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この区間は、美江寺宿に引き続き2008.9.7歩いた。 この日はまさに快晴、気分もよければ撮った写真も実力以上の見栄えが期待できる。 ただ旅の命、デジカメが故障し、さらに予備デジカメは電池切れと散々な一日であった。 東海道歩きの箱根の山奥で、デジカメの電池切れで大変苦労した経験から、 デジカメは予備を、リチウム電池は計7コをもつことにしていたが、ここでそれが役に立ち本当に助かった。 ただデジカメが故障するなんて、日常の場でも用心しなくては。 |
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経路 (小簾紅園)一般道→土手道→一般道→県道230号線→一般道→230号線→一般道→赤坂大橋(県道417号線) ↓ (JR関ヶ原駅)一般道(垂井宿)一般道←県道228号線←県道216号線(赤坂宿)県道216号線 |
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大垣駅前ビジネスホテルからタクシーで、8:07到着。 時は金なりとは言え、毎回長距離タクシー利用の今回の旅はやはり痛い。 左側小簾紅園前(写真左)を通り、入口に「呂久の渡し 呂久渡船場跡」案内板と「和宮御遺跡」碑。 呂久の渡し:中山道の赤坂宿と美江寺宿の間を流れる呂久川(揖斐川の部分的呼称)にかかる渡し場で、 1580年(天正8)、織田信長の子信忠によって設けられた。 これが江戸時代の中山道となり、この呂久の渡しもそれ以来交通の要衝となった。 その後大正年代に、たびたび氾濫を起こす呂久川を廃川、新たに東側に開削した現揖斐川に付け替えた。 これにより、呂久川の渡し場は消滅した。 和宮御遺跡と小簾紅園:1861年(文久元)皇女和宮が降嫁でこの呂久川を渡り、東岸の馬淵孫右衛門の庭の美しい紅葉をみて詠んだ歌。 「落ちてゆく 身と知りながらもみじばの 人なつかしくこがれこそすれ」 昭和4年和宮の遺徳をしのび、この呂久の渡し地馬淵家の庭に歌碑を中心とした小簾紅園が建設された。 |
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空は青空、空気も清々しく、こういう日は旅人にとって幸せ以外のなにものでもない。 それに下手な写真も、きれいにとれるような気がして不思議。 足は軽く数分進み、平野井川(写真左)にかかる「大垣市」境界標識の立つ新橋(写真左中)を渡る。 この橋から瑞穂市から大垣市に入り、右折し土手沿いにゆるい坂(写真右)を登る。 坂の途中土手法面に、継ぎ足された「左木曽路」「右すのまた宿」道標。 |
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坂を上り切り、分かれ道(写真左)は右手の道を進む。 次々の分かれ道(写真左中)は右手の土手道を進み、 3つ目のカーブミラーと中山道標識の立つ分かれ道(写真右)で、標識に従い左手の坂を下る。 右手の道を進んでも、その先で合流する。 |
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平坦な道(写真左)を少し進み、その先の右手の坂(写真中)を上る。 しばらく進み、右手の細い坂を上る。 坂の上り口に駐車で邪魔しているが、周囲には人の気配なし。近所の人が駐車場がわり? |
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すぐ下り、先ほど土手で別れた道と合流(写真左)して、トンネルを潜る。 ゆるい長い坂(写真左中)を上り、分離帯の切れたところの丁字路(写真右中)を左折する。 分離帯はずれに、「中仙道3回り半」碑。 この辺りの道は現在は整備されているが、当時はくねくね3度も回り西へ進んだ名残り。 |
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単調な道を進み、右にカーブ(写真中)する左側に、素盛鳴社(写真左)。 道なりに左折して進む道は田園風景で、ここにも中山道標識。 |
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住宅街を進み、小さな排水路(写真左中)にかかる橋の名は東の橋(写真右中)。 三津屋町3信号を進み、左側に秋葉神社(写真左)。 その先右側に、長徳寺。 |
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道なりに住宅街を直進し、右にカーブ(写真左中)する左側民家の前に「中仙道七回り半」碑(写真左)。 当時のこの辺りの中山道は、くねくね何度も曲がりくねっていたということ。 実は、このころからデジカメの調子がおかしくレンズが動きがスムーズでなかった。 そしてこのようなピンボケ写真という結果になっていました。 しばらく、見難い写真でご勘弁を! 続いて左にカーブ(写真右中)し、田畑の道を進み、 広い車道を横断し、右側のネズミ色コーポスプリングC棟建物角で丁字路となる。 |
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丁字路を右折(写真左)し、突当りで県道230号線と合流(写真左)して左折し、県道230号線(写真右中)を進む。 数分進み、230号線が右にカーブするところは中山道標識に従い、直進し細い道を進む。 |
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用水路沿い(写真左)に数分進み、「この先行き止まり」標識(写真左中)。 はたと困りたまたま近くで畑作業をしていた地元の人に尋ねたら、旧中山道は、 標識のある用水路橋を渡り、直進(写真右中)し、突当りで再度230号線に出て左折する、 とのこと。 |
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大通りを進み、近鉄養老線踏切(写真左)を横断し、菅野川にかかる菅野橋(写真左中)を渡る。 その先で道は2つに分かれ(写真右中)、分岐点にある中山道標識に従い、230号線と分かれ左手を進む。 |
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この時点でデジカメのレンズが全く作動しなくなり、予備のデジカメに切り替えた。 旅のたしなみの1つとして常に予備デジカメを持っているが、故障で役にたったのは初めて。 電池は、リチウムイオン充電池を計7個持って行くことにしている。 デジカメラを替えて撮った写真は、あっというような目の覚めるようは光景。 道なり(写真左)に進み、住宅街(写真左)を進み、幅広い排水路にかかる橋を渡る。 |
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左側に白山神社(写真左)、道(写真右)なりに数分進み左側民家の前に一里塚跡碑。 | |||||||||||
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その先の和田大理石工業角の変則交差点(写真左中)は、直進し中山道標識(写真左)の立つ道を進む。 花に飾られた道(写真右)の左側に、多賀神社。 |
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赤坂宿:旧杭瀬川上流の標高900m池田山の豊富な水量を利用して、 江戸時代に赤坂港がもうけられ物資輸送が盛んに行われて明治時代まで続いた。 赤坂港が盛んになると旅人の利便性を考え赤坂宿が作られたが、その結果次の青墓宿が寂れてしまった。 また赤坂宿は、「西国三十三ヵ所巡り」の三十三番札所の満願霊場谷汲山華厳寺巡礼で賑わった。 本陣1、脇本陣1。 |
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数分で、杭瀬川(写真左)にかかる赤坂大橋(写真左中)を渡る。 橋の右手前袂に、「中山道赤坂宿」「赤坂宿本陣跡」「お茶屋屋敷跡」看板(写真右中)が並ぶ。 橋を渡り県道216号線の宿場通りを進む。 |
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200mほど進み、高い火の見櫓(写真中)のところで用水路のような元杭瀬川(写真右)にかかる橋を渡る。 橋の手前左側角の民家の前に、「赤坂宿御使者場跡」碑。 赤坂宿御使者場:他の宿の番所、木戸などに当たる施設。 大名は公家など偉い人物が通るろき、宿役人や名主たちが見送りや出迎えにきていた。 宿場の西口にもある。 |
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橋を渡り、右側常夜灯(写真左中)脇に「赤坂港跡」碑(写真右中)。 赤坂港:平安時代から杭瀬川の船便は利用され、地域の流通市場の中心になっていた。 明治末期の頃までは、この川を一日数百艘の船が上下していたと言う。 その先右側に、浅間神社(写真左)。 のどかで、どこか昔の名残りを感じさせる通りを進み、西濃鉄道踏切を横断する。 |
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左側公園入口に、 敷地820坪建物239坪の豪勢な本陣跡碑(写真左)と、後方に1861年(文久元)にここに宿泊した和宮之碑(写真左)。 その先の町の中心4ツ辻(写真中)を直進する。 4ツ辻は、北へ向かう谷汲巡礼街道と南は伊勢へ通じる養老街道の起点となっている。 辻の右角に、赤坂宿案内板と常夜灯を兼ねた「たにくみ」道標。 |
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さらに左側榎屋旅館前に、宝暦年間以後飯沼家が代々務め現在は榎屋旅館を営んでいる脇本陣跡碑(写真左)。 2軒隣に、「五七」看板店(写真中)。 赤坂宿は江戸から57番目の宿からのちなんだ名前で、「中山道赤坂宿五七実行委員会」なるものがあり、果たして何の活動をするものやら。 ゆるい坂を上り、青空の下を進む。 |
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右側に、子安神社看板(写真右中)と右脇に幕末勤王志士・長州藩遊撃隊参謀の所郁太郎生誕地碑(写真右)。 ゆるい坂(写真中)を上り切る手前左側に、兜塚墳丘(写真左中)と階段上り口に赤坂御使者場跡碑。 兜塚:関ヶ原決戦前日(1600.9.14)杭瀬川の戦いで笠木村で戦士した、東軍中村隊の武将野一色田頼母を葬り、 その鎧兜を埋めたと伝えられる墳丘。 |
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その先で、廃線となった西濃鉄道貨物線(写真左)を横断し、赤坂西公園前を通り、しばらく平坦な県道を進み、 電柱に珍しい地名「昼飯町」地名表示(写真中)。 閑静な高級住宅街のゆるい坂を下り、坂の途中右側に如来寺と「昼飯町の由来」案内板。 昼飯町由来:昔善光寺如来という仏像が大阪の海から拾いあげられた。 これを長野の善光寺へ運ぶ途中この辺りで昼飯をとったことから、昼飯と呼ばれるようになった。 その後「ひるめし」は下品ということで、一字略して現在の「ひるい」と読んだ。 |
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さらに坂を下り、その先昼飯町信号でJR東海道本線ガード(写真左)を潜って進み、 左側に、「大墓」が訛ったといわれる青墓町(大垣市)の「史跡の里青墓町」碑。 |
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いつものことであるが、地方は殆ど人も車も通らない道が多い。当然時間帯にもよるのだろうと思が、寂しい限り。 ひっそりと静まり返った県道(写真左)を進み、 右側に「史跡の里青墓町」碑が立ち、「青墓のよしたけあん」、「小篠竹の塚」遺跡。 青墓のよしたけあん:牛若丸が奥州に落ち延びる時、ここ円満寺で休憩した。 そのとき杖にしてきた葦の杖を地面に突きさし「さしおくも形見となれや後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」 と詠み源氏の再興を願って東国へ出発した。 この杖から竹の葉が茂ったが、根や幹はもとのままの葦であった。 この竹を「よし竹」と呼び、寺を「よしたけあん」と呼んだ。 ただ今は寺はない。 小篠竹の塚:照手姫の墓といわれる墓があるが、詳細不明。 「一夜見し 人の中家にたちかえる 心に残る 青墓の里」 慈円(愚管抄作者) |
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続いて大谷川にかかる橋(写真中)を渡る。 橋の手前右側に、東山道当時宿場であった名残りの「中山道 青墓宿」碑(写真右)。 橋を渡りすぐ先で、もう1つの県道216号線を斜めに横断し、県道228号線を進む。 |
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横断した右側に、これまで全くお目にかかれなかったコンビニ(写真左)があり、必要食糧をここで調達。 田畑の中の228号線を300mほど進み、左折する228号線と分かれて直進し住宅街の道(写真左中)を進む。 丁字路右角(写真右中)に、常夜灯を兼ねた「国分寺道」道標。 |
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その先右側巨大常夜灯前に、一里塚跡碑(写真左中)。 駒引信号で大垣市青野町から不破郡垂井町に入り、しばらく進み追分東信号(写真左)を直進する。 続いて「垂井1km」標識のある追分信号交差点(写真右中)を横断して進み、 右側に境内に何故か砲弾が奉納されている喜久一丸稲荷神社。 |
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道なりに進み左にカーブし、突当りで丁字路(写真中)に出る。 丁字路は、左手の美濃路と中山道の追分。 丁字路左角に、中山道で260道標のうち7番目に古い1709年(宝永6)建立の 「是より右東海道大垣みち 左木曾街道たにぐみみち」道標(写真左)。 丁字路を右折し、梅谷川にかかる追分橋(写真中)を渡り、すぐ先の相川橋袂信号交差点から左折する。 |
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垂井宿:江戸から約440km、58番目の宿場。 古くから京から東国への主要道路で、 国府が置れ一の宮(南宮大社)の門前町として美濃地方の中心地であった。 江戸時代には、美濃路と中山道の追分ということでますます栄え、 物資の流通が増えたことから、大八車が5街道で初めて使用許可された。 垂井宿の往来は、参勤交代の大名、日光例幣使、お茶壺、善光寺参り巡礼、朝鮮通信使、琉球使節などの行列、 それに駱駝、象の通行など、他の宿に見られない特徴的なものであった。 本陣1、脇本陣1. |
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泥のような流れの相川(写真右)にかかる相川橋(写真中)を、渡る。 橋を渡り終える左側の欄干に、「相川の人足渡跡」案内板。 「相川は昔から暴れ川で時々氾濫を起こしていたので、橋をかけることが難しく人足渡しであった。」 その先に、「東の見付」跡案内版と「中山道垂井宿観光マップ」案内板。 東の見付は宿場の東入口で、西の見付までの766mの宿が広がる。 |
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橋を渡り、交差点を直進し、道なりに右にカーブ(写真左)して宿場通りを進む。 S字型通り(写真中)に右から張り出している建物は、旅籠亀丸屋。 旅籠亀丸屋:1777年(安永6)の建築で、旅籠として当時の姿を残して今も営業を続けている。 当時は浪花講、文明講の指定旅籠であった。 2階に鉄砲窓が残る珍しい造りで、。廊下の鴬張りも残されているという。 |
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通りの左側に、代々「彌一右衛門」を名乗る金岩家問屋場跡案内板(写真左)。 続いて左側の和洋菓子栄松堂(写真右)角に、酒造業も営んでいた栗田家本陣跡碑。 |
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その先信号交差点(写真中)を直進する。 交差点左手は、両側に石灯籠の立つ国の重要文化財に指定の南宮大社大鳥居(写真左)。 大鳥居:1642年(寛永19)三代将軍徳川家光の寄進により南宮大社を再建されたとき、約400両で石屋権兵衛が建てたもの。 鳥居の西側辺りに、脇本陣があったと言われれが不明。 数分先の右側に、当時の名残りがある旧旅籠長浜屋。 |
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さらに宿場通りを進み左側に、 1817年頃(文化末年)建築の油商売を営んでいた油屋卯吉の家(写真左)で、 土蔵造りに格子を入れ、軒下には濡れむしろを掛ける釘をつけるなど、宿場時代の代表的商家の面影を残す建物。 道を挟んで右側に、明治時代に脇本陣の門と玄関を移築され現在も使われている本龍寺。 |
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大ピンチ!実はここで予備デジカメのリチウムイオン充電池3個が、全て電池切れ。 JR垂井駅から横浜に戻るか、このまま次の関ヶ原駅まで行くか迷いに迷った。 電池を10分ほど休めると1,2枚写真を撮れることを過去の経験から知っていたので、それにかけることにした。 結局は、関ヶ原駅まで28枚の写真を撮ることができ、どうにか目的を達した。 今日はデジカメは故障するし、予備デジカメの電池は切れるしで、全くひどい旅となってしまった。 |
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無駄な写真は絶対撮ってはいけないと、節約せつやく。 一直線の道(写真左)を600mほど進み、2つに分かれるところで左手の東海道本線踏切(写真中)を横断し、 続いて国道21号線を斜めに横断して進む。 |
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まっすぐな道を進み、坂を上る手前(写真右)左側に、 江戸末期岩手の美濃獅子門の化月坊が、関ヶ原山中に建てた秋風庵を明治になって移築した日守の茶所(写真左)、 続いて左側に、江戸から112番目のほぼ完全な形で残っている国指定文化財の垂井一里塚。 中山道には国指定の一里塚が2つあり、この垂井一里塚と東京都板橋区にある志村一里塚。 |
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坂を上り、下って道なりに進み、日守西信号交差点(写真右)で国道21号線を横断して左折し、 21号線と並行する道(写真中)を進む。 数分進み左側に、「これより中山道 関ヶ原宿野上」碑が立ち、不破郡垂井町から不破郡関ヶ原町に入る。 |
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道なりに右にカーブしてJR東海道本線に接近し、左にカーブして21号線架構横断し、 閑静な住宅街の道(写真左)を進む。 集落の外れで下り坂となり、前面緑の野原と松並木(写真中)入口右側に山内一豊陣跡案内板。 いかにも関ヶ原の戦いを想像させるシーン。 |
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しばらく松並木の道を堪能し、 きれいなブロックが敷き詰められた道(写真中)の左側公園に、六部地蔵(写真左)。 六部地蔵:六部とは「六十六部」の略で、全国社寺を巡礼して旅をしながら修業している「人」をいう。 1761年(宝暦11)厨子を背負って読経して行脚中の行者が、この地で亡くなったので里人が祠を建て祀ったという。 この六部地蔵は、歯痛の病気を治すことで信仰を集めている。 JR東海道本線土手沿いの坂を上る。 |
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坂を上りきったところで丁字路になり、左手は21号線、 中山道は細い道(写真左)を直進する。 100mほど先で21号線に出て、一ツ軒信号交差点(写真中)を横断して右折し、 JR東海道本線ガード手前を左折する |
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なんとなく旧道の雰囲気のする道(写真左、中)を土手沿いに7分ほど進み、21号線と合流して右折する。 | |||||||||||
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西陽を正面に受けて21号線(写真左)を淡々と進み、関ヶ原東町信号交差点過ぎ右側に若宮八幡神社。 | |||||||||||
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東公門信号を過ぎ、関ヶ原駅前信号交差点(写真左)。 時は:14:58分。 右手に、JR関ヶ原駅。 もう電池のダマシもきかなくなっているはず、今日はここまでとし終了。 15:18JR関ヶ原から大垣乗換の東海道本線で名古屋へ、JR東海道新幹線で新横浜駅へ。 |
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