文字や画像が小さくて見難いときは、メニューバー「表示」をクリックし、
「拡大:125%」「文字のサイズ:中」に設定されることをお勧めします。

              歩く 中山道
加納宿→河渡宿→美江寺宿
      (岐阜県岐阜市)            (岐阜県瑞穂市) 
 iー愛ロマンチカ
この区間は、鵜沼宿に引続いて2008.9.6に歩いた。
河渡宿の長良川との洪水との闘い、そして1815年の未曾有の大洪水で宿場が消滅の危機に立たされたとき、
時の代官松下内匠が宿場を5尺も土盛りしてその上に家を改築し、救ったという。
呂久川(揖斐川の部分的呼称)は川幅狭く湾曲も激しく堤防もなかったため、洪水により広大な区域に氾濫し、大きな被害を与えていた。
国は、呂久川を廃川とし、直線化した新川(現揖斐川)1500mの掘削と築堤を計画して、大正12年から10年かけて大事業を完成させた。
また街道を歩くと、昔の資産家が地域のため全財産を投げうって治水事業を成し遂げたという、記念碑などがよく残っている。
以上の事例を鑑みるにつけ、今は公人、私人とも金、かねと己のためだけの金儲けばかりをしているように思えてしょうがない。

以上独断と偏見です。
経路
茶所駅)一般道(加納宿)一般道→土手道→河渡橋→土手道→一般道(河渡宿)一般道→県道92号線(美江寺宿
                                                                  ↓
              (
小廉紅園)一般道←土手道←鷲田橋(156号線)←土手道←一般道←156号線一般道
       
加納宿1601年(慶長6)徳川家康の命で岐阜城が廃城となり、代わりに加納城が築城され、
宿場は中山道でも数少ない城下町としての役割も兼ね発展をした。
また城下町ということで、宿の東入口には6つもの枡形道が設けられていた。
宿場は、中山道では本庄、高宮、熊谷、高崎に次ぐ大きな規模。
本陣1、脇本陣1、幕末には当分本陣(臨時本陣)2が設置された。
9:32 名鉄線茶所駅に到着。
旅人にとっては時は金なりで、長良川温泉からタクシーで駆けつけたが、懐も痛い。
名鉄線踏切(写真左)すぐ脇に、茶所駅(写真中)
その駅前に、
中山道加納宿碑
西へ進み、すぐの丁字路を左に入った茶所薬局(写真中)の隣家に、「ぶたれ坊と茶所」由来案内板と、
「鏡岩濱之助」と刻まれた台座の上に、「
と刻まれた円形石碑(写真左)
台座の左脇に、「
東海道いせ路」「江戸木曽路」「京都大阪西国道道標(写真左)
道標には、「鏡岩濱之助内建立」と刻まれているが、奥さんが建立したということ?
ぶたれ坊と茶所:江戸時代の相撲力士二代目鏡岩浜之介は、土俵の外での素行が悪かったことを改心して寺院を建て、
ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて、罪滅ぼしをした。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったという。
ここにあった妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜市南口に近い加納伏見町の「妙泉寺」に移されている。
さらに進みだんごや店の丁字路を、右折する。
すぐ新荒田川(写真左)にかかる加納大橋(写真中)を渡り、
立花屋薬局前の右角に道標のある
丁字路を左折する。
明治18年建立「右 谷汲 、岐阜」「左 西京道標(写真左)の左側を進み、右側に秋葉神社(写真左中)
合併する前は、岐阜と加納は別の行政であった。
江戸時代は宿の町単位に秋葉神社があり、この先の中山道にも多くの秋葉神社がある。
さらに進み、信号交差点で県道を横断し、その先の
大通り手前(写真右中)で左折して加納宿の通りへ進む。
左折する右角に、通行手形など見せて宿に
入る加納宿東番所跡碑
突当りの善徳寺(写真左)で右折し、宿場通り(写真右)を進み、左側に加納宿碑
その先で、先ほどの大通り(写真中)を横断して、進む。
横断した右三角地に、加納宿碑と奥に火防の神様として信仰を集めている
柳町秋葉三尺坊(写真右)
さらに左側に織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制令状など戦国期文書が多数残っている
専福寺
宿場通り(写真左)を さらに進み、右側に秋葉神社(写真中)
その先右側に、片桐家外壁に
問屋跡案内板
すぐ先の交差点(写真右)を左折し、右角の太田薬局前に「左中山道」「右ぎふ道道標(写真右中)
この交差点は、中仙道と岐阜道の分岐点で交通の要衝であったところ。
右折するとすぐ、名鉄線踏切。
その先すぐの清水川にかかる
ひろい橋(写真左中)の左側袂に、高札場跡案内板
さらに進み、広い県道の手前の「古本買入」看板のある交差点(写真中)を右折し、進む(写真右)
なお交差点前方の歩道橋の階段脇に、
加納城大手門跡碑。ここを直進すると加納城跡へ行く。
すぐ左側に、戦後進駐軍(米占領軍)に接収されていた歴史をもつ旧加納町役場建物(写真左)
黒ずんでいるのは、空襲を避けるため黒く色を塗ったあと。
次の交差点を横断した左側に、
1620年
(元和6)旅籠として創業し左甚五郎が宿賃がわりに彫った欄間のある鰻料理二文字屋(写真左中)
二文字屋:甚五郎が欄間に彫った「月夜に川原で餅をつくウサギ」は、この店の商標となっている。
火事の時、欄間の川原から水が吹き出し、一瞬のうちに火を消したと伝えられる。

さらに右側に、
当分本陣跡碑(写真右)
当分本陣:皇女和宮の降嫁翌年、幕府が参勤交代の制度を大幅に緩和したことで、
江戸に人質として留め置かれた大名の妻子が帰藩した。
このため各宿場の本陣が対応しきれなく、期間限定で当分の間宿場の有力者宅を臨時の本陣と定めた。これが「当分」本陣。

その先で、信号のない
国道157号線を横断し、直進する
すぐ右側に、本陣跡碑(写真左中)
続いて交差点右角の立派な門扉の前に、
脇本陣跡碑(写真右中)
交差点(写真左)を横断する。
交差点から右手に、加納城の前身沓井城の守護神であった
加納天満宮石柱と奥に鳥居。
数分進み、広い加納栄町通り(写真左)を横断して進む。右手突当りに、JR岐阜駅(写真中)
ただし横断歩道がないので、遠回りして横断して対面に戻ってくる。
人も車も通らない、
加納本町の通りを進む。
その先右側に、秋葉神社(写真中)
さらに右側に、
中部圏で最も高い163m住宅複合ビル「岐阜シティ・タワー43」をバックに、また
秋葉神社(写真右)
大通りの交差点を横断し、加納本町8丁目の道を進む。。
交差点手前の左角神社境内(写真右)に、
左に
加納宿西番所跡碑(写真左)、奥に愛宕神社(写真右中)、右に秋葉神社
西番所は、加納宿の西の入口。
その先で、加納本町9信号交差点(写真右)を横断して進む。
本庄郵便局を過ぎ、
中華料理「ほりい」交差点角の
茶褐色外壁建物(写真中)左側に隣接した民家前に、一里塚跡碑
交差点を直進し、その先東海道本線高架手前で右手からの道と合流し高架沿い(写真左)に進む。
左側「ヒガタ」酒店前の
清本2信号交差点(写真中)で右折し、高架下を潜り道なりに左にカーブして進む。
清本10信号6差路(写真左)で、横断し「RAY」看板の高いビルの右側を進む。
本庄小学校前信号交差点(写真中)、本庄町信号交差点を直進し、
その先突当で道なりに
左にカーブして進む。
鹿島町8西信号交差点(写真左)を横断する。
右角の
天満神社(写真左中)前を通り、続いて県道77号線の鏡島大橋南信号交差点(写真右中)を横断する。
交差点右手は、長良川にかかる
鏡島大橋
鏡島精華地内を道なりに進み、鏡島前川前信号(写真左)を横断して論田川沿い(写真左中)に進む。
突当りの岐阜道追分の
丁字路(写真右中)を、左折。右手から合流するのが岐阜道。
丁字路の右角に、
論田川改修記念碑
右側のおいわけ屋薬局(写真左)前を通り、
十字路右角に東寺(京都)、川崎大師(川崎大師)と並ぶ日本三大厄除けの一つ
乙津寺石柱(写真左中)
さらに右側に
神明社(写真右中)、続いて右側に北野神社
誰もいない(写真左)を進み、堤防近くで道は2つに分かれる(写真左中)
旧中山道は直進し河渡の渡し場へつながっていたが、現在は途中で切れているので右手の道を進む。
すぐ左側に、
地蔵堂(写真右中)
以降長良川にかかる河渡橋の袂まで、
土手の法面などをやみくもに上がりたどり着く。
河渡橋の袂の河渡東信号交差点(写真中)にたどり着き、右手下方に途中で途切れている先ほどの中山道(写真右)
河渡橋から左手下方は、当時の渡し場があったと思われるあたりで、現在は何も残っていない。
河渡の渡し場は終戦まであったが、橋ができて廃止になった。
橋の中間あたりに、「これより岐阜北署管内標識(写真左)
縄張り争いというより、業務分担をはっきりさせ市民のお役にたちたいという積極的は気持ちの表れとみました。
橋を渡り、左側の
階段口(写真中)から下り、Uターンして土手へ向かい、右折する。
土手沿い道を進み、その先で右手の細い道(写真中)を進む。
左手の土手上の小さな
(写真左)のあることろで、右の坂道を下る。
坂の下(写真左)の右側に、地元で「馬頭観音さん」呼ばれている愛染堂(写真中)
境内右手に
愛染堂碑、そして左手に地蔵堂。
愛染堂:1842年(天保13)荷駄役人足が銭100文ずつ出し合い、
道中家内安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を祀るため六間四面のお堂を建立したもの。
老朽化で最近建て直された。
愛染堂境内敷地角(写真右)を左折し、手造り中山道標識に従い土手の方へ進み(写真中)
突当りを道なりに右折し、土手沿いの坂を上る。
上がりきったところの
変則五差路を右折する。
  
河渡宿:長良川の河渡りの渡しの宿場。
長良川の洪水と戦いで、1815年の未曾有の大洪水では宿場全体を土盛りで嵩上げして救った。
中山道で4番目に短い町並みは、戦災で全滅し当時のものは残っていない。
本陣1、脇本陣なし。
戦争で空襲にあい、宿場は全てが焼失してしまい現在は新しい町並み(写真左)となっている。
一直線の宿場通りを進み、
右側の民家に挟まれた一角に
河渡宿碑兼用「一里塚跡(写真中)と奥に松下神社(写真中)
ここは一里塚があった場所。
松下神社:河渡宿は東に長良川、西南に糸貫川、北に根尾川に囲まれた低地で水害を受けていた。
1815年(文化12)の未曾有の大洪水で宿場が絶える危機にさらされたとき、
時の代官松下内匠が宿場中を5尺あまり土盛りしその上に家を改築して救った。
村人はこの功績に松下神社を建立し感謝した。

淡々と進み、
河渡2信号交差点を横断する。
天王川にかかる慶応橋(写真左)を渡る。
橋の手前右側に
河渡宿碑(写真中)が立ち、この辺りまでが宿場であったのだろう。
このとき14時で気温も上昇中、空も青く喉の乾きを癒す自動販売機はどこにも見当たらない。
以前はビール缶を肌身離さず持っての街道歩きで、喉の渇きなどとは無縁であったが、
最近は人間が出来てきてそんなことは夢のまた夢。

天王橋で岐阜市から瑞穂に入り、生津信号交差点を横断し、道なりに
右にカーブし進む。
生津小学校前信号交差点を横断し、突当りの分かれ道(写真右中)は左手の県道92号線を進む。
分れ道の三角地帯に、小さな
地蔵堂(写真右)
その先で糸貫川にかかる
糸貫橋(写真左中)を渡り、左側に1809年(文化6)建立延命地蔵堂
気だるく感じる昼下がりの道を進み、左側に「中山道町並標識(写真左)立派な板塀(写真左中)
道を挟んで右側に門扉がしっかり閉ざされた
秋葉神社(写真左)
さらにその先右側本田バス停に、1670年(寛文10)から1770年(明和7)まで置かれた
本田代官所跡案内板
小さな橋(写真左)を渡った右側に、高札場跡案内板(写真中)
その先で
本田松原信号交差点を横断する。
日焼けが気になる年頃なのに西陽を顔面にまともに受けて、単調な道を黙々と進む。
中山道も、東海道も西へ向かう街道は、いつも西陽の日焼けが気になるし、また写真も逆光で苦しめる。
今思うと、東へ向かう奥州街道は西陽をほとんど気にすることがなくて、快適な旅であった。
五六川(写真右)にかかる五六橋(写真右中)を渡る。
五六川:美江寺宿の入り口にある川で江戸日本橋から数えて美江寺宿は56番目の宿であるためにこの川を「五六川」と名づけられた。
橋を渡り、
左側に「
富有柿と花の町 瑞穂市標識(写真中)と並んで「シートベルト着用日本一を目指す瑞穂市看板(写真左中)
標識「瑞穂市」は、書き換えられた跡があるが、ここは町村合併前は「本巣郡巣南町」

その先左側に、「この道は旧中山道です ここは美江寺標識
五六橋以降は、この中山道標識が要所に立てられていて、旅人にやさしい街道となっている。感謝感激。
田園風景の県道(写真左)を進み、美江寺五六町信号交差点(写真中)美江寺宮原信号交差点を横断する。
         
美江寺宿
:東の長良川「河渡の渡し」と、西の揖斐川「呂久の渡し」の中間にある宿。
徳川幕府の中山道整備される前から、豊臣秀吉の命で宿場として重要視され「問屋場」が設けられ、
往還
(5街道以外の脇街道のこと)の荷駄中継ぎの業務に当たっていた。
江戸時代になって中山道が整備され、1637年(寛政14)に昇格し公式に宿場として開設した
美江寺の地名は、奈良時代(719年)建立の美江寺観音から由来している。
宿場は、濃尾大地震(明治24年)で全壊してしまった。
間の宿的な立地のため、本陣が建てられたのは1699年(寛文9)と遅く、脇本陣は置かれることはなかった。
本陣1、脇本陣なし
その先の樽見鉄道踏切(写真左)を渡り、丁字路(写真中)を直進して美江寺宿場に進む。
丁字路角の民家前に、「
美江寺宿名所・遺跡図案内板(写真中)
丁字路の右手は、谷汲山華厳寺へ通じる谷汲参道。
丁字路角に、「
左北方谷汲ニ至ル」「右岐阜加納ニ至ル道標
谷汲山華厳寺:岐阜県揖斐郡揖斐川町にある天台宗寺院で、「西国三十三カ所霊場巡り」の満願札所。
 岐阜から赤坂までの中山道で北に向かう街道の殆どは、谷汲参道と言えるほど昔から多数の参道がある。
この時間全く人気を感じさせない宿場通りを進み、
美江寺大門裏信号(写真中)の先右側に、美江寺一里塚跡碑(写真右)
その先左側の学校のあるところが、斎藤道三の戦いで灰塵と化した
美江寺城跡
続いて美江寺信号丁字路(写真左)右側に、熊野三所大権現を祀る美江神社(写真中)
境内奥に、美江寺宿場名の由来となる
美江寺観音堂
丁字路を左折(写真左中)して進み、右角に立派な建物の庄屋和田家(写真右中)
その先左側に山本家が務めた
本陣跡碑(写真左)
道の反対右側に、瑞穂市立中小学校の遠い前身の1873年(明治6)創立
開蒙学校跡碑
その先、「みかどや」商店の丁字路(写真左)を右折し、
みかどや商店前に「
右大垣赤坂ニ至ル」「左大垣黒俣ニ至ル道標(写真左中)
坂ゆるい坂(写真右)を上る。
少し先左側に、「
美江寺名所・遺跡図案内板(写真右中)、またここが高札場跡(写真右中)
逆光浴びて進み、右側に1833年(天保4)創建千手観音堂(写真左中)
犀川にかかる
新月橋(写真左)を渡り、数分先の分かれ道(写真右中)は左手を進む。
分かれるところに白い小さな祠があり、
その奥に、鎌倉時代の禅僧自然居士が作った千躰仏を安置されている
千躰堂
住宅街を通り、犀川沿い(写真左)に進み、右側に神明神社
その先道なりで左へ(写真左)左へカーブ(写真中)し、直線道路に出て左側に「この道は旧中山道です ここは田之上」標識。
右側ぎふ農業協同組合巣南支店の横を通り、突当り(写真左)で道なりに右折し、
小さな橋を渡り、県道156号線と合流し、左折する。
すぐ先で、幻想的な長護寺川(写真左)にかかる朱色の橋(写真左中)を渡り、
右側のきれいに整備された
公園(写真右中)脇を進み、はずれから156号線と分かれ右折する。
右側に「旧中山道道標(写真左中)の立つ、舗装されたばかりのまっすぐな道(写真左)を、
ギンギンらギンの西陽をまともに受けて進む。
こういうとき、女性の旅人は顔の日焼け防止はどうしているのかと、気になるところ。
左側の
用水路に沿い(写真右中)、突当りの揖斐川の土手で丁字路となる。
この先の旧中山道は、
大正14年の呂久川(揖斐川)付替え工事で現在の揖斐川になったときに全て消滅してしまっている
従ってここでは丁字路を左折し、揖斐川にかかる鷺田橋から対岸に渡る。
丁字路を左折し土手沿い(写真右)に進んだが、鷺田橋へ出る道がわからず。
結局橋の上り口の
156号線鷺田橋東信号交差点(写真中)まで延々と戻り、橋へ上った。
橋は左側にしか歩道がないので、信号から
左側の歩道を進む。。
後日
わかったこと:信号まで戻らなくても、その手前で156号線を横断するトンネルがあり、
そこを潜り反対側に出て橋の左側に上れるようである。
鷺田橋(写真中)から左手に、雄大な揖斐川(写真左)の流れ。
橋を渡り、途中から県道を横断する左手の
歩道橋を渡る。
歩道橋を下りて、そのまま県道沿い(写真左)に進み、左手から道と合流(写真左中)して進む。
その先の「
瑞穂市呂久」標識の立つ良縁寺(写真右)前の三叉路で、右手の道を進む。
閑静な住宅街の道を進み、突当り(写真左)で道なりに右折する。
人も車も全く通らない
(写真中)を進み、右側に立派な本堂が見える蓮生寺
さらに右側に、船頭寄馬淵家(写真右)
馬淵家:1610年(慶長15)ころ、この呂久の渡しの船頭屋敷は13軒を数え、中でも馬淵家には船頭8人、助務7人がおかれていた。
突当りを
左にカーブする。
道なりに進み、左側の小廉紅園前を進む。
このとき、16:45.
このたびの2泊3日の街道歩きは、関ヶ原までの予定であったが、まだまだ遠い。
と言ってもこれから横浜に帰るには、時間的に無理かも。
それならもう一泊することにし、近くの人にタクシーを呼んでもらいJR大垣駅付近のビジネスホテルに宿泊とした。
  前の宿へ 次の宿へ
             旅と旅行と