歩く絹の道(浜街道)
浜街道芝生追分横浜道(横浜港
iー愛ロマンチカ
     
この区間は、2010.05.02に歩いた。
東海道と浜街道の分岐点芝生追分から、
東海道、次に横浜開港で開かれた横浜道を歩き横浜港に到達した。
横浜港には、横浜港発祥の地に造成された「象の鼻パーク」があるが、
「絹」にちなみ、その先にある、
生糸及び絹製品貿易の振興発展を目的に開館した、シルクセンタ国際貿易観光会館を最終地点とした
横浜道:1858年(安政5)日米修好通商条約の調印で、幕府は翌年6月に神奈川(横浜)を開港した。
当時は、東海道から横浜への交通は非常に不便であったため、
幕府は、東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内)への「横浜道」を開いた。
横浜道は、
湿地帯だった岡野、平沼の各新田の間に新田間橋、平沼橋(現元平沼橋)、石崎橋(現敷島橋)の3の橋を架け
芝生村から石崎橋まで一直線に土手を築いて造られた。
その先の戸部坂、そして野毛山を切り通しにし、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けた。
横浜道は、新開地横浜への主要道路として大いに賑わった。
  
浜街道の突当りで丁字路となる。
この丁字路は旧東海道の
芝生の追分(横浜市保土ヶ谷区と西区の境界)(写真左)で、
絹の道は左折して西区を進む。
ちなみに右折すると、安売りで有名な
洪福寺松原商店街で毎日がお祭りのよう。
   
2010.5.2 14:01スタート。
絶好の街道日和の
東海道(写真左)を北へ進み、左側に浅間神社参道入口(写真中)
さらに進み、
茶色建物の分かれ道は、左手を進む。
   
その先で県道13号線を直進(写真中)し、茶色マンションの間の道を進む。
ただし横断歩道がないので、
左にちょっと迂回して「宮谷小学校入口」信号から
横断歩道(写真左)で渡り、
マンションの間の道を進む。
    
すぐ先の環状1号線(写真左)に出たたろこで、旧東海道の絹の道は終わる。
旧東海道は、左折して環状1号線を進む。
ここから横浜道の絹の道が始まり、
環状1号線を直進し、「ヒロヤ高木薬局」と「三井リパーク」の間の道を進む。
ただしここにも横断歩道がないので、右に迂回して浅間下信号交差点で横断して戻ってくる。
何となく裏通り的は道(写真中)を進み、すぐ県道13号線と合流して左折する。
    
交通量の激しい13号線(写真左)を進み、新田間川にかかる新田間橋(写真中)を渡る。
横浜道創設時の新田間橋は、対岸の右手の
駐車場ビルと茶色山田ビルの間に架かっていた。
新田間橋:芝生新田(現浅間町)と岡野新田(現岡野町)の新田の間を結ぶ橋であったため、
「新田間橋」と名付けられた。
現在の橋は1927年に架けられたもの。

   
橋を渡り(写真左)すぐ右折し、すぐ先のビルの間(写真中)階段を下りて、細い道を進む。
    
開設時名残の一直線の道(写真左、中)を進み、突当で民家に遮られる。
当時はここから先も一直線に進み、平沼橋(現元平沼橋)、石崎橋(現敷島橋)につながっていた。
ここで、丁字路を左折する。

    
少し進み、高架手前(写真左)を右折する。
県道13号線高架沿い(写真中右)に進み、左側に高架に上がるエレベータ(写真中左)
さらに進み、タマチャンで有名な帷子川に架かる
元平沼橋を渡り、
横浜道は突当りでJR線・相鉄線の金網で遮断され前進不可。
元平沼橋:開設時は「平沼橋」と言い、2005年に架け替えられて「元平沼橋」と称されるようになった。

    
金網越し正面に、横浜道の平沼商店街
    
先ほどのエレベーターに戻り、高架で線路を横断する。
きれいに整備された高架歩道(写真左)を進み、右下方にJRと相鉄線の線路(写真中)
高架歩道の終わり頃に、右下方に先ほど金網越しに見えた
平沼橋商店街入口
    
高架階段を下り、平沼橋商店街入口(写真左)
背後の鉄道金網に、
五雲亭貞秀作
「横濱平沼橋ヨリ東海道神奈川井カルイ澤茶店又遠ク大師河原の裏ヲ見ル」
浮世絵の入った横浜道成立の解説案内板。
   
商店街を通り、京浜急行電鉄高架(写真左)下を潜って信号交差点を横断し、商店街の続きを進む。
   
商店街を通り抜け、
すぐ石崎川にかかる
敷島橋(写真左)を渡り、右手に石崎橋
敷島橋と石崎橋:1859年(安政5)横浜道開設時に架けられた「石崎橋」は、
1915年(大正4)高島町に横浜駅が建設されることで現在の場所に移動した。
「敷島橋」は、その後1930年(昭和5)に以前石崎橋があったこの場所に架けられた。

  
さらに進み、戸部七丁目信号交差点(写真左)で国道1号線を横断し、
人通りのない戸部の
ビル街の道(写真中)を進む。
信号を2つ直進し、ゆるい右カーブ、続いて戸部4丁目信号を直進し、道なりに進む。
戸部3丁目バス停を過ぎた辺りから、道はゆるい坂道となり上る。
   
坂を上りきったところの信号交差点(写真左)を直進し、
その先
戸部1丁目バス停(写真中)辺りから切通しの跡が残る下り坂となり、
坂の途中の
野毛坂信号交差点で左折する。
   
野毛坂(写真左)を下り、急に人混みが多く警官やガードマンが道に溢れる。
右側に、ウインズ横浜館場外馬券場。
今日は競馬開催日で、この人混みは納得。
(撮影写真は何故か人混み実態を現していなく、失礼。)
野毛3丁目信号交差点
で、県道218号線を横断して進む。
  
その先都橋信号交差点を横断し、大岡川にかかる都橋(写真左)を渡り、
西公園前信号(写真中)を直進し、
続く
吉田町信号交差点も直進し商店街の右側歩道を進む。
   
歩道左側地下道入口のところで十字路(写真中)となり、
右手は
伊勢佐木町商店街(写真右)
横浜道は左折し伊勢佐木町入口信号で
新横浜通りを横断し、
JR根岸線高架下を潜り、馬車道を進む。

   
新横浜通りの中ほどの、大岡川の分流吉田川が流れていたところに建設された
首都高速神奈川1号横羽線陸橋「吉田橋」上に、
史跡吉田橋関門跡碑と案内板(写真左)
橋の右下方に、新横浜通りを縦断する
首都高速神奈川1号横羽線の防護ネット。
吉田橋関門と「関内」名称の由来
幕府は、横浜の開港にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設した。
当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋(太田橋)を架け、
その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれるようになった。。
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、
その治安を図るため橋のたもとに街道筋の関所のような「関門」を設け、
武士や町人の出入りを取り締まり、特に武士は外国人との接触を避けるため入れなかった。
関門は、当初港町側に設けられたが、1864年(文久4)に吉田町側に移設された。
「関内」、「関外」という呼び名はこのとき以来で、
関内は開港場区域の馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止された。
関門廃止後も、名残でこの辺りを「関内」と呼ばれているが、
住居表示上の「関内」という地名は、存在しない。
吉田橋は、1869年にイギリス人技師設計による日本最初の鉄の橋として架けかえられた。

    
新横浜通りを横断しJR根岸線高架下を潜り、馬車道(写真右)を進み、
馬車道信号交差点で国道15号線を横断し、
左側に、国指定重要文化財1904年
(明治37)完成旧横浜正金銀行本店本館の、
神奈川県立歴史博物館
馬車道:1867年に開通した、吉田橋から外国人旧居留地に至る道。
外国人は、この道を馬車で往来していたが当時は非常に珍しい光景だったことから、
「異人馬車」と呼び、「馬車道通り」と呼ばれるようになった。

   
次の本町四丁目交差点(写真中)で国道133号線を横断する。
交差点左手前方に、堂々の
横浜ランドマークタワー(写真左)
横浜ランドマークタワー:1990年着工1993年開業、70階建高さ296.3mで日本一の高層ビル。
余談ですが、以前ランドマークタワー隣接ビルに勤めていたとき、
曇の日に窓から見えるランドマークタワーは上部が雲の上で見えなくなるほど高く、
、本当に高いビルだと感心していたものである。
続く
海岸通四丁目信号丁字路を右折する。
   
一直線の海岸通りの道を進み、
左側に1936年
(昭和11)建築日本郵船歴史博物館建物(写真左)の威風。
その先左側に、クイーンの塔として親しまれている1934年竣工
横浜税関本関庁舎
   
すぐ先開港資料館前信号丁字路(写真右)の左手は、
横浜港発祥の地に造成された象の鼻パーク
とてもきれいに整備されたパークで、山下臨港線プロムナード高架の向こうには
現在も桟橋があり港として利用されている。

   
丁字路を直進し、
頭上に「
←300m大さん橋 ↑600m山下公園 →700m中華街案内標識(写真中)
正面突当りに、
生糸及び絹製品貿易の振興発展を図ることを目的として1959年開館した、
シルクセンター国際貿易観光会館(写真右)
「絹の道」の旅は、ここで終わり。
ふと振り返り、後ろ正面に華麗な
横浜ランドマークタワー
やはりランドマークタワーは、日本一美しいタワーだと思う。

  
地下鉄みなとみらい線日本大通り駅から、帰路へ。
               
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