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    歩く 中山道
 守山宿草津
   (滋賀県守山市) 
 iー愛ロマンチカ
この区間と次の草津宿・大津区間は、武佐宿に引き続き2008.10.19に歩いた。
予定より遥かに遅い進捗に急きょ1日延長しての歩きであったが、道中何度も道に迷い2時間近いロスタイム。
気の緩みしかない。
草津宿の東海道と中山道の追分道標とは、6年半ぶりの再会。
よくぞお互い無事に生きていたものと、しみじみ語りあったものであった。
中山道69次は、江戸から68次以降(草津宿、大津宿)の京都までは東海道と一緒になるため、
中山道専用宿としては、67次の守山宿が最後となる。
ここでも、68次以降は次ページで東海道として紹介している。
中山道一里塚は江戸から草津まで129基あるが、守山宿に128番目の一里塚がある。
経路
  (JR野洲駅)(新幹線ガード下)一般道→(野洲川橋北詰信号)県道504号線(野洲川橋)(守山市)一般道→(吉身3信号)県道151号線(吉身西信号)
                                                                           ↓
追分道標)(草津川隧道)←一般道(JRトンネル)県道2号線(草津市)県道2号線(栗東市)県道2号線(土橋)県道2号線(守山宿)県道2号線
朝食としての缶ビールと野菜ジュースを一気飲みして、2008.10.19JR野洲駅近くのホテルを、5:30出発。
昨日の東海道新幹線ガード下に戻り、5:42分かれ道の左手の道(写真左)を進み、信号交差点を横断する。
朝日を浴びた
住宅街の道(写真中)を5分ほど進み、5差路信号交差点
中山道は交差点を直進し、野洲小学校校庭フエンス沿いに進む。
ところが横断歩道を渡ってから方向を勘違いして左折し、約30分後に再度この交差点に戻ってくる。…今日最初の躓き。
交差点を横断し、野洲小学校角敷地角の「中山道 野洲(写真左)から右折して校庭フエンス沿いに進む。
碑から約180mの小林歯科医院前丁字路に、「
朝鮮人街道標識
ここで丁字路を右折する道は、
朝鮮通信使を中山道を通らせないように彦根城下経由で鳥居本町宿に至る、通称朝鮮人街道。
当時はこの分岐点に道標があったが、現在は蓮照寺に移設保存されている。
中山道は丁字路を直進し、信号交差点手前左側に鎌倉時代作背くらべ地蔵(阿弥陀如来立像(写真左)
子をもつ親たちが、
「わが子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背比べさせるようになり、いつしか背比べ地蔵と呼ばれるようになった。

交差点
(写真中)を横断し、ひっそりと静まりかえった住宅街の道を進み、突当り丁字路を右折する。
右折した右角に、境内に3つの石碑(写真右)が保存されている蓮照寺(写真中)
 左から順に朝鮮人街道分岐点から移設された1719年
(享保4)建立「右 中山道 左 八まんみ(ち)」道標、
続いて「自是錦織寺四十一 ・ 」道標、「従是北淀領」領界石標。 
すぐ左折し、
行畑商店街を進む。
続いて野洲本町商店街を進み、JR東海道本線ガード(写真左)を潜り、右からの道と合流し左折する。
ゆるい坂道を上り、
右側境内に「野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす」芭蕉句碑(写真右)のある1657年(明暦3)建立十輪院(写真右中)
道を挟んで左側に、赤い前掛けの
石仏(写真左)が約30体雛壇で並ぶ。
さらに上り、
野洲川橋北詰信号交差点で左からの県道504号線と合流し、直進する。
その先で、野洲川(写真左)にかかる野洲川橋(写真中)を渡り、県道504号線と分かれて直進し坂道を下る。
なお当時の野洲川は、他の多くの河川と同様舟渡しで渡っていた。
坂の途中左側に、「守山市境界標識(写真左)で野洲市から守山市に入り、
道の反対側に「悲鳴をあげているような外国女性」
巨大看板(写真中)の建物。
「BM」って何だ!? 悲しいかに私はそういう時代を理解できない年齢になっているのでした。
坂を下り切った右側に、674年創建の
馬路石邊神社石柱
道なりに進み、吉身3丁目信号交差点(写真左)で県道11号線を横断し、
県道151号線を進み続いて吉身小学校南信号交差点を横断する。
その先の小さな川にかかる
(写真右中)の手前左側三叉路に、倒れかかった「高札場跡案内板(写真左中)
橋の右袂に、「
吉身(吉水郷)案内板(写真右中)
吉身:この辺り一帯は吉身といい、古くは吉水郷と称し豊かな森林ときれいな水に恵まれた天下の景勝地であった。
江戸時代は守山宿の「加宿」の役割を果たし、本宿と加宿の境界の標に川(伊勢戸川)が流された。
伊勢戸川は冷たく清らかで旅人の飲料水になるとともに、ゲンジボタル発生の川ともなっていた。

当時の面影を感じさせる
吉身地区の道を、さらに進む。
     
守山宿:1642年(寛永19)中山道67宿の最後の宿場として、他の宿より遅く制札が与えられた。
「京発ち守山泊り」と言われ、京を出発した旅人にとっての最初の宿泊地として繁栄し、
後に東側の吉身と西側の今宿が加宿となりさらに発展している。
また江戸時代は、「京浪速、江戸の盛り場も物の数ならず」と言われるほど自由市として繁栄した。
守山の地名の由来は、比叡山延暦寺の東の鬼門を守護するため東門院が建立され、
「比叡山を守る寺」ということから守山寺と名号され、地名も「守山」と名付けられた。
左側に、伝教大師作の通称帆柱観世音を本尊とする慈眼寺石柱(写真左)
吉身西信号交差点(写真左中)で、
小さな三戸津川にかかる「
守山の宿(写真左中)を渡り県道2号線の守山宿に入る。
この三戸津川は前述吉身案内板の伊勢戸川のことで、吉身宿と守山宿との境界の標の川。
街頭に取り付けられて並ぶ「中山道守山宿」照明看板ばかりが目立つ、全く人通りのない
宿場通りを進む。
通りの左側丁字路角に、復元された重ね漆喰枠の井戸跡と「甲屋之跡(写真左)
甲屋:謡曲「望月」の舞台となった元旅籠で、江戸末期に火災で焼失。
信濃国の元武士が主君の仇討ちの敵を探すため往来の多いこの地で旅籠を開いていたところ、亡君の妻子が宿泊し巡り合った。
さらに思いがけなく当の敵も泊りあわせていたため、3人で力を合わせて主君の仇を討ち果す物語。

隣接して、
中山道 街道文化交流館(写真中)
通りの右側に、
八幡宮
突当りの変則4差路(写真右中)右角の高札場があったところに、
1744年
(延元)建立高さ1.55m石造道標(写真右)
中山道側の側面には「右 中山道 井 美濃路」
:右が美濃路に続く中山道
その左側面に「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」:左の道は錦織寺へ至る約4kmの道程で、琵琶湖の木浜港へも通じる道
の文字が刻まれている。
交差点を左折し県道2号線の
ゆるい坂(写真左中)を下り、右側に東門院守山寺
東門院守山寺:788年(延暦7)伝教大師最澄が比叡山延暦寺を建立した時、比叡山の東門として設けられたのが始まり。
 その後794年(延暦13)に比叡山の根本中堂開闢供養が行われたとき、
桓武天皇が当寺に御行され「比叡山を守る寺であるから比叡山東門院守山寺と名号され、地名も守山名づけられた。」と言う。
不動堂に不動明王坐像(国指定重要文化財)が安置され、境内には石造五重塔(国指定重要文化財)がある。
その先で守山銀座西信号交差点(写真左)を横断し、
当時の野洲郡守山宿と栗太郡今宿村の郡境を流れる境川(吉川)にかかる土橋(写真中)
現在は長さ4.8mコンクリート橋であるが、当時は幅3.6m(2間)長さ36m(20間)もあった。
中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた公儀御普請橋であった。

安藤広重が木曾69次の内「守山」の風景図に、「土橋」(左の絵図)を描いている。
橋を渡り、多くの旅人をさばくため守山宿の加宿として栄えた今宿の町並を進み、
右側に1071年
(延久3)創立樹下神社
今宿町信号交差点(写真右)を横断してから5分ほど進み、左側に江戸日本橋から128番目の今宿一里塚
さらに進み右側に、太陽の光をいっぱいに浴びたたわわな(写真右)は手が届きそう。
余談であるが、皮むきが大変な柿は現代人に嫌われる果物の代表と、テレビで報じていたがなんともはや情けない日本人。
その先の
焔魔堂町信号交差点(写真右中)で県道145号線横断し、焔魔堂町の県道2号線を進む。
すぐ左側小路入口に「
住連房母公墓石碑(写真左中)があり、小路奥民家敷地に
住連房の母:武佐宿のページで紹介した、近江八幡市千僧供町の「住蓮坊首洗池」で処刑された住蓮坊の母。
後鳥羽上皇の念仏教団弾圧で住蓮房が捕えられたとき、住蓮房の母の朝子は悲しみのあまり盲目となってしまった。
そして近江の国馬淵(現近江八幡市)で住蓮坊が処刑されると聞き、一目会いたいものと馬淵を目指して中山道を急いだ。
しかしこの地で既に首を討たれたと
の報せを受け、絶望のあまり焔魔堂前の池(尼ヶ池)に身を投げた。
当家で墳墓を代々お守りしているとのこと。
その先左側に諏訪神社(写真中)と、
境内左角隅に今宿と山城淀領地焔魔堂村との境界「
従是南淀領境界石標(写真左)
前述の蓮照寺境内にあった、「従是北淀領」と対をなすものかも知れない。
道の右側に、小野篁が造った焔魔像が安置されている焔魔堂がある
十王寺で、町名はここに由来する。
焔魔堂町、続いて珍しい町名の守山市「二町町」を進み、左側に栗東市境界標識(写真左)
栗東市綣9丁目に入ると急に県道2号線の巾が狭くなり、その先左側に
大宝公園(写真左中)
江戸時代以降は氏子が50余村にもおよび社域が今でも約27,000uの
大宝神社鳥居(写真中)
鳥居を入り左手に「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」
芭蕉句碑(写真右中)
この辺りは「綣」と書いて「へそ」と読む珍しい地名で、当時も「へそ」という村であったのであろう。
鳥居を過ぎすぐ左側に、平成12年復元された大正6年設置
大寶村大字綣元標
その先のHESO信号機(写真左、中)で間違いなく、「へそ」と読むことを確認できるが、それにしても珍しい地名。
続いて
栗東駅西口信号交差点を横断し、県道2号線を進む。
JR栗東駅は、信号から左折し200mのところ。
花園信号交差点(写真左)で県道31号線を横断し、
約4分ほど進み
S字カーブ(写真右)する左側に八幡宮鳥居
住宅街の細い県道2号線を進み、笠川信号交差点(写真左)を横断し、すぐ左側に草津市境界標識(写真中)
草津市に入り、葉山川にかかる
葉山川橋を渡り、左手前方のJR草津線架橋沿い進む。
葉山川橋信号の先の左側で、中山道標識の白ガードレール(写真右)から県道2号線と分かれて左折(写真右中)し、
JR草津線架橋を潜り、続いてJR東海道本線の
半円トンネル(写真左中)長方形トンネルを潜る。
トンネルを出た左側手摺の中山道案内標識(写真左)に従い、右折しJR線路沿い側溝上(写真左中)を進む。
一般道と
合流(写真右中)し、さらに線路沿いに進み、
突当りで道なりの
左にカーブして左からの道と合流して右折する。
すぐ道なりに左折してJR線と並行(写真左)に進み、県道2号線架橋下(写真中)を潜る。
道なりに進み、きれいな
赤レンガ道となる。
この辺りは、平成9年に地域にあった景観形成道づくり事業を実施し整備されている。
その先左側に、1468年(応仁2)建立本殿が国指定重要文化財の伊砂砂神社(写真左)
伊佐佐川にかかる伊砂砂橋を渡り右側に、1232年
(貞永元)天台宗の道場が始まりの光明寺(写真右)
正面の建築中高層ビルに向い、なんとなく当時の雰囲気が漂う
赤レンガ道を進む。
大路信号交差点(写真左)で、県道142号線を横断して進む。
信号を右折して約150mにJR草津駅。
この交差点付近に、江戸から129番目の中山道最後の一里塚があったが現在は消滅している。
その先の大通りを横断し、「
きたなかアーケード商店街(写真中)を進む。
採光のよい
アーケード商店街は明るく、快適な中山道。
アーケードを出ると、続いて天上に草津川が流れていたトンネル(写真左)に入る。
トンネルの両側に、当時の
街道壁画が描かれていて目を楽しませてくれる。
草津川隧道(トンネル):それまでは天井川の草津川を越えていたが、
明治19年に現在の長さ43.6m幅4.5mアーチ式レンガ両側石積構造のトンネルが竣工した。
トンネルを出てすぐ左側高台に、
側面にそれぞれ「左 中仙道 美のじ」、「右 東海道 いせみち」と刻まれた
火袋付道標
最初の街道歩きで東海道を歩いたとき、この道標に出会ったのが2002.2.23。
そのときから6年半を過ぎたこの日に、また再会できるとは!この愛しき道標よ!


ここは、東海道と中山道が分岐・合流する追分で、
トンネルができるまでは左へ行き上の川を越せば中山道へ、左へ曲がれば東海道・伊勢路へ行けた。
追分道標:1816年(文化13)全国の問屋筋の寄進で建立。高さ 4.45m(1丈4尺7寸)で火袋以上は銅製の大燈籠。
   
ここから先は、東海道と合流し草津宿、大津宿を経て京都三条大橋まで進む。
従って以降は、東海道として紹介することにしたい。
      
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