーブし、カーブから約80mの
交差点を右折する。
50mほど進み吉岡光線療術院角の十字路辺りが、消滅した旧道との合流点。
十字路を左折する。
    
細い道は坂道となり、下りきった分かれ道は左手を進み、次の分かれ道は左にカーブする。
   
正面の森(写真中)に向かって進み、小川にかかる橋を渡る。
橋を渡った左側に、「
鎌倉街道上道案内板(左)と鎌倉街道上道碑(写真左)
道は
ゆるい上り坂となり、途中から日高市大谷沢地内に入る。
    
坂を上りきり、高い塀の間の道を進み、
その先で
鎌倉街道信号交差点で国道407号線を横断し、
左側日高カントリクラブのネット沿いに進む。
道なりに進み鎌倉街道信号から約1kmのところで
圏央道高架下を潜り、下大谷沢地区に入る
    
さらに進み、日高特別支援学校、続いて勤労者福祉センター前を通り、
頭上に「
狭山市立智光山公園看板(写真中)
道の左側は狭山市で、公園入口に「
智光山公園(写真左)とその奥は整備された広大な公園。
公園前を過ぎると狭山市内となり、
智光山公園入口信号交差点を直進し「狭山工業団地」の中を進む。
    
きれいに区画整備された団地内を進み、
団地外れの
信号交差点を直進し右側日生団地前を通り坂道を下る。
   
坂道を下りきる手前左側に、「歴史の道 鎌倉街道案内板、続いて信濃坂標識(写真中)
信濃坂:この坂道は、その昔信濃の国に通じていたので、この名がついたといわれている。
さらに下り切ったところの
奥州道信号交差点(写真右)で、横断歩道を渡る。
その手前左側3角地帯に、ひっそりたたずむ
影隠地蔵(写真左)
影隠地蔵:京都に兵を挙げた木曽義仲は、そのあと頼朝軍に討たれた。
鎌倉で頼朝の娘大姫の婿になっていた義仲の子義高は、自分に難が及ぶのをさけるため、
大姫のはからいで脱出して逃れたが、
この入間川の地で追っ手の堀藤次らに追いつかれしまった。
一度は地蔵尊(影隠地蔵)の陰で難を逃れたが、
ついに捕らえられ藤内光澄によって斬られてしまった。
ただ、この影隠地蔵は、身を隠せるほどの大きさでもなく鎌倉時代に遡るほど古くないので、
土地の人たちが義高を哀れんで地蔵尊を建てたとのではないかという。

   
横断歩道を渡り、その先大きな車道から分かれる左手の道に入り、
右にゆるいカーブをしながら住宅街の中を道なりに進み、
次に左にゆるくカーブして右側
綜研化学工場前を通り、
奥州道信号から約700m突当りで
信号丁字路となる。
この突当りの柏原地内辺りが、入間川を渡る八丁の渡しの船着き場があった跡という。

    
現在は、渡し船がないので迂回するため丁字路を右折して県道260号線を進み、
その先の
東広瀬信号交差点を左折する。
    
すぐ入間川にかかる新富士見橋を渡る。
当時の入間川は、現在より幅広く8丁(約900m)あったといい、
そこから8丁の渡しと言われていた。
また、入間川は北武蔵と南武蔵を分ける軍事経済の要衝の地であったことから、
新田義貞や足利基氏に関連の伝承地が多くある。

橋を渡り終えたところの狭山市入間川3丁目信号交差点で、歩道橋で国道16号線をを横断し、
イオン側へ渡り左折する。
歩道橋上からの、
国道16号線(左手が入間川側)。
     
国道16号線右側歩道を進み、歩道橋から約300m地点で右折して坂を下る
この辺りが、対岸からの八丁渡し船着き場。
ちなみに、16号線左手の対岸は
建物にはばまれ全く見ることができない。
    
なんとなく当時の雰囲気のあるを、イオン駐車場前を通り、
その先の
十字路は真ん中の道を進み菅原橋を渡る。
住宅街の道を約200m進み、
広い車道を横断する。
    
一直線のゆるい坂道を進む。
約50m左側小路の奥に、新田義貞が鎌倉攻めの時に滞陣した場所と伝えられる
徳林寺
さらに坂道を約150m進み、三叉路左角の
市立図書館前を通り西武新宿線狭山市駅方向へ進む。
     
駅への道は只今工事中で、仮設道路を進む。
旧道は仮設道路を直進し、駅舎右手から線路反対側の白山神社辺りまで続いていたが、
現在は消滅している。
迂回するため、仮設道路を道なりに進み、駅前歩道に出て右折し、道なりに
左にカーブする。
その先で
大通りを横断して、駅舎と西友の間の道(西友東側道)に入る。
(現在あちこち工事中で複雑な横断となるが、工事が終了すれば容易に横断できるはず。)
    
西友の東側の道を進み、突当りを左折して西武新宿線踏切を横断する。
   
富士見町一丁目地内に入りその先で、県道227号線の信号交差点(写真右)に出る。
先に消滅した旧道との合流点は、交差点の左手の
白山神社左側の細い道(写真中)を進み、
突当り(写真左)の右にカーブする辺り。
    
旧道の合流点辺りから、今来た道を逆に戻り先ほどの信号を通り、
県道227号線を南東へ進む。
左側狭山郵便局先の
富士見町一丁目信号交差点から県道50号線となり、
続いて富士見町2丁目地内に入り左側狭山工業高校脇を通る。

    
淡々と50号線を進んで北入曽地内に入り、北入曽信号、さらに次の信号を進む。
その先左側
井戸端園茶店(写真右)角の小路突当りに、
平安時代初期作市文化財古代カメが保存されている
野々宮神社
    
50号線に戻り、すぐ先右側に常泉寺の観音堂
観音堂:創立1202年(建仁2)創立で、1708年(宝永5)に再建。
本尊は江戸時代後期川越の彫仏師大覚作の聖観世音菩薩像で、
大旱魃で観世音菩薩に祈り七曲井をさらったところ、忽ち清水が湧き出したという、
七曲井の守り菩薩。

観音堂に裏に、平安時代中頃漏斗状に掘られた上縁直径26m井戸底まで深さ11.5mの
七曲井
    
50号線に戻り、昔冬になると必ず水が枯れ「としをとならない」ことから
不老川
と名づけられたという川の橋を渡り、
南入曾地内に入り右側境内に「
鎌倉街道(上道)・みちすじ案内板の立つところに、
1192年(建久2)創建で10月15日県指定文化財「入曾の獅子舞が奉納される
入間野神社
    
50号線に戻り、入曾駅信号交差点を渡り水野地内に入り、
水野(月見野)信号交差点入曾動物公園信号交差点を進む。
    
突然左手の視界が開け広大な畑地
その先で
北岩岡信号を渡り所沢市岩岡町に入り、右手に西武新宿線電車が行き交う。
    
線路沿いに道なりに進み、突当りで右にカーブして西武新宿線踏切を渡り、
左折して西富小学校前を通り
50号線を道なりに進み、向陽町団地内に入る。
    
その先で緑町4丁目に入り、緑町4丁目信号交差点から県道6号線となり、
続いて緑町1丁目地内のビル街を通り
新所沢駅前信号交差点を直進し、
次の信号
で緑町2丁目に入る。
    
次の泉町信号交差点でけやき台2丁目に入り、続くけやき台信号交差点で宮本町2丁目に入る。
その先の
蜂の坂信号交差点で国道463号線を横断し、宮本町1丁目の6号線を進む
    
道は下り坂となり、100mほど先右側に当時の風情を思わせる建屋と白壁土蔵
旧道は、続くバイクショップ店の路地を挟んだ
建物辺りから南へ進んでいた。
現在は道が消滅しているので、迂回するためさらに5号線を下る。

    
150mほど先の東川の橋の手前から右折して川沿いに進み、
突当りの唐風山門の
新光寺前から左折し元町地内に入る。
この左折する辺りが、消滅した旧道との合流点。
新光寺:1193年(建久4)源頼朝が那須野へ鷹狩りに行く途中ここで昼食をとり、
その時の仮小屋の地を寺に寄進したという。
その後戦乱でかすめ取られたが、
新田義貞の鎌倉攻めのときこの寺で戦勝祈願をし北条氏を討った帰途再度立ち寄り、
かすみ取られた土地を寄進したという。

    
なんとなく当時の雰囲気が残る細い道を100mほど進み、
小金井街道
を横断し再び細い道を進み、さらに150m先で車道を横断する。
    
ゆるい坂道(写真中)を30mほど進み、斎藤歯科の反対の左側に実蔵院(写真左)
実蔵院:山門に掲げる山号「野老山」は、昔所沢を「野老澤」とも表記したことに由来する。
また元町の街道沿いは、古くから所沢宿のあったところ。

その先、左側所沢富士幼稚園角に立つ「
鎌倉街道案内板前を通り進む。
    
上りきってところで、車道を横断しさらに進み所沢文化幼稚園前を通って西住吉地区に入り、
突当りで
大通りを横断し、マンション脇の三角地帯に進む。
   
三角地帯から、県道4号線を斜めに横断して所沢冷凍機商会左側の道に入り、
南住吉地区の
一本道を進み、約300m地点の交差点を横断して左側南小学校境界沿いに進む。
   
境界柵の終わる辺りから下り坂となり、突当りで西武池袋線で遮断される。
旧道は、突当りを真直ぐ走っていたが現在は線路で消滅している。

    
迂回するため丁字路を左折して線路沿いに進み、踏切を渡って久米地区に入る。
    
その先の分かれ道は、左手を進み狭い坂道を下り、しばらく道なりに進む。
先に線路で消滅した旧道は、この分かれ道が合流点。

    
分かれ道から約200m進み、左側長久寺墓地(写真中)の外れから左折する。
長久寺(写真左)山門前の「旧鎌倉街道石柱(写真右)前を通り、真直ぐ進む。
長久寺:長久寺は神奈川県藤沢市の遊行寺を総本山とする時宗のお寺。
時宗は鎌倉時代に一遍上人が開いた念仏の宗派。

   
その先の勢揃橋北信号三叉路で旧道は直進するが、現在は住宅街で消滅している。
ここでは、迂回するため左手を進み、約100m先の
丁字路を右折して道なりに進む。
    
右折して約150mの右側三角地点に、1818年(文政元)建立庚申塔。
この辺りが、先に消滅した旧道との合流点。
さらに
道なりに進み、突当りで車道と合流し右折する。
   
広い車道を進み、リーベスト所沢前を通り、
柳瀬川にかかる
二瀬橋(写真中)の中ごろで東京都東村山市久米川町5丁目に入る。
橋の左手に、
西武新宿線鉄橋と柳瀬川(写真左)
その先の
二瀬橋信号三叉路は、右手を進む。
    
この通りは、公事道(くうじみち)といい、
久米川の公事所(税務署や裁判所を兼ねた役所)に通じていたという道。
公事道を約700m進み、突当りで丁字路となる。
旧道は、直進し線路の反対側の白山神社付近につながっていた。
ここでは、迂回するため左折して、
西武新宿線踏切を渡る。
   
最初の右折する道を進み、
約300m先右側に
塀の上から屋根が突き出ている白山神社
白山神社から約50m先の軽く左に折れる辺りが、消滅した旧道との合流点。

   
さらに進み東村山給食センター前を通り、その先で左からの道と合流して右折し、
100mほど
車道を進む。
    
突当りで右にカーブするところを直進し、狭い道に入る。
狭い道を進み、右側立派な家の門前に「旧跡鎌倉古道標識
    
その先で県道16号線府中街道と合流し、右折して街中を進み、
本町2丁目信号、続いて
東村山駅東口信号交差点
只今15:40。
汗びっしょりのシャツでの通勤ラッシュ満員電車の迷惑を考え、今日は早めの帰途とする

    
信号から右折し、西武新宿線東村山駅から横浜へ。
   
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