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    歩く 中山道 (東海道)
 大津宿→京都三条大橋
   (滋賀県大津市)  
iー愛ロマンチカ
大津宿から京都三条大橋区間は、
既に東海道53次と東海道57次(京街道)で歩き、ホームページを作成している。
従ってここでは、それらのホームページから抜粋・編集して作成している。

区間 大津宿〜髭茶屋 歩いた時期 2005.3.26 東海道57次
髭茶屋〜京都三条大橋 2002.2.24 東海道53次
(大津宿〜髭茶屋)
この区間は、2005.3.28東海道57次(京街道)で歩いた。
天候は一日中小雨で、
生活防水のデジカメとは言いながら
レンズにかかる水滴までは防止できなかった。
さて大津宿は東海道53次で、
2002.2.23に歩いたところ。
その後の街道変化が楽しみな訪問でもあった。
結果は大きな変化はなかったが、
ただ私の観察力が結構進歩していて
また新たな発見をすることが出来たのであった。
大津宿:中山道69番目の宿で、東海道では53番目の宿。
大津の名が歴史上登場するのは、667年の天智天皇の大津京遷都による。
その後8世紀末の平安遷都により、大津は都の玄関口となり琵琶湖の物資を集散する港町の機能をもつとともに
東海道や中山道などのとの人や物資を運ぶ重要な要路になって、
宿場町としてまた近江商人の町として発展し、東海道の中で最大の人口を有し賑わっていた。
本陣2軒、脇本陣1軒。
国道161号線の京町一丁目信号交差点(写真左)は、当時高札場が置かれてあった「札の辻」。
札の辻であることは、右角に京阪バスのりば「札の辻立看板(写真右)があることで確認できる。
161号線(写真左)は、札の辻交差点から大津宿を通り逢坂山までの長い登り坂となる。
交差点から161号線を歩いて行くと、左側歩道に「八町通地名由来碑(写真左)と「明治天皇聖跡碑」がある。
ここはまた
大津本陣跡だと、地名由来碑では説明している。
なお八町通
(宿場通り)は、札の辻から上関寺町まで距離が八町(872m)あったからとも言われ、
江戸時代には道の両側には多くの旅籠があり賑わったという。
道の中央は、
京阪京津線電車が占めて行ったり来たりしているが、
京町郵便局を過ぎると
線路は右折(写真右)して一旦道路から消えてしまう。
京阪京津線と別れると御幸町となり、左側歩道千壽美容室の前にまだ新しい本陣跡碑が立っている。
説明文を読んでも前記の本陣跡との関係がよく理解できないが、こちらの碑は単に案内だけのようだが・・
前記地名由来碑にはきちんとした本陣跡の碑もなく、地理に疎い旅する人にとっては紛らわしいことである。
先に進むと右側に「
」看板のクラシックな建物が見えるが、これ現役の銭湯?そうであれば素晴らしい!
私にとっては、このうえなく大津宿の情緒を感じさせてくれる建物であった。
さらに行きJR琵琶湖線(写真左)跨線橋(写真中)辺りまでが、大津宿であったのではないかと思う。
前に進むとすぐさっき分れた
京阪京津線踏切(写真右)が横切っている。
踏切を越すと、
右側に「
逢坂石碑(写真左)と奧に国の重要文化財阿弥陀如来坐像が本尊の安養寺(写真左中)がある。
逢坂の地名は、「日本書紀」によれば
神功皇后の将軍武内宿禰がこので忍熊王とばったり出ったことに由来するという。
平安時代には逢坂の関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺が建立され
和歌などに詠まれる名所として知られた。
さらにすぐ先の1号線と合流する地点の右側の京都大学防災研究所の敷地の中に
鉄道記念物旧逢坂山ずい道東口(写真右中)が立っていて、敷地の奧の方にトンネルが保存されている。
明治13年竣工の全長664.8mある初の日本独自技術の設計・施工によるもので、
大正10年まで東海道本線下り線として使用されていた。
ここで161号線は左手からの1号線と合流(写真左)する。
合流後は右側に歩道がないので、161号線と1号線を横断して反対側に渡らなければならないが
交通量も激しく
(写真はたまたま少ないが)数ヶ所ある信号を見ながらの横断は、正直命がけであった。
左側歩道の左には京阪京津線が走り、登り勾配の道を歩いて行くと道の反対側に
関蝉丸神社上社がある。
実は安養寺の手前に下社があったのであるが、見過ごしてしまった。
ここには横断歩道があるので、右側に横断する。
(以降は横断歩道がない)
車に挟まれた
白線の道(写真右中)を歩くと、すぐ弘法大師堂(写真右)と常夜燈がある。
さらに道なりに2,3分歩くと、キチンとした歩道となり道も頂上となって平坦になる。
そして前方丁字路(写真左)左に「国土交通省逢坂山スノーステーション」の大きな看板が見えてくる。
道は下り勾配になり、旧東海道はその丁字路で1号線と分れ右折する。
右折の右角に、
逢坂山関跡石碑逢坂常夜燈が雨に濡れて佇んでいた。
逢坂の関は平安時代に設置された三関
(逢坂、鈴鹿、不破)の一つで、京の東入口として重要な場所であった。
右折し、京阪京津線の跨線橋を渡り
坂道を下る。
集落の入口付近は、うなぎの「かねよ料理屋(写真左)など、かねよ一色。江戸時代から有名とのこと。
その先の右には、
蝉丸神社の石柱(写真中)と、その脇には車石が柵で囲われている。
蝉丸神社は906年
(天長9)に盲目琵琶法師の蝉丸を合祀したもので、音曲芸能の神として信仰されている。
京都の心学者脇坂義堂が、1805年
(文化2)に大津八町筋から京都三条大橋までの12km間の東海道を
1万両の工費で車のわだちを刻んだ花崗岩の切石を敷詰めて、物資を運搬する牛車専用通路をつくり、
牛車の通行を容易にした。これを車石という。
道路の反対側には、可愛い狸の親子(写真左)と「左伏見奈良街道 右京三條みち道標(写真左)
すぐ先の京阪京津線大谷駅改札口の隣に「
元祖走井餅本家石碑(写真中)
走井餅は、大津の名物として知られ 安藤広重の『東海道五十三次』にも登場するが、
本家は既に昭和初期に廃業しているので、もしかしたらここに本家があったのかもしれない。
大谷駅改札を過ぎると
跨線橋を渡り再度1号線と合流して進む。
雨の1号線(写真左)は真直ぐで、交通量が激しい。京阪京津線は道路の右側を走っている。
1号線を数分歩くと左側にまだ新しい建物があり、これは前回の旅のときは無かったと思う。
玄関前の碑によると、大津算盤の始祖
片岡庄兵衛の住居(写真左中)を復元したものとのこと。
その先には、「走井茶屋」跡地に建てられた
月心寺(写真右中)がある。
前回の旅では、写真の引戸が開いていたので勝手に中に入り、
平安時代から知られる“走井”といわれる井戸跡を拝見させていただいた。
なお月心寺のご住職の村瀬明道尼さまを、先日テレビで拝見したがとても立派な人で感動しました。
1号線に出て約1kmのところに、
名神高速道路の高架が見えてくる。
高架を潜ると前方に1号線の横断歩道橋(写真左)が見え、歩道橋脇交番の左側に入る道が旧東海道となる。
左側の道に入ると町名も追分町となり、なんとなく当時の雰囲気が漂う気になってしまう。
右側の
仏立寺(写真左)の前を通り、道なり(写真左中)に進むと
歩道橋から約400mの追分5丁目の民家ブロック塀の前に
髭茶屋追分道標(写真右中)があり、
道は二つに分かれる。
道標には「
ひだりハふしミみち みぎハ京のみち(写真右)と刻まれていて、
東海道53次の京都三条大橋へは右の道を、57次は左の道を進み、ここで分かれることになる。
また追分道標の右側に「
京都市・大津市境界標識(写真右)があり、ここから京都市(山科区)に入る。
     
(髭茶屋〜京都三条大橋)
この最終区間は、東海道53次で2002.2.24に歩いた。
ただ最初の街道歩きのホームページであるので今振り返ると内容が貧弱で、後日この区間だけ再度歩く予定。
経路:
 (髭茶屋追分道標)→京都市山科区→日ノ岡→東山区白川橋→(三条大橋
 少し行った右側に、「東海道」石柱の前に車石(写真)。
昔この付近の街道は車道と人道とに分けていて、
京に向かって右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道としていた。
 500mほど行くと1号線に突当るので、跨線橋で横断する。
その
橋の上(写真)から京都方面を見て、すぐ目の前が京都であるという実感を噛みしめた。
 1号線を横断して300mほど行くと、左に「京都市標識(写真)
もうここは京都で、この時ジャスト12時であった。
 人通りのない東海道(写真)を、京阪京津線沿いに三条大橋を目指して西へ向かって歩いた。
 商店街を通りながら900mほど歩き、右側の義士餅店の前に
京三条はしまで一里半」「大津札の辻まで一里半」と記された「
東海道道標(写真)がある。
ということはこの地点が大津宿と京三条大橋との丁度中間ということになる。
 さらに100m歩くと京阪山科駅前交差点で、駅は右手にある。
交差点を横断し、西へ行くと町並みはビル街となり、都会の真ん中を歩いている感じ。
ところどころに新しい「
旧東海道道標があるのは、多分400年祭で整備されたものであろう。
 交差点から400mの右に、當麻寺(写真左)があり境内にすらっとした白い像(写真右)が見える。
山門に掲げられた看板には「文化財指定 丈六阿弥陀如来安置」とある。
 さらに400m行くと、三条通りとの交差点にでる。
三条と名前がついているので三条大橋へ続いていること間違いなし、との確信のもとに右折し、
すぐJR東海道本線琵琶湖線のガードをくぐる。
出るとすぐ右に小さな広場があり
天智天皇稜へ続く道(写真左)がある。
その入口には
天智天皇山科陵看板(写真右)が立っている。
 何故かその看板の脇に石造り日時計(写真)があったが、どういう意味なのかは不明。
 旧東海道は、山科稜看板の手前から左に入り西北へ向かう。
道は急に狭くなり
(写真)、逢坂山と並び称された日ノ岡峠の難所に向かって上る。
 道はゆるやかなスロープで延々と続く。
 三条通りから別れ、日ノ岡峠道に入ってから1.5km歩くと、再度三条通り(写真)と合流する。
 三条通を西北へ500m歩いた九条山信号機から、道は下り坂になる。
少し行くと地下鉄東西線蹴上駅前の
レンガ造ずい道(写真)があるが、
これが明治時代に建設されたという、琵琶湖から鴨川までのインクライン
(傾斜鉄道)の遺構なのか?
 さらに行くと道は丁字路になり、
左折すると左側に都ホテル、右の一段低いところに関西電力の発電所の
レンガ造建物(写真)
歴史を感じさせる建物で、多分明治時代のものであろう。
昭和38年の新潟地震ではこういうレンガ造の建物が殆ど被害を受けていなかったので、
これからも長い間その姿を残し続けることができるのではないかと思う。
解体などせずに、是非後世に残して欲しいと願いたい。
 道はまっすぐ西へ進み、三条大橋へ向かう。
道中とても古そうな
家並み(写真)に出会うが、これが京都なのかもしれない。
 なおも歩くと、今度は家と家の間に突然お稲荷さん(写真)が現れてびっくり。
合槌稲荷神社
といい、昔刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂があったところ。
 その先の地下鉄東西線東山駅の手前に、
鴨川にそそぐ小さな白川にかかる、
白川橋と道標(ひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち)(写真)がある。
もうここまで来ると、三条大橋はすぐ目の前。
 東山三条交差点を過ぎてしばらく行くと、遠くに(写真)が見えてくる。
これが江戸日本橋を出発した時からの目的地の、
三条大橋である。
空にたなびく雲がとてもきれいに見えた。
 その前に、三条大橋の左詰めの袂に京阪三条駅の入口(写真)がある。
この駅入口は時々京都を訪れたとき、時々見た風景であった。
そうすると三条大橋は知らない橋ではなかったということである。
急に三条大橋に昔の懐かしい異性と会うような親しみを感じた。
 三条大橋に着いて時計を見たら、ジャスト14時。
この三条大橋は国道37号線にかかる橋で、橋の右詰めに三条大橋を説明している
立札(写真)
要約すると次の通り。
「三条大橋は室町時代の前期には既に簡素な構造で架けられていた。
本格的橋となったのは、1590
(天正18)年豊臣秀吉が奉行増田長盛に命じて大改造させたことによる。」
この橋は、たびたび流失したが交通上で重要であったので、幕府によりすぐ修復された。
改造も元禄以来たびたびされてきたが、
現在の橋は昭和25年に改造されたもので、橋の長さ74m、幅は15.5m。
 橋の上から鴨川(写真)
 橋を渡って西詰め南側に弥次喜多像(写真左)が、陽気に語り合っている。
この方角から見る
三条大橋(写真右)も、また素晴らしい。
三条大橋を後にして横浜へ戻るべく、鴨川河川敷(写真)を歩いてJR京都駅へ向かった。
                                                                    
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             旅と旅行と