真珠湾攻撃

新高山登れ

航空機早期監視レーダー SCR-270
航空機早期監視レーダー SCR-270

1939年9月にドイツがポーランドに進撃して第二次世界大戦が始まった。翌年の9月に日本はドイツ,イタリアと三国軍事同盟を調印する。翌年連合国がABCD包囲網をつくると,日本はそれを解除させるための交渉を米国と始める。これに対して米国は日本軍が中国大陸から撤退すること,三国軍事同盟の破棄を要求する。1941年8月に米国が発動機用燃料と,航空機用潤滑油の日本への輸出を禁止すると,陸軍を中心に早期開戦の強硬論が主流になって,10月に東条内閣が成立し11月5日に大本営が連合艦隊に真珠湾攻撃準備を命令する。
11月26日,連合艦隊は択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾から出航して西に向かう。12月2日,17:30,広島に停泊している連合艦隊の旗艦『長門』から「新高山登れ一二〇八」が呉通信隊経由で東京目黒の海軍通信隊に送信され,さらに千葉県勝浦にある行田船橋無線局から20:00に4175kHz,8350kHz,16700kHzの3つの周波数を使って放送される。西経165度,北緯4343度付近を航行中であった連合艦隊は「新高山登れ」を受信すると南に転進してハワイに向かう。
ハワイ時間の午前5時頃,ハワイの北360kmの太平洋海上では南雲忠一中将が指揮する第一航空戦隊の空母『赤城』,『加賀』,山口多聞少将が指揮する第二航空戦隊の空母『蒼龍』,『飛龍』,原忠一少将が指揮する第五航空戦隊空母『瑞鶴』,『翔鶴』からなる機動艦隊がハワイに向かっている。
ハワイ時間06:00,東の空が白むと第一次攻撃隊の搭乗員に「発艦はじめ」の号令がかかる。日の出26分前,下弦の月,気温摂氏22度。東北東13mの風で,空母は風に向かって速力を時速44kmに上げる。空母『赤城』から制空隊隊長板谷茂少佐が乗る零戦が最初に発艦し,6隻の空母から次々と機が離艦する。第1次攻撃隊は淵田美津雄隊長が指揮する九七式艦上攻撃機49機,村田重治隊長が指揮する九七式艦上攻撃機40機,高橋赫一隊長が指揮する九九式艦上爆撃機51機,板谷茂隊長の零戦43機の合計183機である。
続いて第二次攻撃隊の169機が07:15に発艦する。
偵察のため先に発進した零式水上偵察機から07:35,淵田機に,
「アメリカ艦隊,真珠湾に在り。」
「風向80度,風速14m,雲量7,雲高1700m。」
と電信連絡が入る。

米国 航空機早期監視レーダー SCR-270

ハワイのオワフ島南の真珠湾には米太平洋艦隊の基地がある。1941年6月に米陸軍はオワフ島に6台の航空機早期監視レーダー SCR-270 を設置して,北の空の警戒を始めた。11月に SCR-270 を再配備して1台を島北端のカフク岬にある陸軍基地に配備して北の空の監視を強める。
ハワイ時間の1941年12月7日,日曜日の朝,カフク岬ではレーダーの操作員のロッカードが,エリオットに操作訓練をしていた。気温は摂氏18度。曇りで雲の灰色と紺色の海が北の地平線に溶けている。レーダー用発電機からのエンジン音がゴウゴウと響いている。2人は昨夜ここに着いてレーダーの傍のテントに泊まり,朝の4時からレーダーを動かして訓練を始めた。7時になれば訓練を終了する。
このレーダーの周波数は102-110メガヘルツ(MHz)で,波長に換算すると2.8mである。性能は240km離れた空を飛ぶ航空機を探知できる。レーダーは4台のトラックから成っている。1台目は電源車,2台目はアンテナを積載し,3台目は高さ16mの折り畳み式のアンテナ塔を積載している。 4台目はレーダー操作室である。操作盤に送信機,受信機と目標位置表示機が組み込まれている。ロッカードが操作盤の前に座ってレーダーを操作し,エリオットが指導している。表示機はAスコープで直径13cmのブラウン管画面の左側と右側に白い波形が映っている。右の波形は発射した電波が目標に反射して戻ってきて受信された電波を示している。左の波形と右側の波形との間隔が探知した目標までの距離である。この間隔が広いと目標までの距離が大きい。そして編隊のように反射する目標が大きければ,反射波が強いので,右の波形は大きい。
ハワイ時間06:45,小さな反射波がブラウン管に映る。エリオットは規則に従ってシャフター基地に電話して探知したことを連絡する。この反射波は日本軍の偵察機であった。日本機はレーダー波を逆探知するための電波探知機を持っていないので米国のレーダーに発見されたことに気付かない。
カフク岬の西にあるカワイロアのレーダーも,東のカアアワのレーダーも探知するが7時になって,訓練時間が終わったので,この2台のレーダーは停止される。しかしカフク岬ではロッカードがレーダーの操作についてエリオットに質問していたために停止せずに電波を出し続けていた。
07:02,大きな反射波がブラウン管に映る。今までに見たことが無いような大きい反射波なので,アンテナの向きを調整してレーダーが故障していないことを確かめて,それが航空機の編隊であると判断して,エリオットがその位置と時間を地図に記入する。編隊はハワイの北方約220kmの距離にあって,ハワイに進んでいる。07:06にエリオットが報告のためにシャフター基地の情報センターに電話するが,電話交換員のマグドナルドしか居ないので,彼に大編隊の航空機が近づいていると伝える。14分後の07:20,情報センターのタイラー将校から折り返し電話がある。エリオットが,
「07:02,北の方向約220のもに大きな航空機編隊を探知しました。ハワイに向かって飛行中。現在はハワイからの距離147kmの位置で,時速280kmの速度で接近中。」
と伝える。タイラーは米国本土から飛んで来る米軍のB-17爆撃機と思って,
「味方機だ,心配するな。」 と答える。2人は暫く探知を続ける。編隊はオアフ島の西に向かう。07:39,編隊までの距離が32kmになると,レーダー波がオアフ島の西にあるライアナエ山脈に隠れて,ブラウン管から波形が消える。2人はレーダーを停止して迎えのトラックに乗って基地に戻った。
 SCR-270操作盤
SCR-270 操作盤
SCR-270仕様
周波数106MHz
出力100kW
GAIN21db
パルス幅10-25͘s
パルス繰返周波数621Hz
アンテナダイポールアレイ
ビーム巾28度
探知距離180km(高度6100m)
水平方向精度±4度
距離精度180m

「我,奇襲に成功せり。」

攻撃隊はオアフ島に向かって飛行している。制空隊の隊長であった 淵田美津雄 が飛行中の情景を描いている。
「天候はあまりよくない。風は北東十数メートルで,海上はしけている。空は千五百メートル付近から三千メートルにかけて,密雲がとざしている。編隊群は高度三千メートルで,雲の上をすれすれに飛んでいる。雲上は快晴である。東の空に昇ったばかりのまっかな太陽が,大きく荘厳に輝いている。海面は見えない。下に見えるのは,真綿をちぎって,しきつめたような白一色の雲海である。…私は前方の雲から島影を見つけようとひとみをこらしている。雲は次第にとぎれてきた。ときどき,海面が雲のすき間を通して,見え隠れする。突如,飛行機の真下に,長く続く白い一線が目にうつった。オアフ島北岸の海岸線である。私はただちに右に変針し,全軍をオアフ島の西海岸の方へ誘導した。真珠湾の上空は晴れている。やがてオアフ島の真ん中にひろがる平野を通して,真珠湾が見えてきた。見下ろす真珠湾一帯には,朝もやが立ちこめている。朝食の炊煙が,たなびいているようにも見える。静かな景色である。… 私は時計を見た。時刻は午前三時十九分,ちょうどいい。いまから突撃の下命をすれば雷撃隊の先陣が午前三時半きっかりに攻撃の火ブタをきるであろう。私は後席の電信員を振り返って「ト連送」と命じた。まちかまえていた 水木徳信 一飛曹が攻撃隊に,07:49,「ト,ト,ト,…」と打電する。」
無線機は『九六式空三号無線電信機』で周波数7635kHzである。「ト,ト,ト,…」は瀬戸内海の柱島に停泊している連合艦隊の旗艦『長門』が直接受信して,作戦室にいる 山本五十六 司令長官に伝えられる。日本時間の12月8日の03:19である。
07:53,上空には敵戦闘機の姿は見えず,対空砲火も見えない。淵田隊長は,
「我,奇襲に成功せり。」
と打電する。
07:55に 高橋赫一 隊長の九九式艦爆が真珠湾上空に到達し,ホイラー飛行場に250キロ爆弾を投下して攻撃が始まる。第一次攻撃は08:25に終了,第二次攻撃が08:49から始まり09:45に攻撃が終了する。日本軍編隊を発見したレーダー SCR-270 も再び動かされ,攻撃を終わって北に帰る日本機を追跡していたが,そのレーダー情報は混乱のために紛れてしまう。真珠湾攻撃で米太平洋艦隊は戦艦5隻が沈没し,米国民間人68人と,軍関係者2336名が死亡した。 日本時間の12月8日午前7時,NHKラジオから臨時ニュースが放送される。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は,本八日未明,西太平洋においてアメリカ,イギリス軍と戦闘状態に入れり。

昭和17年元旦の朝日新聞西部版
真珠湾を攻撃中の日本軍

開戦
宣戦布告

真珠湾を忘れるな!

ワシントン時間の12月7日,12:29に ルーズベルト 大統領が日本に宣戦布告する。
SCR-270を開発した米国ニュージャージー州の陸軍通信研究所の科学者達は真珠湾攻撃を聞いて,
「ハワイのレーダーは役に立たなかったのか。」
と心配するが,数日後ワシントンにいる陸軍通信研究所のコルトン大佐から,
「レーダーは7時2分に日本の編隊を発見していた。」
と電話が入る。
米国でレーダーを開発してきた放射波研究所は英国にレーダー運用についてのコンサルタントを依頼する。英国からワトソン・ワットが,真珠湾攻撃のわずか2日後の12月9日にワシントンに到着する。ワットは世界で始めてレーダーを実用化したレーダー技術者である。ワットは海軍調査研究所や陸軍通信研究所を訪問し,パナマ基地に設置してある射撃制御レーダー SCR-268 も調査する。

「米国のレーダーの性能は,英国よりも優れている。しかしレーダー操作者は十分に訓練されていないし,レーダー情報を使うための運用システムが全く出来ていない。」

と報告書する。それまでは米国のレーダー開発は政府,官,学,民間企業の連携が良くなかったが,真珠湾攻撃の衝撃により連携が強まり,米国でのレーダー開発は急速に進む。
12月中旬に米国海軍は約100台の艦船搭載レーダー CXAM を艦船に装備し,陸軍は射撃制御レーダー SCR-268 と,航空機早期監視レーダー SCR-270 数百台をアイスランドやパナマなどに配備する。真珠湾で撃沈された戦艦『カリフォルニア』に搭載されていた航空機監視レーダー CXAM は海中から引上げられ,ハワイのレーダー学校に設置されて操作教育に使われる。翌年1月には放射波研究所からカマーが英国に派遣され,英国の航空機早期監視レーダー『チェーン・ホーム』を調査し,6月に帰国してからマイクロ波を使用する航空機早期警戒システムの開発を始める。

真珠湾攻撃から62年後の,2003年12月20日の土曜日,日本の編隊を発見したジョージ・エリオットがフロリダで85歳で亡くなった。息子のトムが,父は,
「もしも我々の報告を聞いて,すぐに対応をしてくれていたなら,もっと多くの人命が助かったかもしれない。」
と,いつも話していたと語っている。24.Dec.2003 Associated Press

真珠湾攻撃を伝えるハワイの新聞
真珠湾攻撃を伝えるハワイの新聞

真珠湾攻撃がレーダーで発見されたことを日本も戦争中に知っていた。

戦争中の昭和18年2月に泉信也が『ラジオロケーターの話』を書いている。

米軍が開戦前からラジオロケーターを開発して,1941年春からハワイに設置していた。11月27日から毎日朝4時から7時までラジオ・ロケーターによる防空警戒体制をとる。このうちの1台のラジオ・ロケーターは7時過ぎまで訓練を続けて日本機を発見する。攻撃を受けてハワイに設置してあるラジオ・ロケーターは8時30分から再び稼動を開始した…」

続けて,真珠湾攻撃後に米軍が「ロバーツ委員会」を組織して,「なぜ防空が出来なかったか?」を調査し,翌年の1月23日に『日本軍による真珠湾攻撃』が出されたことを紹介している。
『ラジオロケーターの話』には日本軍がフィリピンで奪取した米軍の射撃制御レーダー SCR-268 の図や,シンガポールで奪取した英国のレーダーの写真も掲載している。   ⇒英米のレーダーをコピー
レーダーは最先端の軍事技術である。なぜ英米のレーダーについて一般に紹介することが許されのであろう。開戦翌年の昭和17年4月18日の昼,米陸軍B-25爆撃機が東京を空襲した。 日本軍がレーダーの必要性を痛感してレーダーの開発と装備のために,民間の技術を活用しようするのはこの後である。雑誌『無線と実験』も昭和18年に英米のレーダーを頻繁に掲載する。

ラジオロケーターの話
ラジオロケーターの話(表紙)

戻る 目次 出遅れた日本のレーダー

佐々木 梗 横浜市青葉区
COPYRIGHT(C) June 2010 TAKESHI SASAKI All Right Reserved
ikasas@e08.itscom.net