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この区間は、番場宿に引き続き2008.10.17に歩いた。 この区間では、生まれて初めての恐怖を経験した。 前日の終点摺針峠頂上からの下りは、 全く開発されていない自然そのものの山の中の道でかつ一部雑木林の谷道が100mほどある。 そしてこのとき、人も車も通らない朝の時間帯(8時台)。 その道には、(多分)朝餉を探す子ザルを引き連れた4,5匹のグループの野生サルが群をなして、右往左往しているではないか! 人の気配を察っすると、群は道の両側に飛び散って行くが、それでもやはり何かの拍子に飛びかかってきて、 この肉体をあの鋭い爪で引き裂かれてしまうのではないかという恐怖、特に谷道では極限に達した。 一人旅であったので、本当に怖かった。 少なくともここは、野生サルの朝餉の時間帯を避けて歩かなければいけない区間だったと思う。 |
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経路 (摺針峠頂上)山道→国道8号線→一般道(鳥居本宿)一般道→県道528号線→一般道(高宮宿)一般道→県道542号線(石畑) ↓ (近江鉄道五個荘駅)・・・(道標)一般道←県道52号線←(御幸橋)国道8号線←(愛知川宿)一般道(歌詰橋)一般道←542号線 |
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2008.10.17 長浜温泉を出発し、JR長浜駅からJR米原駅へ。 そこからタクシーで標高179m摺針峠頂上に8:27到着。 峠の西側坂道は、前日の東側と違い全く開発されていない自然そのものの中を下る道。 この時間峠の山道には全く車も人通りもなく、 子ザルを連れた4、5匹グループの野生サルが群をなし、朝餉を探して道を飛び交う。 その様はタクシーの中でも恐怖を感じる。 そして運転手いわく、「サルに襲われ、あの鋭い爪で引っ掻かれたら痛いでしょうね」。 これから一人ぽっちで歩いて下る山道に、何事も起こらないことをただ祈るだけ。 頂上の左側階段を上る。 摺針峠地名由来:磨針峠とも書く。修行で疲れた青年がこの峠にきた時、老人が斧を石で磨いていた。 青年が何をしているのかと尋ねると、「斧が針になるまで磨くのだ」という。 その言葉で青年は目覚め、意志の弱さを知って一層修行に励んだという。 この老人は、弘法大師だったという言い伝えがある。 |
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階段を上り切り、正面に神明宮鳥居(写真左)。 右手に、彦根藩が建てた諸大名や朝鮮通信使も休憩した本格的茶屋「望湖堂」跡(写真中)建物。 江戸時代この茶屋で名物「するはり餅」を売っていたが、平成3年に焼失してしまった。 当時この茶屋から見る琵琶湖の眺めは絶景で、安藤広重の「諸国名所百景」にも描かれている。 ただ現在は湖の埋め立てなどで景色が変わり、白い塔の向うにチラッと湖が見えるだけ。 |
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今タクシーで来た峠(写真右)を下り、 最初の左にカーブしたところの左側に、「旧中山道鳥居本宿」道標(写真中)が立ち下り階段。 先ほどのサルの群も、人の気配で一斉に道の両側に飛び去る。 とはいえ階段を下るのは、とても勇気がいることであった。 子ずれのサルであるから、ひょんなことで機嫌を損ね運転手の言うように鋭い爪で襲いかかられたら、 逃げ場がなく悲しいかなサルの餌食になされるがまま。 恐るおそる階段を下り、きちんと設置されている手摺伝いに、九十九折の谷道を下る。 |
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だんだん薄暗い林の中(写真左)に入り、サルの姿に怯え、いつの間にか下方に明るい舗装道(写真中)。 一目散に駆け下り、舗装道に出て左折し、無事を感謝しつつ坂を下る。 この区間約100mくらいであるが、特に一人旅では万が一を考えるとサルの朝餉の時間帯を避けることをおすすめしたい。 |
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しばらく下り、突当りで国道8号線と合流(写真右中)し、左折する。 合流点左角に、「磨針峠望湖堂」石碑(写真右)が立つ。 すぐ先で矢倉川にかかる橋(写真左中)を渡り、すぐ「中山道」道標で8号線と分かれ、左折して進む。 |
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鳥居本宿:江戸から63番目の宿場で、北国街道、朝鮮人街道の分岐点。 宿名の由来は、日無神社の鳥居が海道に跨って建てられていたことによるが、現在はない。 宿場には「赤玉、合羽、すいか」と、3つの名産があった。 赤玉は、赤玉神教丸と言う腹薬で、現在「有川製薬」として昔ながらの赤玉を製造・販売している。 合羽は柿渋で赤く染めた合羽のことで、旅人の必需品として一時15軒もの店があった。 本陣1軒、脇本陣2軒。 |
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左側の旅人をモチーフとした「おいでやす 彦根市へ」モニュメント(写真左)を通り、 さらに左側の「彦根八景 旅しぐれ 中山道松並木」看板(写真中)で股旅ものの旅がらす気分。 まばらな松の木の松並木を通り、鳥居本宿に進む。 ゆるく右に、右にカーブする通りの左側に見事な茅葺建物。 |
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さらに右にカーブして道なりに進み、 突当り(写真中)で直角に左折する右角に「赤玉 神教丸 有川市郎兵衛」暖簾の有川薬局(写真右)。 赤玉神教丸:有川薬局の創業は、1658年(万治元)頃。 ここで製薬された赤色の5mmほどの丸薬が、「下痢、食あたり、腹痛」に効く薬として街道で人気となり、爆発的に売れたという。 現在も販売している。 左折し、直線の宿場通りを進む。 |
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右側に、「ディサービスセンター鈴の音」看板の格子構え建物(写真中)。 続いて右側に、「本家合羽所木綿屋 嘉右衛門」合羽型看板(写真右)が吊るされた格子構え建物。 合羽:鳥居本宿では、赤玉神教丸と並び柿渋で赤く染めた合羽が有名で、一時15軒もの店があった。 合羽は、ポルトガル語「KAPA」の当て字。 左側雑草敷地フエンスに、寺村「本陣跡」標識。 |
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すぐ先丁字路(写真中)で、右手奥に近江鉄道本線鳥居本駅(写真右)。 さらに進み左側に、珍しい「看板掛け」に吊るされた 表「包紙紐荷造材料」裏「松本商店」合羽型看板。 |
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その先信号交差点(写真左中)を横断し、左角に手書きの「鳥居本宿」木製碑(写真左)。 「格子構え白壁造り虫籠窓」の古い家のきれいな家並(写真左中)の、当時の風情が漂う宿場通りを進む。 右側の門前に、「聖徳太子舊跡」碑(写真右)が立ち境内に聖徳太子堂のある専宗寺。 |
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さらに郵便局を過ぎた丁字路(写真左)の角に、 |
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道なりに東山道時代の宿場小野集落(写真中)に入り、左側に共同トイレ(写真左)。 集落を抜けたゆるい上り坂右側に、八幡神社石柱と常夜灯2基。 神社本殿は、前方新幹線ガード下奥。 |
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新幹線沿い(写真中)に進み左側に、高速道をバックに小野小町塚(写真左)。 正直こんなところで、美人小野小町に会えるなんて思いもよらなかったが、 この付近を生誕地とする説は信憑性が高いとのこと。 小野小町:出羽郡小野美実が奥州に下る途中ここ小野に宿泊したとき、生後間もない可愛い女児に出会った。 美実がこの女児を養女に貰い受け、出羽国にへ連れて行き育てたのが小野小町だという。 その先で新幹線ガードを潜り、道なりに左折する。 |
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新幹線沿い(写真左)に進み、 右手草むらに「往時の宿場 十所谷」看板(写真左中)が立っているが、はてどんな宿場? 道なりに原集落(写真右中)に進み右側に、八幡神社鳥居。 鳥居の足元に、「衹川 白髪塚」「芭蕉 昼寝塚」碑。 境内に、「恥ながら残す白髪や秋の川 祇川居士」白髪塚、 「ひるかほにひるねせうものとこのやま 芭蕉」芭蕉塚、が並ぶ。 祇川居士は、陸奥出身の芭蕉の門人。 |
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さらに進み、 丁字路角(写真右中)に1844年(天保15)建立「天寧寺五百らかん七丁余」道標と右に「はらみち」道標(写真右)。 天寧寺は、ここより東北へ約1kmの地点にある寺。 天寧寺五百羅漢:井伊家11代藩主直中が死罪にした腰元親子を弔うために作らせた木像五百羅漢で、 探し求める人の顔が必ずあるといわれている。 名神高速道ガードを潜り、 その先で正法寺町信号交差点(写真左中)で国道306号線を横断し、県道528号線を進む。 交差点手前左側に、多賀大社参道標識群。 |
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横断したすぐ右側のコンビニ(写真中)は、廃業で飲食物の購入不可。 県道528号線(写真左)は歩道のない交通量の激しい道で、時に身の危険を感じながら約7分進み、 右側に今日初めて拝見する待望のコンビニで食糧を調達。 |
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その先の信号交差点(写真左)を横断、次の押しボタン信号交差点を進み、 芹川にかかる大堀橋(写真左中)を渡る。 続いて大堀町信号交差点(写真右中)を横断し、左折して正面の旭森公園沿いに進む。 左折した右フエンス前に「中山道旧跡 床の山」碑が立ち、側面に「ひるがおに昼ねせうもの床の山 芭蕉」。 歌枕である「床の山」は、どの山を指すのか不明であるが旧跡を残すために碑をここに建立したとのこと。 |
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さらに右折して公園沿い(写真左)に進み、歩道の途切れたところ法面に約40体のお地蔵さん(写真左中)。 続いて飛鳥時代より16第応神天皇とその母神功皇后を祭る、「石清水神社」石柱(写真右中)と 参道階段中ごろ右奥に「扇塚」碑。 扇塚:能喜多流9代目家元健志斉古能は、隠居後彦根に数年間いて門人育成と能楽の発展に力を尽くした。 その後江戸へ戻ることになったとき、門人たちの所望に応じて記念に「面と扇」を与えた。 その面影を残すため、1801年(享和元)門人たちはここに面と扇の塚を建立した。 もともと一対だったが、面塚は所在不明。 |
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県道528号線を約10分進み、近江鉄道本線踏切(写真左)を横断する。 踏切手前右側歩道に、「中山道高宮宿」碑と多賀大社常夜灯(写真左中)。 その先の高宮町大北信号交差点(写真右中)で県道224号線を横断し、 県道528号線と分かれ一般道の高宮宿へ進む。 横断した右角に、明治33年建立で眼病にご利益のある珍しい木彫の大北地蔵。 |
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高宮宿:中山道の宿場町とともに、多賀大社の参道としての門前町の役割も果たして賑わった。 現在も、町並みは往時の面影を残している。 また宿は、高級品の高宮布(近江上布、高宮嶋ともいう)の集散地としても栄えた。 この高宮布は、近江商人の手によって全国に売りさばかれ、近江商人の大活躍を支える主力商品となり、 高宮の馬場家や隣接する豊郷集落の藤野家、伊藤家(総合商社伊藤忠・丸紅創始者)などの豪商を輩出した。 本陣1軒、脇本陣2軒。 |
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今でも往時の面影を残している宿場通り(写真中)を約5分進み右側に、 鎌倉時代末期創建の高宮神社(写真右)。 境内には1713年(正徳3)建立の古い石灯籠が残っている。 道を挟んだ左側に、「高宮布 布惣跡」案内板を掲げた商家。 高宮布:細糸で織った質のよい高級品の麻布のことで近江上布、高宮嶋とも言い、高宮が主生産地であった。 惣:室町時代の村人の自治共同体のこと。 ここは高宮布の集積地として賑わったところで、 当時は7つの蔵があり、蔵いっぱいの布を年12回も回転させていたという。 現在も5つの蔵が残されている。 |
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その先右側に、多数の提灯を展示してある馬場提灯屋(写真右)。 宿場中央の高宮鳥居前信号交差点(写真中)左側に、 1635年(寛永11)に建替えられた高さ11m、柱間幅8mの多賀大社一の鳥居。 ここから多賀大社までは約3km。 多賀大社:古事記にも記載されいる古い神社で、祭神は伊勢神宮の天照大神の親神の「伊邪那岐」「伊邪那美」。 江戸時代は「お伊勢参らば お多賀に参れ お伊勢お多賀の子でござる」「伊勢へ7度 熊野へ3度 お多賀さんへは月詣で」 と言われるほど有名であった。 鳥居の右脇に、高さ6m底辺3.3m正方形の巨大常夜灯。 |
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当時の情緒を感じる通り(写真左)を進み、 右側小林家柵(写真左中)の内側に「俳聖芭蕉翁旧跡紙子塚」碑(写真右中)。 紙子塚:1684年(貞享元)芭蕉が3代目当主小林意猪兵衛門忠淳宅に一泊したとき、 自分が横になっている絵を描いて「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」の句を詠んだ。(紙子とは、紙で作った衣服のこと) 小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後庭に塚を作り古い紙子を納めて「紙子塚」と名づけた。 さらに右側に、問屋場を兼ねていた小林「脇本陣跡」。 |
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その先左側に、表門が遺存されている小林「本陣跡」(写真左)。 右側に、1498年(明応7)仏堂を建立したのが起源の円照寺で境内に「家康腰掛石」がある。 |
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宿はずれから道はゆるい上り坂となり、犬上川(写真左)にかかる高宮橋(写真左中)側道橋を渡る。 橋手前右袂に、1832年(天保3)建立「むちんばし」碑(写真右中)。 無賃橋:高宮橋を言う。彦根藩は、地元商人や一般人の浄財で橋をかけさせ、渡り賃を無料とした。 当時川渡しや仮橋は有料であったので、この橋を「むちんばし」と呼ぶようになった。 碑の脇に、むちん橋地蔵尊。 昭和52年むちん橋橋脚改修工事で、脚下から2体の地蔵尊が発掘された。 この地蔵尊を1832年架橋時の礎の地蔵尊として、お堂を建てて祀っている。 |
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宿場は高宮橋で終わり、広い市街地の道(写真左)を進み、新安田橋を渡り、 法土町信号交差点(写真中)を直進して閑静な住宅街を道なりに進む。 西葛籠町に進み高宮橋から約13分の右側に、「行基」彫像の地蔵菩薩が安置されている月通寺。 |
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その先右側コトブキ美容室と理容チャッキ(写真左)の間のスペース奥に、 安産祈願の参詣の多い若宮八幡宮「産の宮」(写真中)と「足利氏降誕之霊地」と刻まれた手水鉢。 産の宮:1356年(文和5)室町幕府二代将軍足利義詮の令室が、京への帰路この地で男子を出産した。 付き人として家臣9名がこの地に残り保護したが、幼くして亡くなった。 生母は髪を下して尼となり、この地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。 土着した家臣9人は竹と藤蔓で作った葛籠を作るようになり、松寺の北方に一社を祀りこの宮ができた。 「葛籠」は地名にもなっている。 |
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すぐ先で左側に還相寺(写真左)、道を挟んで右側に了法寺(写真右)。 見事な松が映える閑静な葛籠集落を道なりに進む。 |
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集落を抜け、松並木(写真左)が続き、中ほど左側に平成8年建立「またおいでやす」モニュメント(写真中)。 これは鳥居本宿手前にあったものと対になっているもので、ここで彦根市と「さよなら」する意。 このモニュメントにはライトアップ設備があり、夜の野原に映し出される光景は如何ばかり。 松並木を過ぎ、出町信号交差点を直進する。 |
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左側に、鳥居の奥にとても小さな本殿の日枝神社(写真左)。 さらに森米穀前の右側道路脇雑草の中に、中山道碑と真新しい宝船に乗った「七福神」(写真右)。 周囲は雑草だらけ、ということは中山道を旅する人のためわざわざ建立してくれたものかも。 感謝! その先で「豊郷町四十九院」信号交差点を横断し、県道542号線の犬上郡豊郷町へ進む。 モニュメントのところで彦根市と「さよなら」したが、地図上は境界が複雑に出入りしていて、 完全に彦根市と別れるのは森米穀(七福神)辺りとなる。 |
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左側に春日神社(写真左)、その先の左側に豊郷小学校(写真左中)。 豊郷小学校校舎:1937年伊藤忠商事前身の伊藤忠兵衛商店専務古川鉄次郎が、 アメリカ人建築家に設計させた当時としては珍しいコンクリート校舎と講堂を建設・寄贈したもの。 1999年これら校舎と講堂を老朽化と耐震化を理由に解体する計画が発表され、 それに反対する住民との裁判沙汰がマスコミを賑わした。 2008年末現在、新校舎は建設されたが、旧校舎は閉鎖保存され町施設として利用するため耐震化工事中とのこと。 正門前に、ひょろ長い松の木(写真右中)とその根本に「中山道 往時をしのぶ名残松」標識。 往時をしのぶにしては、あまりにもきゃしゃで頼りない松の木。 正門の反対の右側に、「やりこの郷 安食南」碑。 やりこの郷:昔干ばつに苦しんだ農民が、阿自岐神社に祈願したところ 「安食南にある大木から矢をはなてば、矢の落ちたるところから水がわく」とのお告げ。 お告げの通り矢を放ち地面にささった矢を抜くと清水が湧き出した。 この矢を射た大木を「矢射り木」と言い、なまって「やりこ」となった。 |
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さらに県道542号線(写真右中)を進み、 左側の八幡宮境内に、「高宮宿←石畑(間の宿)→愛知川宿」碑(写真左)と「一里塚の郷 石畑」碑(写真左中) 石畑:平安時代からの古い土地で、江戸時代後期には高宮宿と愛知川宿の間の宿として発展し、立場も設けられた。 現在の役場敷地に、「高さ丈余の塚で、松が植えられてあった塚の上から、湖水が見えた」という一里塚があった。 その先豊郷町役場前信号交差点を、直進する。 交差点手前左角の役場敷地に一里塚があったというが、全くその気配なし。 |
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次の丁字路(写真右)を直進し、左手奥に近江鉄道本線豊郷駅。 | |||||||||||
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左側丁字路角の「くれなゐ園」中央に、初代「伊藤忠兵衛翁」碑(写真左)。 代々伊藤忠兵衛を継ぎ、初代が1858年近江麻布類行商は始めたことをもって、総合商社伊藤忠・丸紅の創業としている。 続いて左側の豊郷病院敷地に、7代目「伊藤忠兵衛家 屋敷跡」碑(写真中)。 7代目は株式会社丸紅商店初代社長で、巨額の浄財を投じ豊郷病院を創設した。 少し離れた左側に、初代の住まいで2代目が生まれた伊藤忠兵衛旧邸。 |
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高野瀬東信号交差点(写真左)を横断し、県道542号線と分かれて一般道を進む。 次の押しボタン式信号丁字路(写真中)の右側ニシキ会館前に、金田池。 金田池:金田池と称する湧水があり、田畑の用水や中山道の旅人の喉を潤していたが、近年出水しなくなり埋立てられた。 当時のものを復元したものであるが、水は全くない。 |
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その先右側に「又十屋敷」立看板(写真左)と、 その右奥に北海道開拓で財をなした藤野喜兵衛(屋号又十)家屋敷(写真中)。 現在は資料館として有料開放されていて、月、水、金が休館日。 なおここの入口に一里塚碑があるが、前述の石畑の一里塚碑を保存しているもので、ここが一里塚跡ではない。 数分先右側に、千樹禅寺(昔は観音堂と呼ばれていた)に隣接して「江州音頭発祥地」碑。 江州音頭:1586年(天正14)戦火で焼失した観音堂(千樹禅寺)を藤野太郎衛門常美が再建したとき、 余興に村人に経文を面白おかしく節をつけ、身振り手振りで躍らせたのが始まり。 今のようになったのは、再び焼失し1846年(弘化3)に藤野喜兵衛(又十)によって再建されたときで、 八日市の「歌寅」という人物に一般大衆向きの音頭を作らせ踊ったものが、広まった。 |
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道なりに進み、宇曾川にかかる歌詰橋(写真中)を渡り、豊郷町から愛知郡愛荘町へ進む。 橋を渡った左側に、「愛知川宿」標識(写真左)。 右側角広場に、「宇曾川と歌詰橋」案内板。 宇曾川:泰川山と押立山を水源として琵琶湖に注ぐ川で、 水量が豊富で舟運が盛んであったことから「運槽川」と呼ばれていたのが、なまって「うそかわ」となった。 歌詰橋:940年(天慶3)東国で平将門を殺し首級あげた藤原秀郷がこの橋まで戻ってきたとき、 目を開いた将門の首が追いかけてきた。 秀郷が将門の首に向かって「歌を一首」と言ったところ、歌に詰った首は橋の上に落ちたといわれ、 以来歌詰橋とよぶようになった。 |
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淡々と約10分進み左側に、近江地方に多い石部神社(写真左)。 その先右側に、「沓掛藤棚公園トイレあり→」標識(写真右)。 この標識は、絶対に中山道を旅する人への知らせだと思う。感謝! 沓掛信号交差点を直進する。 |
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すぐ先で道は2つに分かれ、右手の道(写真左)を進む。左手は近江鉄道本線愛知川駅へ通じる道。 愛知川小学校前を通り、道なりにS字型カーブ(写真中)を進み、右側に河脇神社鳥居。 |
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愛知川宿:恵智川とも書き、「えちがわ」と読む。 古くは東山道の宿駅で、中山道宿駅制定でそのまま踏襲され、宿場町とともに商人町でもあった。 高宮宿と同様近江上布が名産で、近江商人によって全国に売りさばかれた。 近江商人発祥の地の一つ、五個荘がある。 宿外れの愛知川に、当時「無賃橋」が架けられていたのは、宿場の豊かな経済力を示す象徴かも知れない。 本陣1、脇本陣1。 |
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その先で、歓迎「中山道愛知川宿」ゲート(写真左)を潜り進む。 3,4分進み用水路にかかる橋を渡った右側に、郡分地蔵堂と「愛知川宿北入口」碑。 |
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さらに2分ほど進み、信号交差点(写真右中)で県道214号線を横断して進む。 横断した左角のポケットパークに、広重の「木曽街道六拾九次之内恵智川愛知川宿」浮世絵や道標(写真左中)、 明治4年郵便創業時と同じ物を再製した現役黒塗り書状集箱(写真左)。 宿場通りを進み、地元銀行で「本陣跡」を尋ねた。 ところが店内は大慌て、男子行員から「本陣って何ですか?」逆に尋ねられる始末で、店内誰も知らない様子。 続いて大手生命保険会社で聞いてみても、やはり同じ結果であった。 地元の人の関心などは、多分この程度なのかも知れない。 実は後述の年配の人から、本陣跡(写真左)は、 通りの右側にある日本生命ビル(写真左)裏空地、と教えられた。(但し現地に標識なし) |
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日本生命から先右側に、八幡神社(写真右)と隣接して「高札場」跡碑(写真中)。 その先に、脇本陣跡があるはずと探したが不明。 その辺りの商店の70代くらいのご主人に尋ねたら、その店の前(道路右側)の空地が脇本陣跡(写真左)とのこと。 空地にあった郵便局の建物を解体したとき、一緒に「脇本陣」碑もどこかに行ってしまった。 「どうも宿場の史跡に関心が薄く困ったものだ」とご主人。そして私も先ほどの銀行の件もあり、内心妙に同調。 ついでに本陣跡を尋ねたら、「日本生命ビル裏空き地」とのこと。 |
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少し進んだ左側に、「問屋跡」碑(写真左)。 狭い宿場通りを道なりに進む。 |
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左側に、1758年(宝暦8)創業「旅館竹の子屋」提灯(写真左)の料理旅館竹平楼(写真左中)。 その先、用水路のような不飲川(写真右)にかかる不飲川橋を渡って進む。 不飲川:川の名前の由来は、上流で平将門の首を洗って水が濁ったからとか、 戦国時代この川に多くの死者が横たわっていて飲めなかったから、と言われている。 |
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宿場出口の「愛知川宿」ゲート(写真左)を潜り、国道8号線に合流し左折して進む。 合流した右側空地(写真中)奥に、中山道122番目「一里塚跡」碑が全く目立たなく立つ。 |
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国道8号線(写真右)を進み、愛知川にかかる御幸橋の手前で左手の側道の坂(写真中)を上る。 川の手前左側祇園神社境内に、1846年(弘化3)建立常夜灯。 川の対岸にも同じ常夜灯があり、2つの常夜灯を結ぶ線に当時橋がありこれが旧中山道であった。 ただこの橋は貧弱で大水のときなどは人命を奪っていたため、 1831年(天保2)地元の有力者らが資金を出して、渡り賃無料の「無賃橋」が架けられた。 その後明治11年、天皇行幸のとき馬車が通れる新しい「御幸橋」に架け替えられた。 |
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常夜灯から見る愛知川対岸(写真左):左手の朱色架橋が近江鉄道本線、右手の青色架橋が御幸橋。 常夜灯から右折し、御幸橋北信号交差点を左折して御幸橋(写真中)を渡り、 途中から愛知郡から東近江市五個荘簗瀬町に入る。 最初の交差点(簗瀬北信号交差点)を左折する。 |
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県道52号線を進み、すぐ近江鉄道本線踏切(写真左)をわたり、 その先常夜灯(写真中)から県道52号線と分かれ右にカーブ(写真中)して旧中山道の坂道を下る。 |
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道なりに進み、左側に愛宕神社(写真左)。 その先の分かれ道で右手の近江鉄道本線踏切(写真中)を渡り、 約2分先の「←五個荘駅、福祉センター→」道標の立つ分かれ道は、右手の道が旧中山道。 曇り空と下手な写真の撮り方で夕方のような景色であるが、まだ15時前。 ただ今日の宿泊予定の雄琴温泉までは、電車本数も少なく時間もかかることを下調べしてある。 もうそろそろ電車に乗らないと旅館に18時まで着けないと見極め、左手の近江鉄道本線五個荘駅へ進む。 無人駅で、電車連絡も悪く約20分ほどの待ち時間。 ラッキーなことに、同じく待っていた地元幼稚園の美人先生3人との楽しい出会い。 先生、その節はいろいろお世話になりありがとうございました!! |
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