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2008.10.16~19日間で、 関ヶ原宿・今須宿・柏原宿・醒井宿・番場宿・鳥居本宿・高宮宿・愛知川宿・武佐宿・守山宿・草津宿・大津を歩いた。 大津宿から先の京都までは、東海道57次(京街道)と東海道53次で既に歩いているので、 途中ははしょった宿もあるが、とりあえずは中山道を歩き終わったことにした。 はしょった宿場は、おって歩いて完全のものにする予定。 |
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関ヶ原宿から番場宿間は、2008.10.16日に歩いた。 この中で特筆すべきは醒井宿で、 きれいに澄んだ湧水の「居醒の清泉」が地蔵川となって当時の建物の残る宿場通りを流れる景観は、 とても素晴らしい風情で感動さえを与えてくれたことである。 |
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経路 (関ヶ原宿)国道21号線→一般道(今須峠)→国道21号線→一般道(今須宿)一般道(岐阜・滋賀県境)一般道(柏原宿)一般道 ↓ (摺針峠)一般道←(番場宿)←一般道←県道240号線←一般道←国道21号線←一般道(醒井宿)一般道←国道21号線 |
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新横浜駅を早朝出発、東海道新幹線と東海道本線経由で8:54JR関ケ原駅到着。 空は真っ青、いい日旅立ち。 |
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関ケ原宿:江戸から58番目の宿場。 古くから伊勢神宮に通じる伊勢街道、長浜や越前に向かう北国脇往還へ分岐する交通の要衝として賑わった。 歴史的には、672年の壬申の乱の戦場となりその後天武天皇の命で不破の関が置かれ、 また1600年(慶長5)徳川家康の東軍と石田三成の西軍の関ヶ原の戦いの地で、史跡が多数ある。 1760年(宝暦10)の大火で宿場全域が焼野原になり、 復興にあたり道幅を2倍に拡張し、中央に水路を通しその両側に梅、桃、柿などを植えて防火対策を講じた。 現在は、当時の宿場の名残りは殆どない。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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駅から南へ100mの旧中山道の国道21号線に出て、右折して進む。 すぐ先の関ヶ原駅前信号交差点(写真左)手前右側に、創業永長元年旅館桝屋。 永長元年と言えば西暦1096年、平安時代中期の旅館とは凄い! |
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交差点を直進し、右側に当時の面影を残す門構えの相川脇本陣跡(写真左)。 門前右側に、江戸時代前期の高僧至道無難禅師生誕地碑(写真左)。 その先右側の十六銀行と会計事務所の間の道(写真中)を入り、 奥の八幡神社(写真中)辺りまでが本陣跡敷地で、 神社から左側に分かれる道は北国脇往還(写真右)。 |
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21号線を進み、関ヶ原西町信号交差点(写真左)を直進し右にカーブした右側に、西首塚。 関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚で、 江戸時代にこの上に千手観世音堂と馬頭観世音堂が建てられ、付近の民衆により供養されている。 |
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さらに進み、松尾信号交差点(写真右)から「これより中山道」道標の立つ左手の細い道(写真右中)を進む。 約100m進み左手からの道と合流(写真左中)し、右折する。 合流する右角に、「美濃不破関 東山道と東城門跡」案内板(写真左中)。 不破関は中央部を東山道が通り抜け、東端と西端に城門や楼が設置され兵士が守りを固めていた。 ここは東端に位置するところ。 道の左側に、後述の壬申の乱で藤古川を挟んで弘文天皇(大友皇子)と戦った、 天武天皇(大海人皇子)を祀った井上神社石柱。 神社本殿は南へ300mのところにある。 |
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数分先右側に、「不破関の庁舎跡/大海人皇子の兜掛石・沓脱石 60m2分」案内標識(写真左)。 右折し民家と民家の間の道なき道を通ると一面の茶畑で、ここが庁舎跡(写真中)という。 その茶畑の中ほどに、 壬申の乱で大海人皇子が兜を掛けたといわれる石が祀られた祠と、その左後に靴脱ぎ石がある。 |
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元に戻り、その先左側の白壁の建物が、不破関跡(写真左)と入口(写真中)。 東山道の不破関は、東海道の伊勢鈴鹿の関、北陸道の越前愛発関とともに、 古代律令制下の三関の一つとして壬申の乱(672年)後に天武天皇の命で設置された。 その後789年(延暦8)に停廃された後は、関守が置かれた。 建物の先で道は2つに分かれ、右手は不破関資料館へ通じる道で、 旧中山道は左手の坂道を下る。 |
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坂の左側の戸佐々神社碑のある参道脇に、「不破関西城門と藤古川」案内板(写真左)。 不破関は藤古川を西限として利用し、ここに西城門があったという。 坂を下り切って、藤古川(写真右)にかかる橋を渡り松尾地区から藤下地区に入る、 伊吹山麓を源の藤古川は、古くは不破関所の傍を流れていたことから関の藤川と呼ばれていた。 壬申の乱(672年)ではこの川を挟んで開戦し、 関ヶ原合戦では大谷吉継が上流に布陣するなど軍事上の要害の地でもあった。 またこの川は古来より歌枕として多くの歌人に詠まれている。 井上神社と若宮八幡神社:壬申の乱では藤古川の西側に弘文天皇(大友皇子)軍、 東側に天武天皇(大海人皇子)軍が陣し、そこの地区の民がそれぞれの軍を支持した。 そのため戦後東の松尾地区は天武天皇を祀って井上神社と号し、 川西の藤下、山中地区は弘文天皇を祀って若宮八幡神社と号した。 |
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道は上り坂となり、左側に壬申の乱で倒れた弘文天皇(大友皇子)を祀る若宮八幡神社石柱(写真左)。 神社本殿は南へ約250mのところにある。 さらに上り(写真左中)交差点(写真右中)を直進し、 横断した右角に、関ヶ原戦いの西軍の悲運の知将「大谷吉継の墓 1000m20分」道標。 |
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左側角に、大谷吉継の別名「大谷吉隆墓 7丁」石碑(写真左)。 関ヶ原に散った大谷吉継の辞世の句、「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」 続いて、壬申の乱で大友皇子軍の兵士が水を求めて矢じりで掘ったという矢尻の井(写真左)。 現在は井戸の中は石ころだけで、全く水の名残りなし。 この辺りで坂は頂上となり、続いて坂を下る。 |
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坂を下り切ったところで、交差した左手からの道と合流(写真左)し、右折する。 林の脇の道を約2分ほど進み、突当りで国道21号線を横断(歩道橋)(写真中)し、 「これより中山道関ヶ原宿山中関ヶ原町」標柱の立つ細い道を進む。 |
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約2分ほど進み、右側に若宮八幡神社石柱(写真中)で、本殿は北へ100mのところにある。 のどかな山中地区の道(写真左)を進み、 数分先右側の細い川は、黒血川。 壬申の乱では、この山中の地で初めて両軍が衝突し激戦となった。 両軍の兵士の流血で川底の岩石を黒く染めたことから、この名がついた。 ただ現在はあまりにも細々とした川で、とても想像がつかない。 |
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その先左側のネット越し下方に、高さ約5mの鶯の滝(写真左)。 当時は水量も豊かで冷気が立ち込め年中鶯が鳴き、今須峠を上り下りする旅人を癒してくれる、 平坦の滝として街道の名所となっていた。 今は東海道新幹線が頭上を走り、鶯どころではない。 すぐ先で道は2つに分かれ、右手の道(写真中)を進み東海道新幹線のガードを潜り進む。 さらに道は2つに分かれ、左手の道を川沿いに進む。 |
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右側に「常盤御前の墓」案内板(写真左)が立ち、寄り道して右折する。 すぐ左側の公園(写真中)の奥に、常盤御前の墓(右)と乳母千種の墓(左)が並び建つ。 源義朝の愛妾で都一の美女と言われた常盤御前は、平治の乱で敗れ今若、乙若、牛若と分かれ平清盛の愛妾となった。 その後東国へ走った牛若の後を追って来た常盤御前は、この地で土賊に殺害された。 哀れに思った山中の人たちが、ここに葬り塚を築いたという。 |
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元の道に戻りすぐ先で、新幹線ガードで分かれた道と合流(写真左)し、右折して進む。 右側の東海道本線沿い(写真中)に進み、突当りで右折して線路を横断し、 道なりに左折してちょっと急な坂を上り今須峠に進む。 |
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踏切から約5分のところで峠の頂上となり、続いて急な坂を下る。 現在でさえ冬になると交通の難所となるということであるから、当時の難所さ加減が推し量れる。 下り切ったところで国道21号線と合流(写真中)し、右折して東海道本線(写真右)を右下にして坂を下る。 すぐ左側に、復元された一里塚跡。 |
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今須宿:美濃17宿の西端で近江(滋賀県)との国境に位置する。 琵琶湖と養老を結ぶ九里半街道が通っていて、物流基地の要衝として繁栄し問屋は7軒もあった。 宿には、当時の姿のままの問屋場(山崎家)が現存している。 垂井宿と共に、幕府から5街道の中で最初に車両使用許可が下りた宿場。 本陣1軒、脇本陣2軒。 |
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坂の途中、左側歩道上の「これより中山道今須宿関ヶ原町」標柱(写真左)右脇を直進し、 21号線沿いの細い道を進み、中須宿へ入る。 門前橋、今須橋を渡り道なり(写真左中)に進み、 左側の今須生活改善センター(写真右中)前に「中山道今須宿」碑と「本陣跡・脇本陣跡」案内板。 「今須宿は美濃国と近江国の境の宿として栄え、本陣1軒脇本陣2軒あった。 いずれも小学校付近にあったが、現在は全て消滅している。 ただ河内家脇本陣母屋は、寛政年間に現米原市伊吹町の玉泉寺に移築され、当時の面影を今に伝えている。」とある。 |
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センターに隣接して、本陣、脇本陣のあった今須小・中学校敷地(写真左)。 宿場通り(写真中)は延々と続く上り坂で、 右側に、永楽通宝軒丸瓦など当時のまま現存する問屋場山崎家建物。 |
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続いて左側敷地の一角に、京都の問屋河内屋建立の常夜灯(写真左)。 1808年(文化5)河内屋が大名の荷持ちを運ぶ途中、この地辺りでそれを紛失してしまった。 そこで金毘羅様に願をかけてお祈りしたら荷物が出てきたので、そのお礼にこの常夜灯を建立した。 道なりに坂を上り続け、宿場外れで信号交差点(写真右)を横断して進む。 交差点手前左角に、とても古そうな常夜灯。 |
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道は平坦になり、高田銘木店前で左手に分かれる細い草むらの坂道(写真左中)。 この道が車返しの坂と呼ばれていた旧中山道で、上り切った広場正面に小さな車返地蔵堂(写真左)。 そこから先は、JR東海道本線の敷設で道は消滅している。 車返しの坂:南北朝時代(1336~1392)、京の公家二条良基が不破関屋が荒れはて、板庇から漏れる月の光が風流と聞き、 牛車の乗ってやってきた。 ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったと、いう伝説からこの名で呼ばれるようになった。 坂を下り、国道21号線今須信号交差点(写真右中)を直進し、 さらに坂を下り東海道本線を横断して、オーツカ工場前から道なりに左折する。 |
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右側の工場境界沿いのゆるい坂(写真右中)を上り、工場敷地の外れに、 大きな芭蕉句碑(左)、「野ざらし芭蕉道」碑(中)、「おくのほそ道 芭蕉道」碑(写真右)が並んでいる。 句碑:「正月も 美濃と近江や閨月」。郷里で新年を迎えるためにこの地を通ったときに詠んだもの。 その先左側に小さな側溝を挟んで、 「舊跡寝物語 美濃国不破郡今須村」標柱(手前)と「近江美濃両国境寝物語」標柱(向う側)(写真左中)が 並び建ち、 側溝の両側にそれぞれ「岐阜県」と「滋賀県」境界碑(写真左)が立っている。 すなわちこの側溝が、岐阜県と滋賀県の境界。 |
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滋賀県に入りすぐ右側に、「寝物語の由来」碑と「寝物語の里」石碑(写真右)。 寝物語:近江と美濃の国境は先ほどの細い溝であった。 この溝を挟み領国の番所や旅籠があったので、窓越しに「寝ながら他国の人と話会えた」ので寝物語の名が生まれたと言う。 寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌などにもこの名がよく出ていたり、広重の浮世絵におここが描かれている。 「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに」 太田道灌 先に進み集落中のゆるい上り坂が過ぎると、楓並木の下り坂となる。 |
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坂を下り続け、右側に「中山道」碑(写真左)。 続いて神明神社鳥居(写真中)とその左側の細い道は旧東山道(写真中)。 さらに坂を下り、丁字路で左折して東海道本線踏切を渡り、すぐ右折し進む。 |
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柏原宿:江戸時代は中山道近江路から美濃路を通って名古屋へ出、 そこから東海道で江戸を往復することが多かったため柏原宿はことのほか栄えていた。 旅籠22軒、問屋6軒とこれを補佐した年寄8軒、そして荷蔵が2軒と、大規模な宿場町であった。 特に古くから「伊吹艾(もぐさ)」が特産品で、最盛期には10軒以上の艾屋があった。 現在も伊吹艾の老舗「亀屋七兵衛左京」が、殆ど当時のままの建物で残っている。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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まっすぐな道を進み、左側に中山道分間延絵図の「中山道柏原宿」碑(写真左)。 その先小川にかかる橋(写真中)を渡った右側祠内に、左に安産地蔵右に背の低い照手姫笠掛地蔵。 照手姫笠掛地蔵:小栗判官助重が毒酒で落命の危機にあった時、 愛妾照手姫が車に判官を乗せて懸命にここ野瀬まで辿りつき、路傍の地蔵に自分の笠を被せて判官の回復を祈った。 石地蔵のお告げで熊野に行き療養したところ判官は全快したので、照手姫はこの地に石地蔵を本尊の蘇生寺を建立した。 |
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さらに進み枝川を渡った先、右側の理髪店(写真左)の横に柏原宿東見付跡碑があるという。 理容店の若い店主に尋ねたら「全く知らない」とのこと。 ふと見たら店と隣家の間に破損した碑のような残骸(写真左中)。もしかしたらこれが…。 宿場に入り、右側に「秘佛龍王院遺跡」碑(写真右中)、続いて右側に八幡神社。 |
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八幡神社前信号交差点を横断し、全く人通りのないゆるい上り坂の宿場通り(写真左中)を進む。 通りには当時の各種屋号表示板(写真右中)が多数掲示されていて、特に「旅籠」は22軒もあった。 ここでは、いちいちの紹介は割愛させてもらった。 左側はびろ会館前に、宿重要業務の公用荷物引継で荷を一時保管した「荷蔵跡」案内板(写真左)。 その先で、脇本陣跡がわからず新聞販売店主人に尋ねたら、ちょどその前の郵便局の隣だという。 確かに通りの右側に、殆ど判読できない南部家「脇本陣跡」案内板。 販売店主人いわく、近々案内板は全て見やすく書きなおす予定とのこと。念のため。 |
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すぐ先右側の立派な建物敷地に、 「中山道柏原宿」案内板と右側に「問屋役年寄吉村逸平」看板(写真右)。 ここは代表作「夜明け前」などの映画監督吉村吉三郎の実家で、 吉村家は代々庄屋役、問屋役と年寄役を務めていた。 案内板には、柏原宿の歴史の説明と当時の町並図が描かれている。 左隣建物の右端に「東の庄屋吉村武右衛門」看板(写真中)、 建物左端に「本陣年寄 南部辰右衛門」看板と新しい「皇女和宮宿泊 柏原本陣跡地」碑。 |
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続いて市場川にかかる市場橋(写真中)手前右側に、 常夜灯と並び汚れて判読し難い「柏原宿高札場跡」案内板(写真右)。 市場橋は、吉村公三郎監督の若い日の思い出「初恋の橋」で、同監督作品「地上」の舞台にもなった。 橋を渡り左側に、只今工事中の「艾屋 亀屋七兵衛左京」商店で、当時の面影が残っているという。 伊吹山の薬草を原料とした伊吹艾(もぐさ)は柏原宿の特産。 この店の6代目七兵衛は、江戸へ出て伊吹もぐさを売り込み、 全国展開をするため、広重が「木曾街道六十九次」の中で描いた亀屋の絵に真似て店の造りまで改造したという。 店を入った所に、日本一大きい福助人形が置かれているとのこと。 なお当時艾の商いをしていた店は、9軒あったが全て屋号に「亀屋」を冠していた。 |
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反対右側の美的屋根の歴史博物館(写真右)は、 大正6年建築旧松浦久一郎邸を改築したもので、平成12年に国の登録有形文化財に指定された。 隣接して「中山道柏原宿」碑(写真中)と日枝神社。 |
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左側に「造り酒屋亀屋左京分家松浦作佐衛門」建物(写真左)、その先に「従是明星山薬師道」道標(写真中)。 右側の「西の庄屋 山根甚助」跡」案内板がごみ捨場とは、ことのほか哀れに思う。 |
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信号交差点(写真中)を横断し右角広場に、 1623年(元和9)2代将軍秀忠建築の将軍家専用休憩・宿舎、「柏原御茶屋御殿跡」案内板(写真右)。 将軍家が上洛時に利用されていたが、徳川幕府の権力が強大になり上洛の回数が減少したため、 1689年(元禄2)に御殿は廃止された。 その先左側に、現存する「郷宿跡」加藤家。 郷宿とは脇本陣と旅旅籠の中間に位置し、武士や公用で旅する庄屋の休泊に利用されていた。 |
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中井川橋、丸山橋を渡り、町並みを過ぎ左側に柏原一里塚跡碑(写真左)。 きれいな松並木を進み、左側の「柏原宿西見付」案内板(写真中)で宿場は終わる。 松並木の外れで道は2つに分かれ、右手の道を進む。 |
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その先右側に「北畠具行卿墓」案内板(写真左)が立ち、右折して獣道を約5分進んだところにあるという。 北畠具行卿は鎌倉末期の後醍醐天皇の側近で、1331(元弘元)年倒幕計画に参画して挙兵したが、 幕府軍に捕らえられ鎌倉へ護送中、この地で京極佐々木道誉により処刑された。 全く車も人も通らない道を淡々と進み、柏原配水場を過ぎ、用水路のような奥手川を渡り、 長沢の集落(写真左中)に入る。 集落の外れの長沢集会所を過ぎると道は2つに分かれ、 分岐点の「左中山道、右旧中山道」道標(写真右中)に従い右手の道を進む。 |
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すぐ薄暗い林(写真左)の中に入り、天気良好なのに道はドロドロ(写真左中)、 何故か車が3台(写真右中)も投げ捨てられている。 臆病な私はこのじめじめした薄気味の悪い林の中を、泥に足を取られながら走って通り抜けてしまった。 出口で先ほど分かれた道と合流し、右折して進む。 |
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ゆるい坂を下り、右側に「中山道」碑(写真右)。 その先で道は2つに分かれ、右手の道(写真中)を進み梓川を渡り、 ここでも2つに分かれる右手の松並木道を梓川沿いに進む。 しばらく進み、突当りの3軒目のラブホテルで道なりに左折する。 |
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国道21号線と合流(写真左)し、 右折して進み左側歩道「左中山道」道標(写真中)の前方で分岐する、左手の道を進む。 |
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名神高速道擁壁沿いのゆるい坂(写真中)を上り、右側に八幡神社(写真右)。 さらに進み右側に、真新しい「一里塚の跡」碑。 |
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醒井宿:古代から交通の要衝であり、 古事記や日本書紀に登場し地名由来にもなっている「居醒の清泉」の豊富な湧水で有名な宿場。 現在も湧水は清らかな地蔵川の流れとなり、江戸時代の宿場の面影を偲ばせてくれる。 その景観は、とても美しくまるで夢を見ているよう。 宿場には当時の建物が、10軒ほど残されている。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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その先で道は下り坂(写真左)となり、下り切ったところで道なりに左折し、国道21号線沿いの坂を上る。 坂の頂上右側に、「佛心水」看板の井戸(写真中)。 佛心水とは、旅人の喉を癒し、佛の慈悲のもとで旅の安全を祈願する意味をもつもので、他に事例が見られない貴重なもの。 坂を下り右にカーブする枡形道(写真右)の左側に、「見附跡、枡形」案内板(写真右)。 ここは醒井宿の東の入口番所で、西の見附まで876m宿場通りが続く。 |
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枡形道を下り、「中山道醒井宿」碑(写真左)から左折し、宿場通りを進む。 | |||||||||||
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数分進み、左側に加茂神社鳥居(写真左)、 続いて隣接して平安時代前期作「尻冷し地蔵」ともよばれている延命地蔵尊(写真左中)。 加茂神社石垣下から湧出る清水は、地名の由来とにもなった「居醒の清泉」(写真右中)。 居醒の清泉:古事記と日本書紀にある物語。日本武尊が伊吹山の荒ぶる神を退治に行ったとき、 強烈な反撃にあい正気を失って下山したが、この泉の水を飲んで醒めたという。 それから「居醒の清泉」と呼ぶようになった。 居醒の清泉は、きれいに澄みそして素晴らしい景観を呈していた。 居醒の清泉は地蔵川の源泉となっていて、宿場通りの左側を夢のように流れて行く。 川岸に、「地蔵川ハリヨ生息地保護区」標柱。 ハリヨ:体長4~7cm魚で、岐阜県南西部と滋賀県東北部の水温20℃以下の湧水の清流にしか生息しない。絶滅種に近い。 |
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その先左側に、本陣跡(写真左)の料亭「樋口山」と復元された問屋場(写真中)の川口住宅。 右側に、大きな石灯籠の元旅籠多々美屋。 |
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さらに右側に、端正な醒井木彫美術館(写真右)。 その先で道は2つに分かれ、旧中山道は左手の地蔵川にかかる醒井大橋(写真中)を渡って進む。 橋の左手の地蔵川の中に、「十王」と刻まれた石灯籠。 十王水:平安中期浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き、仏縁を結ばれたと伝えられている。 そして近くに十王堂があったことから、「十王水」と呼ばれるようになったという。 |
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橋を渡り左側に、「西行水」案内板(写真右)。 左側の小さな広場(写真右中)の奥正面に、西行水(写真左中)と呼ばれるわき水、そして左奥に水琴窟。 西行水:ここの茶店に立ち寄った西行法師が飲み残した茶の泡を、茶店の娘が飲んだところ、 不思議にも懐妊し男子を出産した。 帰路にこの話を聞いた西行は、子を熟視して「もし我が子なら元の泡へ帰れ」と祈り、 「水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」 と詠むと、その子はたちまち消えてもとの泡になった、という伝説がある湧き水。 水琴窟:水を流すと水滴の音が瓶の中で共鳴し琴の音のように聞こえる。江戸時代の庭師が考案したといわれている。 |
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さらに進み道なりに右にカーブし、丁字路の右角に「中山道醒井宿」道標(写真左)でこの辺りまでが宿場通り。 先に進み、車道(写真中)を横断し進む。 レーク伊吹農業協同組合前の右側、ガードレールのところに「六軒茶屋」案内板。 1724年(享保9)醒井宿が大和郡山藩の飛地領となったとき、 藩主柳沢候が彦根藩枝折との境界を明示するため中山道北側に同じ形の茶屋を6軒建てた。 この「6軒茶屋」は中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。 現在は、案内板脇に茅葺の家が1軒あるのみ。 |
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その先で国道21号線と合流(写真左)して左折し、 前方右手のこんもりとした木(写真中)の下に小さな祠と「一類狐魂等衆」石碑。 江戸時代、誰も相手にしなかった「母親の乳が飲みたい…」と東の見付石に持たれてつぶやいていた老人に、 乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と自分の乳房をふくませてやった。 老人は2,3口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「ありがとうございました。本当の母親に会えたような気がします」 と言って懐の70両を手渡して、その母親に抱かれて眠る子のように往生をとげた。 母親はお金をいただくことはできないと、老人が埋葬された墓地の近くに「一類狐魂等衆」碑を建て供養したという。 |
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すぐ丹生川にかかる丹生橋を渡り、 約2分ほど先の木製「中山道」標識のある分かれ道で右手の道(写真左)を進む。 河南地区を5分ほど進み左側に、一見平屋に見える2階建建物「茶屋道館」(写真中)。 茶屋道館:裏側に土蔵が2棟もある資産家の旧家で、長らく空家になっていたものを自治会が買い取り、 当地の地名「茶屋道」と名付け、歴史的資料を集めまた中山道を旅する人の憩所として活用しているもの。 花壇のある通りを7分ほど進み、 21号線の樋口信号交差点に斜め合流し、21号線を横断して進む。 この頃14時過ぎ、ずーっとまっ正面からの西陽に悩まされ通しで写真もまたその犠牲者。 |
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閑静な住宅街のゆるい坂(写真左)を下り、右側に長い塀の続く敬永寺(写真中)。 その先2分ほどで県道240号線に合流し、左折して進む。 |
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前方の北陸自動車道高架下(写真左)の右側を潜り抜け、 240号線と分かれ、すぐ右折、左折、右折してゆるい坂道(写真中)を上る。 潜った先の小さな公園に、まだ新しい久禮の一里塚跡碑。 |
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番場宿:飛鳥時代から東山道の交通の要衝で、鎌倉時代には既に宿の機能を果たしていた。 江戸時代慶長年間に北村源十郎が米原に湊を築くと、中山道と湊を結ぶ深坂道が切り開かれて、 中山道から琵琶湖水運に乗り換えて京へ結ぶ近道への分岐点として宿場は繁栄した。 番場の古称は馬場といい、いつの間にか訛ったもの。 有名な「番場の忠太郎」は、劇作家・長谷川伸の「瞼の母」の登場人物で、実在の人物ではない 。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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道なりに樹齢百数十年しだれ桜並木の坂(写真左)を5分ほど上り、 集落入口左側に手作りらしい「ここは中仙道番場の宿」標識(写真中)。 全く人気のないけだるい昼下がりの宿場通り。 |
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右側に「問屋場跡」碑(写真左)、 道は平坦になり、右側に「中山道番場宿よ!!」標識(写真中)は絶対に美人が書いたもの! 心なごみます。 続いて右側のブロック塀前に「問屋場跡」碑。 |
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その先で県道240号線(写真左)を横断して進む。 横断する手前右角に、立派な「中山道番場宿」碑(写真中)。 横断して右角に、「米原 汽車汽船道」道標。 1600年前後(慶長年間)にかけて米原宿に湊が築かれ、中山道と湊を結ぶ道が造られた。 道標は明治22年鉄道開設以後に建てられたもの。 |
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横断した右角の家の前に、高尾家「脇本陣跡」碑並んで「問屋跡」碑(写真中)。 米原湊経由の北国街道への輸送中継地としての番場宿には、6軒もの多くの問屋があった。 続いて右側に、北村家「本陣跡」碑(写真右)。 道は再びゆるい上り坂となり左側に、 聖徳太子の創建で、鎌刃城主土肥三郎により再建され時宗の本山として栄えた蓮華寺石柱。 この地は南北朝時代の古戦場であったところ。 1333年(元弘3)足利尊氏に敗れ京都を追われた六波羅探題北条仲時が鎌倉に向かう途中、 この地で南朝方京極道誉や五辻宮守良親王軍に囲まれ、蓮華寺一向堂前で仲時以下432名が自刃した。 北条仲時以下 432人の陸波羅南北過去帳と同寺の銅鐸は、国の重要文化財に指定されている。 また本堂裏には、長谷川伸作「瞼の母」の主人公番場の忠太郎地蔵尊が建立されている。 |
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さらに5分ほど上り、橋のところに「鎌刃城址ここより3km」立看板(写真左)。 鎌刃城:創建不詳であるが、1472年(文明4)には既に存在し、京極氏と浅井氏の国境を守る山城として築かれた。 その後変遷を経て1574年(天正2)城主堀が信長により粛清され、城も廃された。 その先右側民家の前に、中央に丸い穴のある「まぼろしの礎石」(写真中)が展示されている。 そばを流れる菜種川の河川敷で奇跡的(?)に発見されたもので、 石の真ん中に柱尻を固定する穴がありかなり大きな建物の礎石ではないかという。 さらに5分ほど進み、名神高速道路法面に突当り右にカーブする。 |
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道幅は極端に狭くなり、高速道路沿いの坂道(写真左)を延々約15分上り、 米原市と彦根市の境界の峠頂上に到着。 左手に高速道の車(写真中)を見て、人家とは無縁の坂道を右、左、右、左とカーブし下る。 |
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最後に右にカーブしたところの丁字路(写真左)で、 ポツンと立つ「摺針峠 彦根」道標(写真左)に従い右折して進む。 ここで左折すると、一本道で山奥に迷いこんで大ごとになり結局はこの丁字路まで戻ってこないとダメ。(経験者) ようやく人家が見えてくる道(写真中)を、そして坂道を上り摺針峠の頂上に辿りつく。 頂上写真のは、西陽の逆光が極端に強く私の腕前では真っ黒写真で掲載不可。 頂上で今日は終わり。 頂上からタクシーでJR米原駅へ、そこからJR長浜駅に行き長浜太閤温泉に宿泊。 |
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