米国のレーダー開発

レーダーの始まり

1856年にスコットランド生まれのジェームズ・クラーク・マックスウェルが電磁波が存在することを理論的に導き、その速度が光と同じであることを予測して1873年に『電磁気概論』を刊行した。1879年にマックスウェルは亡くなるが、7年後の1886年にドイツのヘルツが実験によって電波が存在することを確かめる。ヘルツは電波の速度が光と同じで、物体に反射して戻って来ることも確かめた。
1912年4月14日の深夜,大西洋で世界最大の客船『タイタニック号』が氷山に衝突して沈没し1500人を越す乗員乗客が犠牲となる大惨事が起きた。この後,軍や船会社が夜間や霧の中で,氷山や他の船を監視できないかと研究を始めた。
第一次世界戦争の終わり頃、米陸軍は遠くにある船や航空機を探知する研究をするために通信研究所を設立する。1922年6月,イタリアのマルコニーが米国無線学会で講演する。

一つの船から電波を送信すると,この電波は別の船に反射して戻って受信される。この原理を実用化すれば,夜でも霧の中でも,近くに船があることを知ることができる。

とレーダーが近い将来必ず実現すると予測した。

James Clerk Maxwell
ジェームズ・クラーク・マックスウェル

Marconi
マルコニー

海軍調査研究所

1915年にエジソンが米海軍に、軍事に科学を応用するための研究所が必要であると提案すると、第一次大戦後の1920年に海軍調査研究所が設立されて遠方の航空機を探知する研究が始まる。1922年に海軍無線研究所の テイラー 博士と ヤング は無線の実験中に、発射電波がポトマック河を航行中の船に反射して乱れる事を発見して、この原理を使えば夜でも霧の中でも近くにある船を発見出来ると報告書を書く。しかし米海軍は関心を示さない。
この頃、遠距離の無線通信には上空にある電離層が重要な役割をしていることが予想されて英、米、ドイツでは電離層の研究を盛んに進めていた。1924年に英国の アップルトン が上空に電波を発射し、それが戻るまでの時間を測定して、電離層が地上約100kmの高さにあることを算出し、この層をケナリー・ヘビサイド層と呼ぶ。1925年7月に米国のカーネギー研究所で地磁気を研究している ブライト とジョン・ホプキンス大学院生の チューヴ が海軍調査研究所から周波数4MHzのパルス送信機を借りて、電離層に電波を発射し、反射波をブラウン管に映して電離層の高さを測定した。この実験が米のレーダー研究の始めである。
1930年6月に海軍調査研究所の ハイランド が電波が飛行中の航空機に反射して乱れる現象を発見すると、海軍調査研究所は実験を続けて11月に『移動物体からの電波の反射について』を海軍省に提出する。海軍省は海軍調査研究所に技術者を集めて電波を使って艦船や航空機を探知する研究を始める。研究目標は首都ワシントンの周囲50kmの範囲に侵入する航空機を探知することである。周波数は32MHz-100MHzで、送信機と受信機を離れた場所に設置して、送信機から電波を発射すると、直接受信機に入る電波と、航空機から反射して受信機に入る電波が干渉することを利用して探知する方法である。この方法は送信機と受信機の両方を固定した場所に設置する必要があって移動する艦船には使えないため、陸軍に相応しいシステムであろうと結論がでる。
日本陸軍が1940年に開発した超短波警戒機 甲 はこの原理を応用したレーダーである。
1934年12月に海軍調査研究所の ページ が送信機と受信機を離れた場所に設置して周波数60MHzのパルス波を使い、1.6km離れた航空機からの反射波を受信すると海軍はレーダーにパルス波を使うことを決める。1936年4月にページが周波数28MHzのパルス波を使って40kmの距離にある航空機を探知して海軍幹部にデモする。送信アンテナと受信アンテナが別々なために大きなスペースが必要であったが,ページは1936年8月に送信アンテナと受信アンテナを共通に使うための送受切替え回路を開発する。米国はこの年の6月にレーダーを防衛秘密に指定する。

独、英、露、日のレーダー開発

1935年頃、いくつかの国がレーダーを開発していた。ドイツではGEMA社が1935年に周波数600MHzのパルス送信機を使って8km離れた軍艦を探知する。この年の2月26日に英国の ワトソン・ワット が周波数6MHzのパルス波を使って13kmの距離の航空機を探知することに成功して、英はすぐに装備開発を始める。
イタリアではマルコニーがバチカンとローマ法王の別荘の間を結ぶ無線電波が、近くを航行する船によって乱れることに気ずいて1935年8月にイタリア陸軍用にレーダー試作品を作る。
ソ連ではレニングラード電気研究所がレーダーを試作して約3kmの距離の航空機を探知する。
日本陸軍も1936年(昭和11年)にレーダーの研究を始め,海軍技術研究所の伊藤庸ニがドイツに出張してレーダーという装置を知るのが1937年で欧米に較べてもそれほど遅くはなかった。

艦船搭載用レーダー CXAM

CXAM
艦船搭載用レーダー CXAM
手前の戦闘機はF−4Fワイルドキャット

1937年4月に米海軍調査研究所は周波数200MHzの艦船搭載用レーダーの試作品を完成して,駆逐艦『レアリー』に搭載してエジソンや海軍幹部が見学する中で、試験を行った。この試験で32kmの距離の航空機を探知すると、翌年9月に艦船搭載レーダー XAFが完成する。周波数200MHz,出力15kW,パルス幅5μsである。当時高い周波数扱うことができる真空管はまだ無かったので,RCA社が250MHzを扱うことができる高周波受信用の3極管 955と,5極管 954を開発する。この真空管は高さ32mm,直径が14mmで形がどんぐりと似ているのてエーコン管と呼ばれる。
敵の航空機をできるだけ遠くで発見するにはレーダ波の出力を大きくしなければならない。エイマック社が出力100Wの送信管100THを開発する。
RCA 社も海軍と独立に周波数475MHzの艦船搭載用レーダー CXZ を開発する。
1939年5月、海軍の XAF とRCA の CXZ の比較評価試験がカリブ海で行われる。XAF を軍艦『ニューヨーク』に搭載し、CXZを軍艦『テキサス』に搭載して試験する。いずれのレーダーも77kmの距離の航空機,16kmの距離の艦船を探知して性能はほとんど同じであった。海軍は艦船搭載用として運用に優れている XAF を装備することに決める。これが CXAM である。製造は RCA が担当する。1940年9月に6台が戦艦『カリフォルニア』,空母『ヨークタウン』と,4隻の巡洋艦に装備される。
CXAM を改良したレーダーが CXAM-1 で、RCAに14台注文され,1941年10月から軍艦『テキサス』『ペンシルバニア』『ウェストバージニア』『ノースカロライナ』『ワシントン』,空母『エンタープライズ』『レキシントン』『サラトガ』『レインジャー』『ワスプ』などに装備する。これが開戦時に米国海軍が艦船に装備していたレーダーである。戦艦『カリフォルニア』真珠湾で爆撃されて大破したが、搭載されていた CXAM は海中から取り外されてオアフ島のレーダー訓練基地に移設されて操作教育に使われる。
CXAM の仕様
周波数200MHz
パルス幅5μs
パルス繰り返し周波数1640Hz
出力15kW
航空機探知距離90km
艦船探知距離22km
距離精度±180m
方向精度±3度
アンテナ4.5m×4.8m, 手動回転
表示装置A SCOPE

RCA955
エーコン管

100TH
Eimac100TH

射撃制御レーダー SCR-268

SCR-268
SCR-268

1935年12月に米国陸軍通信研究所のコルトンは,海軍調査研究所がパルス波を使用してレーダーを開発していることを知る。1937年1月に陸軍は海軍のレーダー CXAM の送信機の供与を受けて、敵の位置を正確に測定する射撃制御レーダーの開発を進める。
1938年11月夜,陸軍のフォート・マンモス基地で アーノルド将軍 が視察する中で実験が行われた。高度6000mで飛行するB-10爆撃機を探知してレーダーに連動した探照灯の光の中に爆撃機が捉えられた。すぐに製品化の指示が出て,ウェスタン・エレクトリック社に注文され1941年2月に1号機が完成する。これが射撃制御レーダー SCR-268 である。SCRは"Signal Corps Radio"の頭文字である。
SCR-268 は車載レーダーで5台のトレーラーで構成される。このうち2台は発電機と電源装置で15kVAを発生する。1台がレーダー本体,他の2台が運搬用である。レーダーを搬入して据え付けてから稼動するまでの所要時間は約3時間である。

SCR-268 の仕様
周波数200MHz
出力75kW
パルス幅7-15μs
パルス繰り返し周波数4098Hz
送信アンテナ16個の半波長ダイポール
受信アンテナ水平方向用と高さ測定用のダイポール2台
探知距離36km
方向精度1度
距離精度±180m
ビーム切り替え装置
表示装置距離,水平,垂直を表示する3個

真珠湾攻撃の日本機編隊を発見するレーダー SCR-270

SCR-268の探知距離は36kmと短距離である。海軍調査研究所のテイラーが、陸軍通信研究所のコルトンに,

陸軍は設置場所の広さには制限が無く,アンテナを大きくすることが可能なので、大きい出力が送信できる周波数100MHzのレーダーを開発して、もっと遠くを探知できるするのが良い。

と提案して航空機早期警戒レーダーの開発が始まる。1939年6月に技術試験が行われて240kmを探知し,陸軍通信研究所は訓練用として18台を製作する。これが SCR-270 である。1940年1月,メリーランド州バルチモアにあるウェスチングハウス社に注文して、1号機が1940年秋にパナマに設置され、1941年6月にハワイに5台が据え付けられる。戦争中に合計800台が生産された。
SCR-270 は移動式で4台の車輌から構成される。1台は発電機と電源で,ル・ロイ社の76馬力のガソリンエンジンで、ウェスチングハウス社製の発電機が15kVの電気を供給する。2台目はアンテナ運搬車、3台目は折りたたみ式のアンテナ塔を建てるためのクレーンである。4台目がレーダー室で送信機、受信機,レーダー反射を捉えるブラウン管が組み込まれている。ウェスチングハウス社は送信機の真空管用に水冷の3極真空管WL530を開発する。
送信機とアンテナの間は直径7.5cmの銅の導波管で接続してここをマイクロ波が流れる。受信機はスーパーヘテロダインで,高周波部にはRCAのエーコン管 954 と 955 を使う。目標位置表示装置は直径5インチのブラウン管である。
ウェスチングハウス社でレーダーの最終組立が終わると、ニュージャージー州にあるウェスチングハウスの敷地からニューヨークのブルックリンにあるガス貯蔵タンクを目標にして調整し、次にボルチモア市の飛行場に離着陸する航空機を目標にして最終試験をする。
1941年6月に5台の SCR-270 がハワイのオアフ島に到着して操作の訓練が始まり、12月にカフク岬に設置した SCR-270 がオアフ島の北220kmを飛行している日本機の編隊を発見する。
現在,米国ボルチモア市にある『電気歴史博物館』が SCR-270 を保存している。

SCR-270 の仕様
周波数106MHz
出力100kW
GAIN21db
パルス幅10-25͘s
パルス繰り返し周波数621Hz
アンテナダイポールアレイ
ビーム巾28度
航空機探知距離180km(高度6100m)
水平方向精度±4度
距離精度180m
ビーム切り替え装置

WL530
Westinghouse WL530

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佐々木 梗 横浜市青葉区
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