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                 歩く 中山道
追分宿→小田井宿→岩村田宿
長野県軽井沢町)    (長野県御代田町)      (長野県北佐久市) 
 iー愛ロマンチカ
この区間は、2009.5.16に贄川宿に続いて歩いた。
実は追分宿は、2007.4.28に歩いたいたとき、予報に反し突然雷と集中豪雨にあって、慌てて引き返したところであった。
今回は、午後から雨との予報で心配したが、なんと13時ころに雨が降り出し予報が当たる。
気象庁の予報は、普段こんなに正確に当たっていたのかと、またまたイジケテしまった。
経路
(しなの追分駅)…一般道(追分宿)(追分宿信号)国道18→一般道(御代田町一般道(しなの鉄道トンネル一般道(栄信号)
                                                         ↓
 一般道(塩名田信号)県道154(相生町信号)(岩村田宿)国道(小田井南信号一般道(佐久市一般道(小田井宿)一般道
     ↓
   (塩名田宿)(千曲川中津橋)
追分宿:江戸日本橋から、20番目の宿場。
浅間根越え3宿
(軽井沢、沓掛、追分)の1つで、古代より交通の要衝地であった。
宿の西はずれの北国街道との分岐点として賑わい、元禄時代には飯盛り女が200~270人もいたという。
また「追分」の名前は、この分岐点に由来する。
民謡に多く見られる、追分節の発祥の地。
本陣1軒、脇本陣2軒。
篠ノ井駅から、しなの鉄道で信濃追分駅に9:38到着。
駅からタクシーで、前回2007.4.28の終了地点に9:46到着。
国道18号線の一里塚跡のすぐ先の右へ入る道(写真左)が旧中山道で、
三角地帯に「
追分宿看板(写真中)
ゆるい
坂道を下り、右頭上の「追分宿郷土館」案内看板を過ぎて左にカーブする。
右側追分公園の中に、
入ってすぐの左側1793年(寛政5)建立「吹き飛ばす石も浅間の野分哉」
芭蕉句碑(写真左)
正面奥に、軽井沢町最古の室町時代初期様式の
浅間神社本殿(写真中)
その右手に、平成7年建立
追分節発祥の地碑
追分節
浅間根腰の焼野のなかで あやめの咲くとはしほらしや
追分桝形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか
吹飛ばす石も浅間の野分と詠んで 芭蕉翁は江戸へさる
浅間山ではわしゃないけれど 胸に煙がたえやせぬ
追分一丁二丁三丁四丁五丁 中の三丁がまつならぬ
坂を下り切ったところでサラリーマンなら是非あやかりたい昇進橋(写真右)を渡り、ゆるい坂を上る。
すぐ左側に、
屋外図書ボックス!これは「夢のはこ」と言う。
「贅沢な仕事」など約40冊が整然の収納されていて、大人向の本ばかり。
夢のはこ
青空文庫きまり 一、 本の出し入れは自由です。
一、 借りる人は一冊にして下さい。蔵書にされる方は代り本を置いて下さい。
一、 成人向けの雑誌及び写真集は置かないで下さい。
ガラス戸は必ず閉めて下さい。
坂を上り切り(写真右)、続いてゆるい坂を下り宿場の中心に入る。
左側に、堀辰夫の原稿・書簡・初版本・遺愛の品々が展示されている
堀辰夫文学記念館
堀辰夫:明治37年東京に生まれ、昭和初期に活躍した作家 。
大正12年19歳の時に軽井沢を訪れて以来、毎年のようにこの地を訪れ、軽井沢を舞台とした数々の作品を残した。
昭和19年からは追分に定住し、この地に建てた家で昭和28年に49歳で亡くなった。
右側に、堀辰夫が「風立ちぬ」を執筆した脇本陣(写真右)油屋旅館。
続いて右側土屋家門柱に
旧本陣跡碑(写真中)、隣接して左に復元された高札場
中山宿追分宿行灯(写真左)に宿場風情を感じて、その先右側に、
堀辰夫がこよなく愛した
半跏思惟石仏(写真右)が墓地にある1598年(慶長3)創建泉洞禅寺
道なりに進み宿場西出口の枡形跡突き当りの、
追分宿信号交差点(写真左)で国道18号線に合流し、右折してゆるい坂(写真右)を下る。
下り坂は、これ以降も佐久市の鵜縄沢一里塚跡辺りまで延々と続くことになる。
合流点右角に、当時枡形茶屋と呼ばれた今も現役の
つがるや
18号線を約2分進み、
左頭上の「
旧中山道標識(写真左)に従い19号線から分かれて左手のゆるい坂道を進む。
道の右側の
小さな公園に、中山道のミニチュア街道模型、約900年前の浅間大噴火の時の焼石、
奥に「中山道69次資料館」。
緑の中の全く人も車も通らない林の中の坂(写真左)を下り、
左角に別荘の名前の表札がびっしり立並ぶ
交差点(写真中)を直進し、
さらに
交差点を横断して道なりに延々と坂を下り続ける、
その先の御代田町境界標識(写真左)で、軽井沢町から御代田町に入る。
標識の左手に、「
千ヵ滝、湯川用水温水路人工池
温水路:もとは1650年(慶安3)、柏木小石衛門が開削した約65kmの農業用水。
ただ、浅間山の山麓で火山の軽石等が多いため、漏水がひどく何度も改良を繰り返し、
現在のものは戦後、約21kmにわたり改修したもの。
千ヶ滝、湯川は浅間山の中腹を水源としており雪解け水や湧水が中心で、稲作には水温が低すぎるので、
水温上昇のために作られた施設が、この幅20m、長さ934mの人工の池。
さらに坂を下り続け、右からの18号線から分かれてきた道と合流(写真左)し、十字路(写真左中)を直進し、
擁壁の脇(写真右中)を通り、林の中を進む。
道路標識も全くなく、正直今どのあたりを歩いているのか分からない。
林を抜けると、追分宿信号から約46分の集落に辿り着く。
右手の小路入口に「
御代田一里塚 入口標識(写真左)
民家の間の道(写真中)の突き当りを右折し、右側に当時の姿が強く残る一里塚
御代田一里塚:中山道は1602年(慶長7)に整備され、さらに1635年(寛永12)に改修された。
御代田一里塚は改修前に造成され、改修中山道から約7m離れてしまったので遺存状態がよい。
さらに(写真左)を下り、
突当りで
地下道を潜り(写真中)しなの鉄道線路を横断し反対側に出て、右折する。
すぐの栄信号丁字路(写真左)を左折し、住宅街の坂道(写真中)を下り、
その先の左角に須佐行政書士事務所看板のある
交差点を左折する。
緑の坂道(写真中)を下り、左側のハットするような古式建物(写真左)の前を通り、
道なりに右にカーブし、
分かれ道は左手を進む。
    
小田井宿1601年(慶長7)頃までに宿場の形態が整えれらたが、
木曽名所図絵に「駅内二丁ばかり、多く農家にして旅舎少なし、宿悪し」とあり、かなり小さな宿であった。
ただ飯盛り女がいなかったことから女性に安心して利用され、
大名や公家などが追分宿に宿泊するさい、
姫君や側女たちの宿にあてられることが多く「姫の宿」と呼ばれていた。
現在も、宿場用水や出桁造り縦格子の家も残る風情ある町並み。
本陣1軒、脇本陣1軒。
道なりに進み、その先の県道137号線の信号交差点(写真左)を直進する。
横断した右角に、「
中山道小田井宿 入口(写真左中)
その足元にお椀の舟に乗ったような小さな
野仏(写真右中)、さらに筆塚碑
小田井上宿地区の道を進み、左側にまだ新しいおはる地蔵(写真左)
女傑おはる:安川はるといい、明治36年小田井に生まれた。
当初小学校教員をしていたが、その後高価な肥料が買えない農民に安い肥料を提供したいと艱難辛苦の末、
ゴミと人糞から燻炭肥料を作る「安川式肥料燻炭炉」を発明した。
ゴミと人糞は200万東京市民から無料で得ることにし、また副産物として高価な7種類の薬品をとれることから、
経済的に大変優れた発明として期待されたが、難病にかかり計画を中断せざる得なかった。
その後、戦争が激しくなると部下を連れて開拓に入ったり、
戦後は小学校の全教室へテレビを寄付したり、上宿区へ共用の花嫁衣装と維持費を寄付したり、地域に大いに貢献した。
生涯独身で、一生人々のために献身的な活動をして平成3年89才で永眠した。

その先の右にカーブする辺りが、宿場の
東の枡形跡(写真右)
カーブの左側に、「
中山道 小田井宿案内板と「中山道マップ案内板
その先右側に、1756年(宝暦6)改築した客室が良好な状態で残っている安川家本陣跡(写真右)
隣接して「中山道小田井宿跡」案内板の立つところが、
高札場跡(写真中)
さらに隣接して、
問屋跡(安田家住宅)
その先左側に脇本陣跡碑(写真左)
続いて左側に、尾台家
問屋跡(尾台家住宅)(写真中)
道は
西の枡形跡の下り坂となり、右側「中山道小田井宿跡」碑の立つ辺りで宿場は終り、
左にカーブして進み小田井北宿地区から佐久市に入る。
信号交差点(写真左)を直進し、突当りの小田井南信号丁字路(写真中)で国道9号線と合流し、
さらに
坂道を下り続ける。
9号線を約10分進み、最初の信号丁字路(写真右)を横断し、
左角の林の中に
鵜縄沢一里塚跡案内版
これ以降も基本的には下り坂がベースであるが、一応この辺りまでが追分宿からの続いた一連の下り坂と言ってよいだろう。
ここから9号線のゆるい坂道(写真左)を上り、
食肉センター入口信号丁字路を直進し道なりに左にカーブする。
その先で、上信越自動車道(写真左)上の岩村田橋(写真中)を渡り、
ゆるい下り坂となり佐久IC東信号交差点を直進する。
この辺りから、雨がポツポツと降り始め、時は13時ころ。
こんな時に限って天気予報が当たるとはなどと愚痴りながら、雨の支度して先に進む。

     
岩村田宿内藤氏1万6千石の城下町で、
善光寺道、佐久甲州街道との追分があったことから経済の中心地として大変賑わった。
ただ大名は城下町であったため遠慮して宿を素通りしたので、本陣も脇本陣もなかった。
また旅人も堅苦しい城下町を好まなかったため、旅籠も最盛期でも8軒と少なかった。
名物佐久鯉は、藩財政立て直しの策として、並木七佐衛門が育成したもの。
宿場は現在は商店街となっているが、全く当時の面影を残していない。
本陣0軒、脇本陣0軒。
 
雨で濡れてきた道を進み、左側に「住吉神社前バス停(写真中)
「前」となっているからには、この辺りとうろうろするが見当たらず、どこかで見落としてしまったかと諦める。
先に進み、バス停から約170mの左にカーブする左側の一段高い所に、
住吉神社(写真左)!!
バス停の神社「前」とは、前後の前ではなく、手前の「前」だったのかと妙に納得したが、本当のところは不明。
その先の住吉町信号丁字路を直進する。
岩村田宿はどこから始まるのか不明であるが、この信号あたりから宿場かも知れない。
信号のすぐ先左側に、入口に龍雲寺石柱(写真右)の立つ参道を左折して突当りに龍雲寺
龍雲寺:鎌倉時代初期に創建されたが焼失し、1560年(永禄3)に再建。
境内に武田信玄の遺骨が安置されている霊廟、また武田家3代が篤く帰依した北高禅師の墓碑がある。
続いての岩村田信号交差点を横断し、いわむらだ本町商店街(写真左)のアーケードを通る。
ブロック歩道(写真中)に、とてもカワユイ「まねき ぎつね」。心が和みます。
この辺りが宿場の中心と思われるが、本陣、脇本陣がなかったので史跡らしいものは見当たらない。
アーケードを通り抜け、岩村田本町信号交差点(写真左)を横断し、
次の
相生町信号交差点(写真左)で9号線と分かれ、右折して県道154号線を進む。
この頃になると雨は本降り、もう諦めの境地で淡々と歩き続ける。
154号線を約9分進み、
JR小海線踏切(写真左)を渡り、御嶽神社(写真中)前を通り、
段々民家の少くなる
雨の道を進む。
道なりに進み、右側に県立岩村田高校(写真左)
その先左側、
市立浅間総合病院角から左折する。
少し進み(写真左)、突当りの相生の松の丁字路を右折する。
相生の松:雌雄2株が結びついてめでたい松と、ここで和宮が野天をした。現在の松は3代目。
浅間病院西信号交差点(写真左)を横断し、人家のない154号線(写真中)を道なりに進み、
信号のいらない
交差点を直進する。
浅間病院西信号から約10分のところで、用水路のような川にかかる砂田橋(写真左)を渡る。
その先右側に
荘山稲荷神社の一の鳥居(写真左中)
寄道し右折して草むら参道を進み突当りの
二の鳥居(写真右中)の右脇に、
「野を横に 馬引きむけよ 郭公」
芭蕉句碑
元の道に戻り、すぐ先で只今建設中道路のトンネル(写真左)を潜り、中佐都集落(写真中)に入る。
ますます酷くなる雨の中ただ黙々と歩き続け、
集落を通りすぎてしばらく進んだ
分かれ道は右手の154号線を進み集落に入る。
根々井塚原集落(写真左)を通り、一面水田景色(写真右)の中を進み、
右にカーブする左側に
巨大な石碑、ただ文字不明瞭でこんな田圃になんの碑やら。
道なり(写真左)に進み、右手にこの雨の中田植をする女性(写真右)が二人、ご苦労さまです。
ふと思うと、こんな土砂降りの雨の中をとぼとぼ歩いているのは私一人でした。
二人の女性たちは、「なんとご苦労なこと」とつぶやいていたかもしれない。

その先の
分かれ道は、154号線と分かれ左手を進む。
右手を進んでも、すぐ先で合流する。
集落(写真左)を通り、ゆるい坂を下り、
左にカーブ(写真中)する右手下参道入口に「重要文化財駒形神社石柱
橋を渡り階段の上ったところに、本殿が重要文化財の1486年(文明18)再建駒形神社
その先で右からの154号線と合流(写真左)して進み、ゆるい坂道(写真中)を下る。
154号線を約7分進み、
右手からの道と合流して集落を道なりに進む。
      
塩名田宿:荒れ川であった千曲川の川岸に、川留めに備えて、
1602年
(慶長7)近隣の村から住民を40軒ほど移住させて設けられた宿場。
そのため、伝馬、架橋、舟渡し、連台渡し、宿泊所提供など、
他の宿場とは比較にならないほどの任務を負担した。
また小さな宿場にあったにもかかわらず、本陣2軒、脇本陣1軒計3軒もあり、問屋も2軒あった。
1756年
(宝暦6)再建の丸山新左衛門家本陣が、切妻・本棟造りの堂々とした姿で残っている。
本陣2軒、脇本陣1軒。
その先の154号線終点塩名田信号5差路(写真左中)を直進し、塩名田宿へ入る。
交差点手前左角に、「
中山道塩名田宿(写真左)
ゆるい上り坂の
宿場通り(写真右中)を進み、右側に「釜鳴屋てっぱ茶屋看板
通りの両側には、当時の大きな屋号看板をかかかげて建物が並ぶ。
宿場の中ほど左側に、丸山善兵衛本陣跡(写真左)の大井屋店。
右側に、
丸山新左衛門本陣跡・問屋跡
本陣、脇本陣、問屋、名主などは丸山氏の同族が主に務めた。
新佐衛門本陣跡に隣接して、高札場跡(写真右)の公用掲示場。
左側に、塩名田宿で最も古式の町屋様式を伝える
佐藤半佐衛門住宅(写真左)
その先の
左にカーブするところで、突当の坂道を下る。
少し急な坂道(写真左)を下り、途中左側三階木造建物は休茶屋かどや跡の角屋。
角屋の前辺りはもと瀧大明神社の境内で、
ケヤキの大木の根本から大量の清水が湧き出ていて、旅人の喉を潤していた。
当時の名残りの新しい建屋の
水飲み場(写真左)
その左側に、1839年
(天保10)建立十九夜塔(写真左)と明治20年頃建立道祖神(写真左)
ここには、622.7m水準点標識がある。
角屋を過ぎると、当時の宿場を彷彿させる
素晴らしい景観の通り(写真中)
宿場はここで終わり、
突当りを左折する。
突当りの右手下河原(写真左)に、舟つなぎ石。
寄道し、ぬかるみの草原をかき分けて
舟つなぎ石をたずねる。
舟つなぎ石:明治6年から25年まで舟橋の台舟を繋ぎとめていた石で、上部に綱を通す穴がある。
約110m巾の千曲川に、9艘の舟を繋ぎ、その上に板を架けて渡していた。
元に戻り、川沿い(写真左)に進み、中津橋の下を潜り、左折して道路沿い(写真左)に進み、
道路に上がりUターンして
中津橋歩道橋を渡る。
今日はここまで、時は、15:37分。
現代のこの宿場には、宿泊するところなし。
新左衛門本陣跡脇のタクシー待機所から、携帯でタクシーを呼んで運転手と宿泊先を探してもらう交渉。
どの宿泊のあることろまでも、タクシーで2000円くらいはかかるとのこと。
とても親切な運転手で、あちこち携帯で探してくれて結局この先の望月宿の山城旅館に宿泊できることになり、万事解決。
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