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この区間は愛知川宿に引続き、2008.10.18歩いた。 最近道中の宿泊を温泉地にしているため、早い時間に温泉地引きこもりに朝風呂浴びて遅い出立と旅人にあるまじき行為。 そのため正味の歩く時間が極端に少なくなり、今回も予定より大幅な遅れで仕方なく2泊3日予定を急遽3泊4日に変更し、反省しきり。 朝はホテルを6時ころ出発し、デジカメのフラッシュで足元を照らして夜遅くまで歩いて距離を稼いだ頃が懐かしい。 この区間では、・武佐宿の小学生やボランティア(?)グループの手書き史跡標識、 ・東山道時代奥州へ下る源義経が宿泊し元服したという鏡宿、・壇ノ浦でてっきり戦死したと思っていた平宗盛・清宗親子終焉之地など、 思いがけない発見があった。 |
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経路 (五個荘駅)・・(道標)一般道→(近江商人像)国道8号線→一般道→8号線→一般道(武佐宿)一般道→県道14号線→一般道→8号線→一般道 ↓ (新幹線ガード)一般道(高石石材)←8号線←一般道←8号線(平宗盛)←一般道←8号線(鏡宿)←一般道←8号線←一般道←8号線(横関橋) |
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雄琴温泉出発し、JRおごと温泉駅から湖西線で山科駅へ、乗換えて東海道本線で能登川駅。 そこからタクシーで昨日の近江鉄道五個荘駅に、10:12分到着。 近江鉄道を利用するより、JRの方が圧倒的に時間的に有利。 いずれにしても、遅すぎるスタート時間を反省しつつ、スタート。 |
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駅から昨日の終点の道標(写真左)まで戻り、右手の道を進む。 まだ朝のすがすがしさが残る青空の東近江市小幡集落の道(写真中)を進み、右側に「小幡神社御旅所」碑。 |
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その先丁字路(写真中)を直進する。 なお丁字路左手の分かれ道(写真左)で、左側の道の突き当りが近江鉄道五個荘駅。 ここからも五個荘駅に行ける。 五個荘竜田町の集落を進み、すぐ先常夜灯の立つ分れ道は右手の道を進む。 |
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常夜灯の三角地帯は、「旧中山道みにぽけっとぱーく」碑の立つ休憩所(写真左)。 道の右側に、 国指定重要美術品「安南国書」(安南:ベトナムと読む)と呼ばれる御朱印状が保存されている西眼禅寺(写真右)。 数分先で橋を渡り、丁字路を左折する。 |
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約6分ほど進み、 次の信号交差点(写真左中)を横断した左側に「明治天皇北町屋小休所」碑の立つ「みにぽけっとぱーく」(写真左)。 道を挟んだ右側建物の門(写真中)の奥に、「市田邸跡」碑(写真右中)と「明治天皇御聖蹟」碑。 |
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まっすぐな道を約3分進み、信号交差点(写真左)で県道209号線を横断する。 右角に、金毘羅大権現常夜灯と大名や公家が休憩したという美しい茅葺屋根旧家(写真中)。 石塚の集落に入り、左側に用水路のある道を進み、 右側に西国三十二番札所聖徳太子創建観音正寺(平成5年本堂焼失)への「三十二番観音堂」道標。 |
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さらに5分ほど進み、国道8号線と合流する三角地帯(写真左)に、天秤を担いて行商している近江商人銅像。 「天秤の里」五個荘:近江商人は天秤を担いで近江の産物を全国に売り歩き、帰りには他国の品々を上方で売りさばいていた。 五個荘(金堂集落)は近江商人発祥の地の1つで、「天秤の里」と呼ばれ財をなした近江商人たちの豪邸が並んでいる。 |
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その先で8号線(写真左)と合流して進み、 最初の信号交差点(写真中)を右折しすぐ五個荘清水鼻町自治会館から左折する。 |
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当時の名残りを感じさせる通り(写真左)の右側広場に、 「清水鼻の名水」碑(写真中)と屋根のかかった井戸からは現在も清水が湧き出て飲めるとは、正直びっくり。 さらに右側の浄敬寺を通り、東近江市から蒲生郡安土町に入る。 |
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その先で「フードショップタケヤブ」丁字路(写真左)から左折し、右側に常夜灯(写真右)のある道を進む。 | |||||||||||
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突当りを右折(写真左)し、前方の東海道新幹線架橋の方向(写真中)へ進み、 新幹線と並行して走る国道8号線と合流し、右折して進む。 |
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新幹線ガード下(写真左)を潜り、 道なりに進み「←奥石神社 観音正寺→」標識(写真中)に従い次の交差点を左折する。(信号機がないので地下道を通る) |
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左側に「奥石神社」碑と「中山道東老蘇」道標の並び立つ道(写真左)を進み、 右側に東参道の奥石神社石柱と背後のこんもりとした森は国史跡老蘇の森。 老蘇の森:紀元前286年(孝霊天皇5年)、この辺りは地面が裂け水が湧き出して人が住めなかった。 石辺大連翁が松、杉、檜などの苗を植えたらたちまち大森林になった。 大連は百数十歳を過ぎても若く元気だったことから「老蘇」と称され、この森を「老蘇の森」と呼ぶようになった。 |
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200m先右折する手前(写真左)右側に、奥石神社鳥居(写真中)と左に「老蘇森」碑と「安産守護鎌宮」石柱が並ぶ。 奥石神社:石辺大連が「老蘇の森」と呼ばれたことに感謝して社檀を築いたのが、神社の始めと言われている。鎌宮とも言う。 道なりに進み、東老蘇公民館前の右側塀上に「根来陣屋跡」道標の小路。 |
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さらに2分ほど先に、轟川(写真左)にかかる轟橋(写真中)の手前右側に「轟地蔵跡」碑。 轟地蔵:現在福生寺に祭祀されている安産祈願のお地蔵さんは、もともとここにあったもの。 |
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その先で丁字路を直進し、信号交差点(写真左)を横断して西老蘇地区に入る。 交差点手前右側に安土老蘇郵便局(写真中)があり、この右手奥一帯が織田信長の居城のあった「安土」。 西老蘇地区を進み、右側に老蘇地区が東西に分かれたとき鎌宮(奥石神社)の若宮として勧進したともいう鎌若宮神社。 |
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数分先右側に、平安時代後期作阿弥陀如来立像が安置されている東光寺(写真右)。 さらに進み亀川信号交差点で県道208号線を横断し、蒲生郡安土町から近江八幡市西生来町に入る。 |
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住宅街を数分進み、用水路に架かる橋(写真左)の右袂の一段低いところに「泡子延命地蔵尊御遺跡」碑(写真中)。 泡子延命地蔵尊由来:茶店の娘が旅の僧が飲み残した茶を飲んだところ懐妊し子供が生まれる。 3年後再び訪れた僧はその時の話を聞き、男の子にフッと息を吹きかけとたん泡となり消えてしまったという。 ここまでは、醒井宿の西行水にあった泡子塚伝説と全く似通っている。 僧は、西の方にある「あら井」というところの池の中に地蔵があるので、この子のためにお堂を建てて安置するように、と言った。 その地蔵は西福寺地蔵堂に祀ってあり、このことが「西生来」の町名の由来ともなっている。 その先右側に、泡子地蔵が祀られている西福寺。 |
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武佐宿:江戸から66番目の宿場で、太平記にも登場する武佐寺(現在は廃寺)の門前町で、宿名にもなった。 古くから南は伊勢へ通じる八風街道、北は豊臣秀次が開町した八幡町の八幡街道の分岐点として賑わった。 1728年(享保13)第8代将軍徳川吉宗が象を輸入し、 翌年江戸へ運ばれたとき武佐宿に一泊したことで、像の通った道として知られている。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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生垣のきれいな住宅街を約6分ほど進み、右手前方に木立(写真左)がこんもり見える辺りから武佐宿。 木立の森に牟佐神社(写真中)と、左に隣接して全て手作りの「中山道武佐宿」標識と宿の東の「高札場跡」案内板。 牟佐神社:市神大明神とも呼ばれ、古くから市が立ち、宿の氏神さまとして信仰されていた。 手作り標識・案内板:1989年武佐小学校卒業生と2002.2健康はちまん21プランによって宿場の史跡類について作成されたもので、 小学生の作品はカラフルなものが多い。 |
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車も人もいない宿場通り(写真右)を進み、右側に二階が低い塗篭壁で格子造りの平尾家役人宅(写真右)。 通りの反対左側の「廣済寺」標識(写真左)の立つ参道に入ると、左手に694年(推古天皇2年)聖徳太子建立の廣済寺。 |
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さらに進み右側に、「元奥村家脇本陣跡」案内板(写真右)の立つ武佐町会館(写真右中)。 武佐町信号交差点(写真左中)で国道421号線を横断し、左側に400年以上歴史をもつ元商家で宿役人宅「大橋家」。 |
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続いて左側に、元旅籠の旅館中村屋(写真左)。 通り反対右側に、「本陣跡下川家」案内板(写真左中)と本陣門構え(写真右中)。 右に隣接する武佐郵便局も本陣跡で、かつ伝馬所跡。 |
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さらに進み十字路(写真中)左側角に、1821年(文政4)建立「いせ みな口 ひの 八日市 道」道標(写真左)。 ここから八日市へ道が通じ、鈴鹿山系八風峠を越えて伊勢へ続いていたので八風街道と呼ばれていた。 右側角に、「安土浄厳院道」道標。 |
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また左角に、川越藩の管理をしていた「松平周防守陣屋」標識(写真左)のある建物(写真左中)。 さらに数分先通り(写真右中)右側に、宿の西のはずれの「高札場跡」標識と愛宕山常夜灯。 |
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宿場を通り抜け、道なりに進み右にカーブ(写真左)した左側に近江鉄道八日市線武佐駅(写真中)。(無人駅舎にトイレあり) その先で、左折して踏切を渡り近江八幡市西宿地区を進む。 |
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古い建物がちらちら残る通り(写真左)の右前方に、高い楠木がポツンと一本。 その木の下に、別子銅山をたてなおし住友財閥の中興の祖と言われる「伊庭貞剛翁生誕の地」看板(写真左中)。 数分先突当り丁字路(写真右中)を右折し、西宿町信号交差点で国道8号線と合流して左折する。 |
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8号線を約800m進み、六枚橋信号交差点(写真左)で左折し県道14号線(写真中)を進む。 すぐ先の最初の丁字路角の富永歯科医院で14号線と分かれ、右折する。 |
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千僧供町地区(写真左)を進み、右側の公園に柵で囲まれ干上がった「住蓮坊首洗池」碑(写真中)。 住蓮坊首洗池:鎌倉時代法然上人の念仏教団が既成教団から疎まれて弾圧を受け、 後鳥羽上皇によって布教活動の中心人物の法然上人は流罪、弟子の安楽坊は京都六条川原で処刑、 そして1207年(承元元)住連坊は故郷のこの地で処刑され、その首を洗ったといわれる池。 その先で再度8号線に合流し、左折する。 |
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8号線を5分ほど進み、白鳥川にかかる千僧供橋(写真左)を渡り、 さらに約3分先の分かれ道で8号線と分かれ右手の道(写真中)を進む。 分れるところの右側に、八幡社碑と並んで新しい「高札場跡」碑。 |
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なんとなく当時の面影を感じさせる通り(写真左)を進む。 ここにも「痴漢に注意」看板(写真左中)で日本全国毎日痴漢痴漢、痴漢だらけ! 情けないなぁ~。 信号交差点(写真中)を過ぎ、周りの景色も徐々に田園風景(写真右中)になり、突然「ビジネスホテル」看板。 まさか人家のないこんなところで、ビジネスとは!何のビジネスかと、悩みは深い。 |
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次の信号交差点(写真左)を横断し右側に、「東横関町」看板(写真中)。 さらに進み、道は2つに分かれ左手の坂を上り、8号線と分かれてから約15分で日野川の土手に上がる。 |
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突当りの丁字路を左折し、前方広場奥(写真中)に、 広重の日野川舟渡しの様子を描いた絵のある「中山道六十九次の内・武佐」看板と常夜灯(写真右)。 当時はこの先の日野川(横関川)を、平常時は舟渡しで水量が少ないときは2艘の舟を繋いで渡っていた。 現在はここで行き止り。 左右へ行く道があるが、案内板がないため迷う。 正解は、左手の砂利道を進む。 |
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日野川の土手道を歩き、前方にこれから渡る横関橋(写真左)、右後方は舟渡場跡あたり。 | |||||||||||
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再度8号線と合流(写真左)し、右折して横関橋(写真中)を渡り、途中近江八幡市から蒲生郡竜王町西横関に入る。 橋を渡りすぐ右側の土手道入口には、ゴミ不法投棄のための進入禁止「注意」標識とロープが張られている。 本来ならこの土手道を進み舟渡し場跡へ行くのであるが、「禁止」標識を尊重してパスすることにした。 |
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そのまま8号線の坂(写真左)を下り、西川信号交差点(写真中)から右折して進み、 突当りの丁字路で舟渡し場跡から来る右からの道と合流し、左折する。 |
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ゆるい下り坂(写真左)を道なりに進み、西横関集落を進んで突当りの丁字路(写真左中)を右折し、 まばらな住宅の中の道(写真右中)を約300m進み、西横関信号交差点で8号線に合流し、右折する。 横関の名:室町時代、この辺りに「関所」があったことに由来する。 |
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交差点左角に「是よりいせ道」「みなくち道」道標(写真左)があり、当時この道は「水口道」と呼ばれていたという。 8号線を進み善光寺川にかかる橋(写真中)を渡り、 すぐ先日本ペイント看板の建物から左手に斜めに進む。 |
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約350mほど8号線と並行に鏡の集落(写真左)を進み、鏡口信号交差点で再度8号線に合流し、左折する。 | |||||||||||
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鏡地区は鎌倉時代の大きな「鏡宿駅」であったが、江戸時代その重要性が薄れ「間の宿」に格下げされた。 ゆるい坂の8号線(写真左中)を上り、すぐ左側に「旅籠吉野家跡」標識(写真左)、右側に「旅籠吉田屋跡」標識(写真右中)。 続いて鏡神社の神官で万葉集の女流歌人額田王を育てた鏡王が葬られている真照寺。 |
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坂を上り右側に、傾いた「旅篭枡屋」跡標識(写真左)。 さらに右側広場に「源義経宿泊の館跡」石碑(写真左中)。 平安時代、義経一行が鞍馬を出て奥州平泉に向かう途中、東山道鏡宿の長の澤弥伝の経営する「白木屋」に宿泊した。 続いて右側に江戸へ降嫁時和宮も休憩した「本陣跡」標識(写真左)、その先右側に「旅篭加賀屋」跡標識。 |
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さらに右側に、本殿が南北時代建築で国重要文化財鏡神社(写真右中)と参道入口左に源義経烏帽子掛けの松(写真右中)。 鏡神社:「日本書記」に記されている朝鮮半島の新羅国から陶製技術を伝えた、天日槍王子を祀った神社。 烏帽子掛けの松:1174年(承安4年)3月3日、遮那王(牛若丸)は白木屋に宿泊した時前髪を落とし元服し、源義経と名乗った。 元服のあと、義経が一人で鏡神社に参拝したときに烏帽子をかけたと言われる松。 明治6年に台風で倒れたため、幹の部分を2.7m残し保存しているもの。 8号線の坂の頂上付近の右側に、全く水のない「元服の池」碑(写真右)。 元服池のすぐ先で8号線から分かれ左手の道を進むが、横断歩道がないので車を縫った命がけの横断。 |
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すぐ先で蒲生郡竜王町から野洲市大篠原地区(写真左)に入り、8号線と並行に進む。 途中の丁字路は直進し、右側の「中山道」案内板(写真左中)を通り、ガソリンスタンド前(写真右)を進む。 8号線と合流する手前左側に、「平宗盛胴塚」案内板。 |
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寄道をし、案内板に従い左手の㈱キョウエイ境界柵沿いの細い道(写真左)を進み、突当り林の中に 「蛙不鳴池および首洗い池」案内板(写真中)と「平宗盛卿終焉之地」碑と平宗盛とその子清宗の石塚が並ぶ。 平宗盛終焉の地:壇ノ浦合戦で敗れた平家は殆ど入水戦死したが、建礼門院、平宗盛親子と平時忠だけは捕えられた。 宗盛親子は源義経に連れられて鎌倉へ下ったが、頼朝に追い返され京へ向かった。 その途中、義経は首を京へ持ち帰るためこの地で宗盛親子を斬り、親子を同じ穴に埋めて塚を建てた。 そして塚の前の広い池で首を洗ったと言われる「首洗い池」、あまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったという「蛙不鳴池」。 |
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元の道に戻り、そのすぐ先で8号線と合流し、左折して進む。 坂道を上がり、大篠原北信号交差点(写真左)を横断して今度は下り坂となり、左手に大きな池(写真左中)。 坂を下り切り、浄願寺前信号交差点(写真右中)で右折して横断歩道を渡り、フエンス沿いに左折する。 |
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8号線に並行な道(写真左)を約550m進み、再度8号線と合流(写真中)し右折する。 左側の篠原堤沿いの8号線を西陽に向かって進み、小堤地区集落に入り、小堤信号を直進する。 |
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8号線を約15分進み、右側の「小堤」バス停の高谷石材角(写真左)から斜めに右折して道なりに進む。 ゆるい坂を上り右側に、きれいに整備された敷地に「愛宕山」碑と両側に常夜灯(写真中)。 その先で右折し、家棟川にかかる竣工なったばかりの家棟川新橋を渡る。 |
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すぐ右側に篠原神社(写真中)。 道なりに進み、信号交差点(写真左)を直進し右側に子安地蔵堂。 |
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さらに先の左側に、開園時間の過ぎた「国史跡大岩山古墳群 桜生史跡公園」入口(写真左)。 大岩山古墳群:大岩山丘陵には8基の国史跡古墳があり、 そのうち桜生には、全長50m前方後円墳の天王山古墳、直径28m円墳の円山古墳、直径30m円墳の甲山古墳の3基がある。 その先で東海道新幹線沿い(写真中)に進み、左側に「史跡甲山古墳」碑。 |
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古墳の外れで、丁字路を直進しゆるい上り坂の小篠原地区に入る。 平坦で、住宅の疎らな道(写真左中)の左側桜生公民館に、「身元調査お断り運動推進中」立看板(写真左)。 このグローバル化の時代、何を調べてどうするつもりなんだろうか?他人のあらさがしして差別化する? せいぜい先祖を20代も遡れば、誰もかれも皆な同じ親類だったり、山賊だったり、海賊だったり、こそ泥だったりで、 下手するとまだ人間になり切っていなかったりですよ。 まずは、調べる人間は自分の祖先を調べて見るのが、先決ではないでしょうか。 本当に情けない! その先右側に、「銅鐸の里桜生」看板(写真右中)が立ちこの付近で弥生時代遺物の銅鐸が24個も出土している。 道なりに丁字路を、次に交差点を直進する。 |
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その先左側に稲荷神社(写真左)、右にカーブ(写真中)し右側に養専寺。 | |||||||||||
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さらに右側に、茅葺屋根暁酒造(写真中)と軒下に大釜(写真右)。 この時間、日暮れとの闘いで正面に東海道新幹線ガード。 |
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8号線と分かれ高谷石材店から約40分で、ガード下に到着。 その先で道は2つに分かれ、左手の道が旧中山道。 ただもう完全に日が暮れてしまうのでもはやここまでと、JR野洲駅へ3分の右手の道を進む。 偶然にもこの日は県スポーツ大会前夜で、3軒しかないホテルはどこも満員で予約なしの悪戦苦闘。 なんとか惨めな形でも宿泊できたのは、まずはハッピーとした。 |
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