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         歩く 中山道
八幡宿→望月宿
      長野県佐久市)         
iー愛ロマンチカ
この区間は、塩名田宿に引続き2009.5.17に歩いた。
今日も雨がひどく、いろいろ悩まされたが距離も短く余裕の旅であった。
順不動になってしまったが、今日が中山道歩きの完歩の日、
この完歩日が、これまでの時間に追われる旅でなくて、ゆっくり歩ける旅になったとはなんとうれしいことか!
これも前日の雨により、急遽旅を一日延長したためで雨に感謝する次第。
9004年から中山道を歩きそしてホームページ作成に悪戦苦闘した5年間が終り、
またこれで江戸5街道歩きも全て果たしてしまい、これからどうしたらよいのやら、明日からさまよう毎日が続きそう。
経路
(塩名田宿)…(千曲川中津橋)一般道(浅科支所前信号)一般道(八幡神社)(八幡宿)一般道(八幡西信号)
                                             ↓
(望月宿)一般道(長坂橋)一般道(瓜生坂)一般道←142(布施温泉入口信号)一般道(百沢東信号)国道142
        ↓
一般道(御桐谷信号)一般道→県道148(廃校)148→一般道(茂田井宿)一般道(立科町)一般道(芦田橋)…(JR佐久駅)
望月宿の山城旅館からタクシーで、前日の終点塩名田宿外れの中津橋歩道橋(写真中)に9:06到着。
朝から雨で、今日は終日降り続く予報。
今日で中山道の旅は終わりと、ゆっくり歩き始める。
昔は荒れ川であった
千曲川(写真左)は、今おだやかに流れ、そして越後の信濃川に成長して行く。
橋を渡り終え、右側の休憩所のある小さな広場前を通り、
を下り、そして上る。
突当りで右手からの車道と合流し、左折して坂道(写真左)を上り、
約3分ほどの中山道標識の立つ
斜め右の道(写真中)に入り、細い道のを上る。
上り切ったところで左手からの道と合流(写真左)し、右折してさらにを上る。
その先の丁字路の右側の高台(写真中)に、
「涼しさや 直ぐに野松の 枝の形」
芭蕉句碑(写真右)、白い頭巾と前掛けの大日如来像(写真右)
さらに上り、左にカーブして先ほどの車道と
再度合流し、右折して坂を上る。
下原地区のゆるい坂道(写真左)を延々と上り続け、
約9分で坂の頂上
浅科支所前信号交差点となり、以降下り坂となる
      
八幡宿:千曲川西岸にあり、対岸の塩名田宿との距離は4kmもなかったが、
川止めになったときの待機地として、中山道開通のとき周辺の3村の住民を移住してつくられた宿場。
宿場の規模は旅篭3軒と小さかったが、脇本陣が4軒もあったのは本陣が小さかったため?
宿場には、宿名の由来となった1491年
(延徳3)建立八幡社があり、
境内に朝鮮からの渡来人を祀った国指定重要文化財旧本殿高良社がある。
次の望月宿の間には、古代東山道の難所瓜生坂越えがあった
本陣1軒、脇本陣4軒。
住宅のまばらな田園の中の(写真左中)を約5分ほど下り、
左側に「
重要文化財高良社約300m標柱(写真左)
その先で小さな橋(写真右中)を渡り、八幡本町地区のゆるい坂を上り
右側の八幡神社前バス亭脇に「
中山道八幡宿
左側に隣接し、参道入口に「重要文化財高良社本殿八幡神社境内」碑が立つ一の鳥居(写真左)を潜り、
次の八幡神社鳥居の奥に、額殿に県下最古の算額がある1843年
(天保14)建立随身門(写真中)
その正面奥に、御牧郷の総社として1491年
(延徳3)建立国指定重要文化財八幡社旧本殿高良社
高良社:周辺に定着した朝鮮からの渡来人の社で、高麗社の意。
雨の宿場通りのゆるい(写真左)を上り、右側に当時の門が残る小松本陣跡
道の反対側には、脇本陣、問屋などがあったが現在は全くその形跡なし。
八幡中町信号交差点(写真左)直進し、
八幡入口バス停(写真中)前を通り、その先右側の「中山道八幡宿で宿場は終わり。
しっとりとした情緒の雰囲気が感じられた宿場通りのように思えたが、単に雨で濡れていたから?
その先で左にカーブして八幡西信号丁字路(写真左)で国道142号線と合流し、右折して進む。
ゆるい
(写真中)を約8分下り、百沢東信号で右折し右手から合流する県道44号線を横断して、
歩道に渡る。
ここからちょっと複雑で、地元の人も道路ができてから旧中山道はめちゃめちゃになったと嘆いていた。
旧中山道は横断したら、まっすぐ手すりの向う側の道(写真左)につながていたのではないかと思う。
現在は手すりがあるので、左折して手すり沿いに進み、
手すりの切れているところから右下の坂を下りて先ほどの道に出て、左折してゆるい坂を上る。
現地には、中山道標識もなく、手すりでガードされているので、私のようにそのまま142号線沿いに上がってしまいそう。
数分で当時の面影を感じる、百沢集落に入る。
集落の中を上り右側火の見櫓鉄塔(写真左)下の高台に、
長野県安曇地方が発祥の道祖神で、男女が酒を酌み交わす
祝言道祖神
祝言道祖神:安曇系は通常神々の装束で造像されるが、この道祖神は宮廷貴族風装束の類例のない珍しいもの。
その先の分かれ道は、左手の細い道(写真左)を進み、布施温泉入口信号交差点(写真中)手前に出て、
道を横断して
142号線沿い歩道を上る。
本来の旧中山道は、布施温泉入口信号交差点から142号線を横断して反対側に出て、
少し進んでから142号線と並行して進む。
ただ地元の人は、この旧中山道は道路造成で多くの部分で道が消滅しているとのこと。
ゆるい坂道を上り続け、左側の「望月融雪基地」建物がある交差点(写真左)で右折し
中山道望月宿方面案内看板(写真中)が立つ突当りで左折して坂を上る。
その先の突当りの分れ道は、中山道標識に従い左折する。
注1:「望月融雪基地」建物前に下から上がってくる道は、途中消滅している旧中山道
注2:交差点からさらに約100m142号線を上ったところに、
右折する入口に道祖神と並び「中山道望月宿」看板のある県道151号線は、旧中山道と全く別の道。
緑の林の中の坂道(写真中)を上り望月トンネルを越え、続いて下り左側に瓜生坂一里塚跡碑(写真左)
さらに下り左側に
中山道 道はここか土手を斜めにくだっていた案内板で、→先は獣道もない草むらで、沢へ下っている。
雨に濡れながでも下ろうかと思案したが、一人旅の身万が一沢に入り込んで迷ったら全く人影のないこの辺り、
数年後身元不明の白骨となって発見されること必至、と思ったらヤ~メた。
気を取り直して坂を下り、左側に百万辺念仏塔(写真左)と古代の東山道であった中山道瓜生坂碑
坂の途中の丁字路(写真左)で右折する道は、望月城跡へ至る道。
さらに右に、左にカーブを繰り返して下り、
左下方に
142号線とガソリンスタンド(写真左)が見えるその先で左にカーブする。
カーブするコーナーの、
←中山道望月宿方面案内標識(写真左)従い突当りの坂(写真中)を下る。
カーブをそのまま進むと、すぐ先で142号線と合流。
石畳の直線的な
坂道を下る。
突当りで右折し、さらに(写真左)を下る。
右折したところの右側に、馬頭観音、道祖神などの「
長坂石仏群
道なりに坂を下り、突当り(写真右)を左折してすぐ鹿曲川(写真左)にかかる長坂橋を渡る。
初期中山道は、長坂橋を渡らず鹿曲川沿いに進み、中之橋を渡り、現望月宿入口信号から右折して宿場に入っていたが、
1743年の洪水で現在の道に移転した。
橋を渡り(写真左)を下り、続いて上り、分かれ道(写真左中)は右手の坂を進み、
左側
旅館島田屋(写真右中)角で県道166号線との交差点に出て、右折し望月宿に入る。
    
望月宿蓼科山の裾野にあって、平安時代から馬の名産地で知られ、馬の売買で賑わった宿場。
旧暦8月15日の満月の日に、朝廷に馬を献上したことから、
満月を意味する「望月」の名がついた。
現在の町並には、脇本陣や宿最古の建物の旅籠兼問屋などの当時の面影を残す建物が残っている。
望月地区は、古くからの原始信仰である野仏像や道祖神が3,000基以上残っていると言わる石仏の里。
本陣1軒、脇本陣1軒。
雨の宿場通り(写真中)は、しっとり濡れて当時情緒をかもしだしている。
166号線の坂道を下り、
左側に
旧旅籠井出野屋旅館(写真左)、道を挟んで右側に私が宿泊した旧旅籠山城旅館
さらに左側に、門が再建されている本陣跡(写真左)の望月歴史民俗資料館、
隣接して、小児科医院に「
御本陣看板
子供相手の商売とは言え、御本陣とは!
誰に対する敬語なのか?なんとなく自分のことを「様」づけで呼んでいるような奇異な感じがする。

歴史民俗資料館に隣接しているので、本陣跡は確かなのであろうが、「御」のついた本陣など5街道歩いて初めての経験。
道の反対右側に、公衆トイレがある商工会館(写真右)、続いて当時の面影が残る鷹野脇本陣跡(写真中)
さらに右側に、
1785年
(天明5)建築で望月宿最古建物、旅篭と問屋を兼ねていた重要文化財真山家住宅の大和屋。
その先の丁字路で右折する166号線と分かれ、直進する。
宿場外れの左側に、
毎年8月15日天下の奇祭勇壮な火祭り「榊祭り」を執り行う由緒ある
大伴神社(写真左)
その先の坂を上り、途中から
右に分かれる道(写真中)を上り、
続く
分かれ道は左手を進む。
突当りの丁字路(写真左)を左折し、続く丁字路を右折し、
御桐谷信号三叉路(写真左)を直進して坂を下り、次の御桐谷西信号交差点横断して坂を上る。
緑の山道(写真左)を道なりに上り、国道142号線(写真中)ガード下を潜り、
さらに上り「しなの山林美術館」看板の立つ
丁字路で、
右手の望月宿西入口信号からくる県道148号線と合流して直進する。
道は下りとなり、また上る坂の「旧小学校前バス停(写真中)の左手は、
チェーンで通行止めされている花咲く入口の奥に
廃校になった校舎(写真左)でここにも少子化の象徴。
さらに上り右側
武重歯科医院辺りが坂の頂上で、その先で道なりに左にカーブする。
約2分ほど進み、
左側
観音寺入口バス停(写真中)の左手山道上り口に「歴史をひらくはじめの家看板(写真左)
意味深な文字の誘惑にかられたが、たまたまバス停でバスを待つ旅行者らしき40代の美貌の女性に尋ねたら、
彼女は誘惑に負け訪ねたが、もう家は閉鎖されていてガラス窓から壁に貼ってある写真を見ただけとのこと。

時間を浪費しなかったことで彼女に感謝し、
頭上の「左142号線、直進旧中山道・茂田井宿」交通標識を確認して、
先に進み右手下方にとても神秘的に見えた
大きな池
約2分ほどの分かれ道(写真左)は、交通標識に従い148号線と分かれ直進し、
左側に「
中山道茂田井入口案内板(写真中)のある坂道を下り、を下り続ける
約5分ほどで間の宿茂田井宿(写真左)に入り坂を上り、下りで前方に白壁土蔵に白塀のはっとする光景。
ここから上り坂となり、
国の登録有形文化財「
武重家住宅及び武重本家酒造建造物(写真中)30棟が並ぶ宿場通りで、
中ほどに杉玉が吊るされた
酒造所入口(写真右)
道の反対左側の用水路脇に、酒仙の歌人として知られている
若山牧水の歌碑
歌碑:3首 「よき酒と ひとのいふなる 御園竹 われもけふ飲みつ よしと思へり」
「しらたまの 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり」
「ひとの世に たのしみ多し 然れども 酒なしにして なにの楽しみ」
当時の情緒が色濃く残る、とてもきれいな通りは急坂となり、
右側の白壁の建物群は
大澤酒造(写真左)で、中ほどに杉玉が吊るされた入口
大澤酒造:酒づくりや街道文化の資料を展示している酒蔵を改造した「大澤酒造民俗資料館」、
大沢邦雄画伯を中心とした 「しなの山林美術館」 を無料で公開している。
大澤酒造の塀の外れに、高札場跡案内版(写真右)
道を挟んで反対側に、「
百貨店看板店があったが百貨どころか店内は商品がカラッポ、不景気のせい?
素晴らしい建物(写真左)が並ぶ通りの坂を上がり、
佐久市から立科町に入り
交差点(写真中)を直進し狭まった坂を上がり、白壁土蔵の下り坂となる。
その先の上り坂となる左側丁字路、
無量寺への参道入口に、何故か傾いている巨大「
馬頭観世音(写真左)
さらにゆるい坂を上り続け、急坂の
石割坂を上る。
上り切った左側に、「←中山道茂田井一里塚跡案内板(写真中)が立つが、
自動車が2台駐車していて奥にある「
一里塚跡案内板(写真左)に近づけない!
史跡などの前に、自動車、バイク、自転車があって近づけないことは多々あること、諦めるしかない。
ただここの駐車は、私の各種観点からの推察では、不法駐車であると思う。

さらに進み、ゆるい
下り坂となる。
突当りで左手からの道と合流(写真左)し、右折して(写真中)を上り、その先で下り坂となる。
道なりに下り、左側のガソリンスタンド(写真左)前を通り、
その先に
芦田川(写真右)にかかる見覚えのある小さな芦田橋
今日はここまで、そして長かった中山道の歩きも無事完歩。時は13:36.
2007.8.9にここから芦田宿へ出発したときは、すばらしい青空であったが、今日は夕暮れのような雨の中。
近くのバス停まで歩き、待合小屋でびっしょり濡れた合羽やシャツなどを着替えてタイミング良いバスに乗ってJR佐久駅へ。
そして長野新幹線で東京へ、横浜へ。
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鎌倉街道