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この区間は、守山宿と同じ2008.10.19に歩いた。 | |||||||||||
この区間は2002.2に東海道で歩いているので、勝手知ったる道のはずが道中4回も道に迷ってしまった。 当時は迷わず歩けたところばかりで、特に地形が変わっているわけでもなく、結局注意散漫が原因で、加齢のせい?悔しい! 印象的だったのは、今でも当時の雰囲気が漂う草津宿と瀬田唐橋からの瀬田川の景観。 ただ今回も訪問時間帯の関係で果たせなかったが、散歩コースまである「瀬田の夕照」の唐橋をいつか是非見てみたいと思う。 |
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経路 | |||||||||||
(草津宿)一般道(矢倉南信号)一般道(野路の玉川)一般道(大津市)一般道(月輪池)一般道(神領信号)県道2号線(瀬田唐橋)(瀬田西詰信号) | |||||||||||
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(国道161号線京町1信号・札の辻)一般道(義仲寺)一般道(若宮八幡神社)一般道(石山駅)県道104号線(石山商店街)県道104号線 | |||||||||||
草津宿:宿の歴史は古く、平安時代からあったが、 江戸時代には江戸から68番目の中山道と52番目の東海道の宿として、両街道が合流・分岐する交通の要衝として栄えた宿場町。 中山道と東海道の分岐点にある、「追分道標」は旅人の目印として親しまれていた。 江戸と京の往復は草津川を渡って宿へ出入りするが、草津川は通常は水がなく砂川とも言われ橋はかけられていなかった。 現在中山道には、草津隧道(トンネル)ができている。 文化の面では、江戸、京、大阪との人や物の往来とともに情報や文化が集まり、すぐれた街道文化が育まれた。 草津名物として「うばがもち」があり、安藤広重の風景版画にも登場する。 本陣2軒、脇本陣2軒。 |
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草津川隧道(トンネル)(写真中)を出ると草津宿の通りで、すぐ左側に東海道との追分道標(写真左)。 道の反対側右側の延命地蔵祠脇に、「高札場跡」案内板。 ここから先は2002年に東海道で歩いたところ、まだ記憶も新た、とありたい。 |
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追分道標と草津公民館の間の道は東海道(写真左)で、ここで中山道と合流する。 公民館前に、左から順に明治4年当時の復元された現役郵便収集箱とその案内板、 「近江路や秋のくさつはなのみして 花咲くのべぞ何處ともなき」尭孝法師句碑とその案内板。 |
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古い町並みの宿場通りのすぐ先右側に 復元された「松平出羽守宿」関札(宿札)が立つ国指定史跡田中七佐衛門本陣跡(草津本陣)(写真右)。 田中七佐衛門本陣跡:東海道宿場の本陣で5指に数えられる広さの、1305坪の敷地であった。 昭和24年に「草津本陣」として国指定史跡になり、現在の本陣は平成8年に整備されたもの。 宿帳には、吉良上野介、浅野内匠頭、皇女和宮、シーボルト、近藤勇など多士済々記載されている。 関札(宿札):本陣に休泊する大名、公卿、門跡、旗本、幕府役人などの氏名、官職を記した標識。 高さ約5.5m(3間)の青竹に取り付け、休宿する前日までに本陣前と宿の出入口立てる。
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さらに左側に、脇本陣跡(写真左)の草津市観光物産館。 続いて左側丁字路角に、田中九蔵本陣跡(写真右中)の食事処はり活。 建物の雨樋に針金でぶら下げられ、ビニール袋に入った紙の本陣跡案内。 篤姫や14代将軍家茂らが宿泊した本陣でもあるわりには、前述の田中七佐衛門本陣跡との格差に唖然とし、哀れにさえ感じる。 |
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その先で本四商店街アーケード(写真右)に入り、入館料大人200円草津宿街道交流館(写真左)。 草津宿街道交流館:街道の資料や体験コーナー、宿場模型などがある。 年3回情報通信誌「街道文化」発行し、専門的は資料、情報を紹介している。 余談であるが、草津宿には72軒もの多くの旅籠があったためか草津宿「旅籠屋掟書」には、 「客引きは一軒から1人、宿場までに限る。」と記され、過当競争防止に必死になっている様子が伺える。 アーケードの終りの左側に、太田酒造とその前に「草津宿と政所」案内板。 太田酒造は、「七飯八重山吹の花は咲けども・・・・」歌や江戸築城で知られる太田道灌の末裔が営む酒造。 真新しい「草津宿と政所」案内板には、太田酒造を中心とするこの辺りには、 人馬継立業務や宿の管理を行う問屋場、貫目改所があったので、「草津の政所」と言われてきた、とある。 2002年当時の案内板:2002.2.23にここを訪れたときの案内板には、 「太田家は、江戸幕府の命を受け草津問屋場を預かり、また隠し目付けを勤めるなど、 当宿場の権限をまかされていたので、政所と呼ばれていた。」と太田酒造が問屋場で政所であったとことが明記されている。 取替えた案内板の内容が何故変わったのか不明であるが、より史実に近い表現にしたのかも知れない。 |
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アーケードを出て数分進み、信号交差点(写真左)で県道2号を横断し、 続いて伯母川(写真中)にかかる立木橋(注 写真朱色橋は、神社への参道橋で立木橋ではない)を渡り直進する。 橋を渡った右側に、草津と矢倉村の氏神であった767年(神護景雲元)創建立木神社。 立木神社:常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来する。 境内には1680年(延宝8)建立の草津宿最古の石造道標や栗の化石の活人石、 樹齢400年の神木ウラジロカシなどの巨木が残っている。 |
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その先で矢倉川にかかる矢倉橋(写真左)を渡り、信号交差点(写真右)を横断し、矢倉地区の狭い道を進む。 すぐ左側に、国重要文化財鎌倉時代作阿弥陀如来坐像が安置されている光傳寺。 |
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真っ直ぐな道(写真左)を進み、右側に「差別され 初めて心の痛さ知る」立看板(写真左中)。 この痛み、乾き切った心の人間に分かるだろうか!? 差別など同じ人間として恥ずかしいことだし、絶対にしてはいけないですよね。 信号の先右側丁字路角に、 「 瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち 」と言われた姥が餅屋跡の瓢泉堂(写真右中)。 草津名物「うばがもち」:約430年前近江源氏佐々木義賢が織田信長に滅ぼされたとき、残された3才の子を託された乳母が、 養育のためモチを作って街道を行き交う人々に売り歩いたといい、このモチを「うばがもち」というようになった。 この店先に、1798年(寛政10)建立「右 やはせ道 これより廿五丁」道標。 この丁字路から右折すると、当時は約3kmの琵琶湖の矢橋湊へ繋がっていたが現在は途中一部消失している。 「急がばまわれ」語源:大津・膳所へは、陸路より矢橋港から水路を利用した方が早かったが, 気象が悪いと渡し舟の転覆などの危険があった。 そのため旅人は矢橋道追分にある姥が餅屋で、どちらの道にするか思案したという。 室町時代連歌師宗長が詠んだ歌「武士(もののふ)の やばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋」。 |
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さらに先左側に、絵になる稲荷神社鳥居(写真左)。 続いて矢倉郵便局のある信号交差点(写真中)を横断し、右側の矢倉小学校沿いに進む。 |
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左手からくる国道1号線との合流点右側に立つ「東海道」道標(写真右)に従い、 左折して矢倉南信号の国道1号線を横断(写真右中、左中)し、右折して歩道を進む。 1号線と合流する三角地帯にコンビニがあり、食糧を調達したついでに東海道の道を尋ねた。 複数の若い店員は顔を見合わせていわく、「東海道って何だ?」。 2002年にもここで店員に東海道の道を尋ねたが、すぐさま的確に教えてくれた。 世は移り変わってしまった! |
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正面のビルの左側の道(写真右)を進み、 突当りで左折し「一里塚」看板の立つ上北池公園(写真左)の中を通り、右側に「野路一里塚跡」碑。 野路の一里塚の元の位置は、ここから北西30mと道を挟んだ北東20mの2か所にあった。 |
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公園から先の道は車道で消滅しているので、 公園を出て右折(写真左)し野路信号交差点で横断して迂回(写真中)し、 ごみ置場脇に立つ東海道道標から右折して野路地区のゆるい坂道を上る。 |
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左側に教善寺(写真左)、その先右側遠藤家の塀(写真右中)に平清宗塚案内板、門から入った敷地に胴塚(写真右)。 吾妻鏡によると「壇ノ浦の源合戦で源義経に捕えられた平宗盛・清宗親子は、京都へ上がる途中宗盛(39才)は野洲篠原で斬首され、 清宗(17才)はこの野路で首を落とされた。」という。 当家では、代々胴塚として保存供養しているとのこと。 ただ、武佐宿で紹介したように野洲篠原の「平宗盛卿終焉之地」にも、平宗盛・清宗親子の胴が一緒に埋められたという石塚があった。 もう遠い昔のこと、あまり詮索してもせんないことですか。 そこから道なりに6,7分進み、坂を上り切ったところで県道43号線を横断し、野路地区を進む。 |
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1,2分先右側に、地元の人たちにより昭和51年に復元された野路の玉川(写真左)。 野路の玉川:野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として賑わい、萩が全面に植えられていた。 またこの辺りには日本6玉川の1つ、十禅寺川の伏流水の清水が流れる野路の玉川の名勝地があった。 その後宿駅が野路から草津に移るととともに、泉も枯れ忘れ去られてしまった。 昭和51年地元の人たちによって公園として整備された玉川は、水量こそ少なくなったが昔と変わらぬ清水が湧き出ているという。 道なりに進み、南笠東地区に入り、突当り(写真中)で弁天島が浮かぶ弁天池沿いに左折する。 |
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左からの道と合流し、弁天池沿い(写真左)に進み、狼川かかる橋を渡り信号交差点(写真中)を直進する。 南笠東小学校沿いゆるい坂を下り、約5分の右側マンション前に手書きの「これより大津市」燈籠。 |
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草津市から大津市月輪地区に入り、さらにゆるい坂(写真中)を下り、上り、下り、上り、 下り坂の左側に1863年(文久3)開基月輪寺(写真左)。 さらに下り、信号交差点を直進する。 |
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交差点を横断した左側ブロック歩道上に、「東海道立場跡」碑(写真左中)と背後に月輪池(写真左)。 2002.2月歩いたときは、歩道は確か土で石碑も建て替えられている。 月輪池:月輪大池、下月輪池、山ノ神池を総称して月輪池という。 昔の名所図会にも紹介された有名な池で、現在は農業用水として使われている。 ゆるい坂を下り続け、一里山1丁目信号交差点(写真右中)を直進し、一里山地区住宅街の狭い道を進み、 長沢川にかかる一里山橋を渡り坂道を上る。 |
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坂を上り切ったところの信号交差点(写真中)を、直進する。 交差点手前左角に、「一里塚跡」碑(写真左)。 交差点を右折し約450mにJR瀬田駅。 大江地区の狭い急な坂を道なりに下り続け、大江4丁目信号交差点を直進する。 |
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さらに坂を下り、瀬田小学校脇を通り過ぎ大江4丁目と大江3丁目の間の信号交差点(写真右中)を左折する。 大江地区の坂道は、とてもわかりにくいので素直に下り続けることが最もよい。 また3丁目の信号交差点では、 右角に「大江小学校前」大津市標識(写真右)が立ち、電柱に「←東海道」標識があるので、それらを目印にするとよい。 恥ずかしながら、当の本人は信号を直進し国道1号線まで行き、右往左往しロスタイム20分ほど。 道なりに進み、交差点では橋を渡り左側の川沿い(写真左中)にすすみ、信号交差点を直進する。 |
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数分先の左側ガードレールに「旧東海道」道標の立つ大江6丁目の分かれ道(写真左)は、 右手の大江3丁目のゆるい坂を上る。 なお分れ道に立つ電柱にも、「旧東海道→」標識が取り付けられている。 ここでも恥ずかしながら、「旧東海道」道標を見落として直進し、何が何やらわからなくなりロスタイム25分。 右側の浄光寺(写真右)を過ぎ、坂を下る。 |
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道なりに下り、突当りで県道(写真右)と合流して左折し瀬田地区に入り、 高橋川にかかる朱色欄干の和田1号橋(写真中)を渡る。 県道は下り坂となり、左側に建部大社末社檜山神社鳥居。 |
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下り切った突当りの神領信号丁字路(写真中)で右折し、瀬田商店街の県道2号線(写真右)を進む。 なお丁字路を左折すると右側に、祭神が瀬田川の龍神と俵藤太秀郷の建部神社石柱。 |
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商店街を通り抜け、唐橋東詰信号交差点(写真左中)を直進し、瀬田川にかかる瀬田唐橋(写真左中)を渡る。 橋の袂左側に、常夜燈と大江匡房の句碑(写真左)。 橋の右側の擬宝珠(写真右中)が美しい歩道を進み、右手前方に国道1号線瀬田川大橋とさらに琵琶湖の美観。 唐橋:琵琶湖から流れ出る瀬田川にかかる橋で、近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本3大名橋の1つと言われている。 奈良時代からあった橋で、昔から琵琶湖・瀬田川にかかる唯一の橋で交通の要衝であったため、 源平合戦、応仁の乱などの戦乱のたび焼け落ちその都度掛け替えられている。 鎌倉時代に付け替えられた時に、唐様のデザインを取り入れたために、「唐橋」と呼ばれれるようになったという。 この橋に関わる伝説の「俵藤太百足退治」は、俵藤太秀郷が唐橋を渡ろうとすると大蛇が寝ていたが、藤太は平気でそれをまたいだ。 実はその蛇は瀬田の龍神が化けていたもので、龍神は藤太の勇気に感心し、三上山に住む仇敵百足退治を依頼した。 藤太は百足の目を射抜き見事しとめる、という話。 |
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橋は中州で一旦途切れ、再度短い唐橋を渡り、右手前方の景観(写真右)も素晴らしい。 渡り終えたところの唐橋西詰信号交差点で国道422号線を横断し、 石山商店街の県道104号線の坂を下る。 |
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その先で京阪石山坂本線踏切(写真左)を横断して進み、鳥居川信号交差点で右折する。 | |||||||||||
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石山商店街の県道104号線を進み、国道1号線ガード(写真左)下を潜り、 続いて京阪石山坂本線踏切(写真中)渡り、松原町西信号交差点で左折する。 2002.2月では問題なかったのに、これから以降しばし道に迷いロスタイム5分。 |
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旧東海道は少し先で右折するが、現在は京阪線・JR線で分断・消滅しているので、駅舎経由で迂回する。 そのまま進み、右折(写真左)して突当りの駅舎のエスカレーター(写真左中)で2階に上り、 右折してコンコース(写真右中)を進み、突当りで右手の階段を下りて進み、 突当りで左折して消滅していた旧東海道と合流する。 |
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道なりに左側のNEC境界沿い(写真左)に進み、突当りで道なりに右にカーブし、すぐの十字路を(写真中)左折し、 右からの先ほどの松原西信号で別れた道と合流して、NEC境界沿いに進む。 |
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江戸時代この道は、近江八景「粟津の晴嵐」(写真左)と呼ばれるほどの美しい松並木であったが、 現在は数えるほどの松の木があるだけの平凡な道。 右側の粟津中学校を過ぎ、晴嵐信号交差点を直進し、突当りで左にカーブ(写真中)する。 カーブする右側民家の前に、「膳所城勢多口総門跡」碑。 膳所城:1601年(慶長6)徳川家康の命で藤堂高虎の縄張りで築いた城で、大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つ。 |
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続いて右にカーブ(写真左)し、すぐ左にカーブし、京阪石山坂本線踏切(写真中)を渡り、右側に若宮八幡神社。 若宮八幡神社:679年(白鳳8)創建と言われほど歴史は古い。 鳥居の先の表門は、明治3年に廃城になった膳所城本丸の犬走り門 を移築したもので、江戸時代初期の城門建築として貴重なもの。 |
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その先で道なりに右にカーブ(写真左)し、京阪電車瓦ヶ浜駅踏切(写真左中)を直進する。 踏切を渡った右側に「膳所焼美術館」案内標識(写真右中)があり、線路沿い小路の奥突当り右側に「膳所焼美術館」。 |
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もとの道に戻り、数分先の丁字路(写真右)を左折し、すぐ先の音羽軒のある信号交差点を右折して進む。 実はここで交差点を直進し、迷いのロスタイム10分で、情けない。 |
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膳所地区を進み、左側の大養寺(写真左)を過ぎ、次の信号交差点(写真中)を直進する。 交差点を左折すると約100mのところに、「膳所」地名の由来と膳所城の城門を移築した表門が国指定重要文化財の膳所神社。 膳所の地名:天智天皇が大津宮を作ったとき、この地を御厨所と定めたことに由来。 右折すると約200mのところに、徳川家康が関ヶ原戦い後最初に築いた琵琶湖に面する膳所城址公園。 |
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人通りのない道(写真右)を進み左側に、1602年(慶長7)初代膳所城主戸田一西が創建した縁心神社(写真左)、 その先で木下地区に入り左側に、本殿が国指定重要文化財の和田神社。 |
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すぐ先のカラーブロック丁字路(写真中)で右側電柱の「←旧東海道」標識(写真右)に従い左折し、 突当りの響忍寺前丁字路を右折する。 注:電柱の写真も同時に撮ったものであるが、空の色は全く違い何故なのか私には分からない。 |
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その先「木下町17」標識電柱の立つカラー丁字路(写真右)を左折し、道なりにゆるく左にカーブして坂を上る。 | |||||||||||
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用水路のような川(写真左)にかかる橋を渡り、土手道(写真中)に上がる。、 左から2本目の坂道を斜めに下り西ノ庄地区に入り、突当りで道なりに右折して進む。 |
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住宅街道(写真中)を進み、左側に国指定重要文化財の神像4体が本殿に安置されている石坐神社(写真中)。 その先右側に、民家風佇まいの1766年(明和3)創建桃源禅寺。 |
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突当りを道なりに右折(写真左)し、すぐ左折(写真中)する。 コーナーの右側民家前に、「膳所城北総門跡」碑。 |
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住宅地の道(写真左)を約5分ほど進み、交差点(写真右)を直進し馬場一丁目に入り左側に国指定史跡義仲寺。 義仲寺:この地で木曾義仲が源範頼、義経との戦いで討死し、墓が建てられた。 尼僧となって側室巴御前が、この墓所の近くに草庵を結び懇ろに供養したが、尼没後この庵は無明庵、義仲寺などと呼ばれていた。 その後寺は荒廃してしまったが、1553年(天文22)近江守護佐々木六角によって再建されたという。 貞享年間(1684〜8)度々来訪していた芭蕉が、 1694年(元禄7)大阪で逝去したときの「遺骸は木曾塚におくるべし」遺言に従い、ここに墓が作られた。 義仲の供養塔の左に巴御前の墓、右側に芭蕉墓がある。 庭園には、芭蕉をはじめ19の句碑が立っている。 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」「古池や蛙飛び込む水の音」「木曾殿と背中合わせの寒さかな(又玄)」など。 |
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道なりに進み、大津警察署を過ぎて左にゆるくカーブして京阪鉄道石山坂本線踏切(写真左)を渡り、 坂本地区に入り、すぐ先の3つに分かれる道は真ん中の坂道を上る。 踏切を越すと大津宿内ということのようであるが、現地のどこにも案内が見当たらない。 大津宿は東海道最大宿場町で、広さも南北に約4kmもあり、本陣などがあった中心地はこの先の「札の辻」あたりからであった。 |
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左側に毎年8月9日古式ゆかしい蹴鞠の奉納がある平野神社石柱(写真左)。 次の分かれ道は左手(写真中)を進み、さらに進み坂を上り切ったところの交差点を直進し、 京町3丁目と中央3丁目の境界坂道を下る。 |
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右側に、本堂前に地蔵と不動の小堂のある成覚寺(写真右)。 夕暮れの道を小さなときわ橋を渡り淡々と進み、信号交差点(写真中)を直進する。 交差点左手坂の突当りに、威風堂々の滋賀県庁。 |
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さらに進み、信号交差点(写真中)で大通りを直進し、 いまどき珍しい「すだれ老舗」看板など当時の雰囲気が漂う京町2丁目と中央2丁目の境界の道(写真右)に入る。 交差点左手坂の突き当りに、JR大津駅。 |
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2分ほど進み、左側徳永洋品店角に「此附近露国皇太子遭難之地」碑(写真左)。 露国皇太子遭難事件:明治24年(1891)、親善のため来日したロシア帝国ニコライ皇太子が、 警備中の巡査津田三蔵に切りつけられ負傷した「大津事件」で、三権分立意識を広めた事件。 明治政府は外交問題に発展することを懸念し津田三蔵の死刑を主張したが、 大審院院長・小島惟謙刑法では殺人未遂の最高刑は無期懲役であり、法治国家として法は遵守されなければならないとし、 また法を安易に曲げれば条約提携諸外国から益々理不尽な要求を突きつけてくると判断して、無期懲役の判決を行った。 その先で信号交差点を直進する。 |
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続いての京町一丁目信号交差点(写真右)で国道161号線と合流し、 この交差点が当時高札場が置かれてあった「札の辻」。 到着は、ジャスト17:00。 今日はここまで。 朝出発するときは、15時ころには到着する予定であったので、約2時間の遅れ。 すべてが道中道に迷い、迷ったことによるもの。 旧東海道は、左折して京阪京津線の走る国道161号線を進む。 国道161号線は江戸時代は、「北国西街道」と呼ばれ琵琶湖西岸を通り敦賀へ抜ける街道で、鯖街道という名で知られていた。 |
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一目散にJR大津駅へ。 東海道線、東海道新幹線を乗り継いで、横浜へ。 |
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