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この区間は、2004.8.8に歩き、HP作成のため再度2009.3.28鴻巣宿に続いて歩いた。 当然と言えば当然であるが、見返りの松など無くなってしまったものも一部あったが殆ど景色などは変わらなかった。 ただ気候だけは、2004年当時は40℃を超す炎天下を夢遊病者になって歩いたが、 今回の2009年は強風と寒さで身体が冷たくなって歩くという、まさに正反対の貴重体験をした歩きであった。 それにしても、中山道標識が殆どないというこの区間は、あちこち惑いの連続であった。 |
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経 路 | |||||||||||
(JR行田駅)熊谷堤→一般道→熊谷堤→一般道(銀座1丁目信号)国道17号線(熊谷宿)(八木橋デパート)一般道→17号線 | |||||||||||
一般道(宿根信号)一般道←265号線(深谷宿)県道265号線(原郷信号)264号線(玉井南信号)県道264号線←17号線←一般道 ← | |||||||||||
→17号線→一般道(百庚申)一般道(滝岡橋)一般道→258号線→一般道(新泉橋)一般道→県道392号線(本庄宿)392号線(JR神保原駅) | |||||||||||
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JR熊谷駅前のビジネスホテルを早朝出発し、6:03JR行田駅(写真左)に到着。 駅から南西へ一直線の道で荒川の熊谷堤に向かい、マンションの間から熊谷堤に上る。 |
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6:13熊谷堤(写真中)に到着。 左方は広大な荒川河川敷(写真左)で、ここが洪水をおこし堤防を破壊するなど想像だにできない。 すぐ先下方に、今来たマンション前の菜の花の中に鳥居。 |
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法面の細い道を下り、途中左側に1841年(天保12)建立馬頭観世音碑(写真左)。 下り切った右側に、稲荷神社鳥居(写真中)と境内に日本橋から15番目「久下新田の一里塚跡」案内板。 |
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元の堤に戻り、菜の花道(写真右)を道なり進み、 ゆるい坂道を下り、菜の花が終わる左側に「修堤記録輪型の碑」と呼ばれている久下堤碑。 今朝は強風と寒さで身も凍えそうな天気で、指がままならずデジカメのシャッターを押せないほど。 |
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平地の道(写真中)を進み久下集落に入り、左側に熊谷市久下出張所・公民館(写真左)。 その先右側に、この地域の鎮守久下神社。 |
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押しボタン信号交差点を直進し、神社から6分ほどの県道257号線高架(写真左)下を潜る。 その先の右にカーブするところで、突当りの白い建物の左脇道(写真中)に入り、 熊谷堤へ向かう道を進む。 |
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堤に上る手前(写真左)右側、 久下権八公園に昭和8〜12年にかけ延長19kmの堤を改修した記録を記す伊藤博文篆額熊谷堤碑(写真右)。 道を挟み反対側に、ここにも権八地蔵堂。 前述の吹上延命地蔵と謂れも地蔵堂の建立時期(1698年)も同じで、こちらが本命説もある。 旧中山道は地蔵堂の裏側を通っていたが、現在は住宅地となり通行不能につき、 熊谷堤に上がり迂回する。 |
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坂を上り突当り(写真左)を右折し、熊谷堤に上がる右側に、「久下の渡 冠水橋跡」碑。 冠水橋:昭和30年に架設された長さ282m巾2.7mの車1台が通れる橋で、 平成15年まで生活道路として使用されていた。 |
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堤防上を少し進み、右斜めに下る坂(写真左)を進んだ先右側ブロック塀上に、 旅人を相手にした「しがらぎごぼうに久下ゆべし」が名物の茶店「みかりや跡」案内板(写真中)。 みかりや:忍城主が鷹狩に来るとここで休むので、御狩屋と呼ばれた。 道なりに進み、突当りで車道と合流し左折する。 |
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その先左側に、「東竹院」立看板(写真右)。 左折して右側に、久下次郎直光の創建で久下一族の墓がある東竹禅院(写真中)。 境内には、高さ3m重さ15tの巨岩達磨石がある。 達磨石:寛文年間(1661〜72)忍城主が、達磨大師に似たの岩を秩父から城中に筏で運ぶ途中川に落としたもの。 幾度かの引き上げに失敗し、度重なる荒川の洪水で行方不明になっていた。 大正14年にこの院の前で偶然発見された。 |
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元の道に戻って先に進み、信号交差点を直進しその先で道なりに左にゆるくカーブして進む。 次の信号交差点(写真左)を直進し、佛説寺を過ぎその先右側に曙・万平町自治会館(写真中)の曙公園。 公園の道路に面した一角に、「八丁の一里塚跡」案内版。 |
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さらに進み公園から約200mの丁字路(写真左)を右折し、 秩父鉄道踏切(写真中)を渡り上越新幹線高架下を潜り、続いてJR高崎線踏切を渡り、ビルの間を進む。 |
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信号交差点(写真左)、次の信号交差点を直進し、 突当りの銀座一丁目信号交差点で国道17号線と合流し、左折して進み熊谷宿に入る。 |
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熊谷宿:江戸から数えて8番目の宿場で、人口は中山道で本庄宿、高宮宿に次いで多かった。 秩父街道の追分のある交通の要衝として、 荒川利用した舟運で江戸をはじめ各地と交流し商業都市としても形態を整え、発展した。 ただ宿場住民の反対で宿場に飯盛り女がいなかったので、次の深谷宿に宿泊する旅人が多かった。 昭和20年8月14日終戦前夜の空襲で市内の7割が焼失し, 当時の面影が完全に失われてしまった。 熊谷の地名由来:ここを本拠とした桓武平氏・平直方の後裔を称する平直貞が、 付近を荒らしていた猛熊を退治し、熊野権現堂を築いた。 これに因んでこの地を熊谷と呼ぶようになり、直貞も熊谷姓を名乗るようになったという。 本陣2軒、脇本陣1軒、 |
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17号線(写真左)を進み、次の筑波信号交差点を直進する。 交差点の横断歩道橋上から、 左手突当りにJR熊谷駅、前方は宿場通りの17号線。 宿場の東木戸は、筑波信号の先辺りにあったといわれている。 余談:2004.8月歩いたときも、この横断歩道橋から同じように17号線を眺め、 そして前方右側の高いビルのビジネスホテルに宿泊した。 当時は40℃を超す暑さ中、フラフラになってホテルに着いた。 ホテル従業員いわく、「気象庁の発表する気温は測定する場所が郊外の風通しのよい芝生のところでなので、 環境の悪い市街地中心のこの辺りはさらに数度は高い」とのこと。納得。 そういえば、25年くらい前転勤で広島市に住んでいたとき、大きな揺れの地震があった。 ところが気象台発表は、震度ゼロ。 観測点が、しっかりした岩盤上にあるため揺れないのだという。 いずれにしても、何か変です。 |
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次の本町2丁目信号、続く熊谷市役所入口信号を進み、右側に高城神社鳥居(写真左)。 参道奥に平安時代905年(延喜5)宮中において延喜式、式内社に指定された高城神社(写真中)、 境内には各地の紺屋が奉納した1841年(天保12)建立高さ2.75m青銅製常夜燈。 高城神社本殿:1591年(天正18)石田三成の忍城攻めで延焼したが、 1671年(寛文11)忍城主阿部忠秋により再建された。 |
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元に戻り、次の市営駐車場入口信号手前左側に、高札場設置場所の札の辻跡碑(写真右)。 続く本町一丁目信号交差点を渡り、 左側に明治17年火災と昭和20年戦災で焼失した、竹井家本陣跡碑(写真中)。 旧中山道はその次の鎌倉町信号交差点右角の八木橋デパートの中を通っているが、 只今早朝の開店前で、入口シャッターが閉まっているのでデパートを迂回。 平成元年にこのデパートが増築した際、旧中山道が建物内に取り込まれてしまった。 鎌倉信号辺りに西木戸が置かれていて、ここで熊谷宿は終わる。 |
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寄り道し、デパート入口前から右手を進み突当りに、 熊谷直実の墓と伝えられる宝筐印塔がある熊谷寺。 熊谷寺:熊谷直実は、源平戦「一の谷の戦い」で平敦盛(16才を)打ち取った武将であったが、 叔父の久下直光との所領争いに敗れ、出家して蓮生法師となりここに草庵をあみ余生をおくり 1207年(承元元)に没した。 その後天正年間(1573〜92)に、草庵跡に京都の高僧幡随意上人が伽藍を建立したのが始まりという。 今回も、前回も閉門中で寺に入れなかったが、仏門が人との関係を遮断してどうするつもり? |
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旧中山道出口にあたる八木橋デーパト西口には、旧中山道跡碑(写真左)。 熊谷市の中山道碑は、この1ヵ所だけでとても貴重な石碑。 ここから右折し、すぐの横断歩道を渡り反対側「一番街」看板(写真中)のかかる商店街に入り、 すぐの分かれ道は右手を進む。 実はここで勘違いをして、右折したままどこまでも行ってしまい往復のロスタイム約40分。 なんとなく当時の雰囲気が残っているような商店街を、道なりに進む。 |
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突当りの横断歩道橋のある石原(南)信号で国道17号線と合流(写真左)し、右折する。 石原駅入口信号、次の信号交差点左側の横断歩道橋(写真中)の下に、 2004年当時は、左から順に1766年(明和3)建立「ちゝぶ道 しまぶへ十一り」道標 「秩父観音順礼道 11里」道標、「寶登山道 8里15丁」道標が3基(写真は2004年)並んでいたが、 無くなっている!? 秩父道はここで中山道から分かれ、寄居,釜伏峠,三沢を経て秩父に至る。 |
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その先熊谷警察署前信号交差点右角に、とてもクラッシックで荘厳な熊谷警察署建物(写真左)。 交差点から約7分「セイユウ」看板の分かれ道は、中山道は17号線と分かれ左手を進む。 |
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すぐ右側に、樹齢300年高さ12m大ケヤキのそびえる一里塚(写真左)。 さらにその先左側に、忍藩境界を示す1780年(安永9)建立「従是南忍領」石標。 |
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しばらく進み、新照寺前を通り途中の交差点(写真左)を直進し、 玉井堰幹線用水路(柿沼堀)分かれ道(写真中)は、橋を渡り右手を進む。 この分かれ道には標識がなく現地で迷いやすく、左手の用水路沿い道は全く違う方向へ行ってしまう。 道なりに左にカーブし、交差点を直進し、左側農林総合研究センター水田農業研究所沿いに進み、 石標から約9分で突当りの国道17号線と合流し、左折して横断歩道橋を渡る。 |
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橋上から、17号線(写真左)と右斜めに分岐する中山道の県道264号線。 橋を渡り終えて左折して進み、右斜めに分岐する県道264号線(写真中)を道なりに進む。 筋交橋を渡り、その先の分かれ道は左手を進む。 |
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玉井(南)信号交差点(写真左)でもう1つの17号線を横断し、 道なりにゆるく左にカーブして石丸病院前を通り、玉井団地の中の264号線(写真中)を進む。 玉井(南)信号から約20分、右側に庚申塔、地蔵堂とともに最近移築整備された観音堂。 |
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さらに進み、その先信号(写真右)を直進しすぐ左側に、 「明治天皇御小休止跡」碑の建つ志がらき茶屋本陣跡。 この辺りから先の264号線は、約700mほどの区間熊谷市と深谷市の境界で、 左側が熊谷市、右側が深谷市。 |
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道なりに進み、 深谷市に入り明治天皇小休止跡から約30分の東方町2丁目信号交差点(写真左)を直進する。 信号から約3分右側に、熊野神社一の鳥居。 熊野神社:本殿は一の鳥居から約300m参道奥で、927年(延長5)この地に枇杷の木を棟木にして小社を建てたのが始まり。 |
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さらに264号線を約10分進み、右側木立(写真左)の中に、愛宕神社。 |
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その先に、国道17号線との原郷信号交差点と横断歩道橋(写真右中)。 2004年時は、横断歩道橋手前に「みかへり乃松」碑と松の木(写真左、左中)(写真は2004年)があったが、 今は何もない! 見返りの松: 深谷宿に泊まった旅人が江戸に向かう時,この辺りの並木で振り返って前夜ちぎりを交わした遊女と別れを惜しんだという。 後日わかったことは、初代の松は2006年2月枯死した、ということはこの写真の松は「見納めの松」であったのだ。 横断歩道橋から、前方のまっすぐな中山道の265号線。 |
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深谷宿:深谷上杉氏城下町として栄えたが、江戸時代初めに廃城となった後深谷宿が成立した。 宿は「五十の市」で賑わっただけでなく、 熊谷宿が飯盛女を置くことを禁じていたため、深谷宿に宿泊する旅人でも賑わい旅籠は80軒もあった。 浮世絵師渓斎英泉に描かれた「遊女の宿」で、その名残が「見返りの松」。 今も昔もティッシュ産業は、盛況そのもの。 深谷の地名は、東部を北流する唐沢川が深い谷を形成していたことにより、名付けられた。 本陣1軒、脇本陣4軒。 |
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交差点を直進し265号線を約2分ほどの右側に、深谷宿入口目印の高さ4m明治建立常夜燈(写真中)。 宿場通りを進み、古い建物と蔵のだいまさ米店(写真左)。 すぐ先信号を右折した左側東源寺山門右前に、「死ぬ事を知って死ぬ日やとしのくれ」菊図坊祖英塚。 菊図坊祖英:加賀国出身俳人で、江戸時代中頃仲町の脇本陣杉田宅に4.5年滞在し深谷宿人々に俳句を指導した。 没後1768年(明和5)深谷の俳人南柳亭素山たちにより、、この塚が建立された。 |
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元に戻り、265号線を進み唐沢川(写真左)にかかる行人橋を渡る。 |
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さらに宿場通りを進み、本住町信号交差点(写真左)を直進し本住町7地区に進む。 堺屋金物店と埼玉石炭樺ャ田倉庫の間の路地(写真中)に入り、突当りで右折しすぐの路地を左折し右折したところ、 徳川家康の甥で25才の若さで没した深谷城主・松平康直が建立し、また康直の墓がある三光院。 |
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元に戻り、すぐ先仲町信号交差点(写真左)を横断して進む。 信号から左折すると、突当りに赤レンガJR深谷駅。 次の深谷信号を進み、すぐ右側飯島印刷所前に飯島家「深谷本陣遺構」(写真中)案内板。、 ビルの奥に上段の間、次の間、入側が残されている。 続いて右側に、江戸時代からの造り酒屋「七つ桜」看板の田中家。 |
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宿場通りの265号線をしばらく進み、左側に古い商家建築の滝澤酒造(写真左)。 その先右側に、宿場西口に設置された約高さ4mの1840年(天保11)建立常夜灯。 すぐ先の十字路を、直進する。 |
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しばらく進み、押しボタン信号先左側角に「清心寺」立看板(写真右)。 看板の立つ細い道を左折しR高崎線踏切を横断した突当りに、 境内に一の谷合戦で敗れた平家の知将・平忠盛(平清盛の弟)の供養塔(五輪塔)がある清心寺。 清心寺:忠盛を討ち取ったこの地の武将・岡部六弥太忠澄が、 その菩提を弔うため領地で一番景色のよいこの地に五輪塔を建てた。 寺は後世の1549年(天文18)深谷上杉氏の重臣・岡谷清英が創建したもの。 |
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元の道に戻り、道はゆるい下り坂となり、途中左折する265号線と分かれ、 清心寺看板から約7分ほど先、宿根信号交差点(写真左)で17号線を横断する。 交差点を渡った右角に、宿根総鎮守瀧宮神社(写真中)。 瀧宮神社:1496年(明応5)大旱魃に見舞われたとき、領主加賀守呑丹がこの地を選定して掘ったところ、 水が湧き出し農地を潤した。 これを神の恵みとして社殿を建て、瀧宮神社として崇めた。 道なりに進み、突当りで17号線と合流し右折する。 |
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17号線を100mほど進んだところが、特に標示がないが深谷市と岡部町の境界で、 その先の岡部(南)信号交差点(写真左)を直進する。 しばらく進み、右側に「源勝院」立看板(写真中)。 看板から小路を右折した突当りに、岡部藩主阿部信勝の創建で、阿部氏菩提寺の源勝院。 |
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元の道に戻り、すぐの岡部(北)信号丁字路(写真左)を直進する。 寄道で、丁字路から左折し約150mほど坂を上り、「是ヨリ百米高島秋帆史跡」石柱(写真中)から右折し、 左側の岡部藩阿部氏陣屋跡一角に、高島秋帆幽囚の地碑。 高島秋帆:江戸時代の西洋砲術の第一人者で、高島流砲術の創始者。 幕府に西洋式砲術を建議し採用されたが、鳥居耀蔵の中傷で投獄され、岡部藩預かりとなってこの陣屋に幽閉された。 藩は秋帆を客分扱いで厚遇し藩士に兵術を学ばせ、その後冤罪が晴れ幕府砲術指南となる。 |
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元に戻り、17号線を進み岡部信号交差点の先右側に、「普済寺入口」立看板(写真左)。 看板から右折し突当りに、源平合戦で平忠盛を討った岡部六弥太忠澄の開基普済寺。 |
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元へ戻り、17号線を約10分進んだ分かれ道(写真左)は、 17号線と分かれ右手を進む。 約7分ほど進み、右側に日本武尊の創建とされる榛沢郡の総鎮守島護産泰神社。 |
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さらに進み交差点(写真左)を直進し、その先神社から約10分の分かれ道(写真中)は左手の坂を進む。 その先約80mの右折するところに、「百庚申100m→中山道」標識。 |
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標識に従い、右折して豊見坂(写真右)を下り、 左側に1860年(万延元)庚申の年、村の有志で建てられた百庚申塔(写真左)が現在約60基が並ぶ。 その先突当りで道は17号線土手で遮断され、 迂回するため右折して坂を道なりに左にカーブして、17号線に出る。 |
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17号線岡(西)信号交差点(写真左)を横断し、 道なりに約4分進み小山川(写真左中)にかかる滝岡橋(写真右中)を渡る。 本来の中山道は、信号から現在の道の左手を通り対岸に続いていた。 なお小山川の中ほどが深谷市と本庄市の境界で、橋を渡ると本庄市。 橋を渡り、道なりに左にカーブして進む。 |
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その先の右にカーブする辺り(写真左)が、消滅した対岸からの旧中山道が接続するところ。 カーブして道なりに進み、田園風景の中正面の鉄塔(写真中)に向かい、突当りで左に、右にカーブし、 最近整備された道を進み右にカーブする突当りの細い道入口に、 3本の標識があり、うち1本「この先通り抜けできません」。 「??」、現場では分かりにくい標識で、結論を言えば「中山道」標識を立てておいてもらいたいかった。 |
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意を決して(結局は正解であったが)突当りの細い未舗装道を進み、 途中の分かれ道(写真左)は「中山道」標識の立つ左手を進む。 その先で県道45号線ガード下(写真中)を潜り、出口右側の手すりの「中山道」標識に従い階段を上る。 ただこの中山道標識に、手書きで「うかいろ」と記入されている。 2004年当時は、階段を上らずそのまま直進してしばらく歩いて県道258号線と合流している。 多分現在は道路工事などで通行不可につき、階段から迂回することになっているのだと思う。 |
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階段を上りきり、道なりに左折して草むら道(写真左)を進み、 県道258号線と合流(写真中)し左折して進む。 |
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その先藤田小学校前信号交差点(写真右)で、右折する258号線と分かれ直進する。 左側に、牧西広末が鎌倉八幡宮を奉還して1471年(建久6)建立八幡大神社。 八幡大神社:一度焼失したが、依田(のち宮崎に改姓)五郎左衛門が1612年(慶長17)再興し、代々神主を務めた。 ここで奉納される神楽「金鑽神楽宮崎組」は本庄市指定文化財で、神楽に使われる面は1711年(正徳年間)以前の古いもの。 |
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さらに進み、ゆるい右カーブ先の左側に小川宅助郷用長屋門(写真左)。 牧西信号交差点を進み、その先住宅のまばらになるところの左にカーブ(写真中)する右側に、 子育て地蔵と石仏群。 子育て地蔵の社の札:「お地蔵様御真言「おんか、か、か、びさんまえい、そわか」これを三回又は七回唱えて下さい」とある。 |
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続いて右側に、内野歯科医院の助郷用長屋門(写真右)。 その先の突当り(写真中)を道なりに左折し、元小山川にかかる新泉橋を渡る。 |
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本庄宿:中山道最大規模の宿場。 宿場発展の最大の要因は、利根川の水運の集積地として賑わったことで、 陸上交通においても、越後、信州など周辺各地への分岐点であった。 宿場は何度も火災にあい、当時の面影を残す建物は極わずかで明治時代以降のものが多い。 本庄の地名:平安時代後期から武蔵国の勢力を伸ばした武蔵七党の武士団・児玉党の拠点となった。 首領は荘(庄)を名乗り、その後分家が進み本家を本荘(本庄)と言ったのが、地名の起こり。 本陣2軒、脇本陣2軒。 |
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道なりに右にカーブして進み、諏訪町信号交差点(写真左)で17号線を横断歩道橋で横断し、 県道392号線のゆるい御堂坂を上る。 延々と続く上り坂の本庄東中前信号、東台四丁目信号、 続いてそのものずばりの「中山道交差点」信号交差点(写真中)を直進する。 中山道交差点から坂の名は不動坂なり、さらに上り続ける。 もう本庄宿に入っているのかも知れない。 その先の本庄駅入口信号交差点を横断する。 交差点右角の埼玉りそな銀行辺りが、田村本陣跡。 |
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宿場通り(写真右)を進み、左側東和銀行と足利銀行辺りが、内田本陣跡。 |
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さらに進み右側、マツモト店と田屋店の間の路地(写真左)の突当りに、 本庄領主小笠原信嶺が1591年(天正19)開基の、信嶺夫婦の墓もある開善寺。 |
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中央3丁目信号から右折し、最初の信号を右折したところに、 左から順に田村本陣跡から移築された市指定文化財田村本陣門(写真左)、 「旧本庄警察署と田村本陣の門」石碑(写真中)、 明治の洋風建築物として全国的にも例の少ない明治16年建築旧本庄警察署で、現歴史資料館。 |
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続いての同じ名前の中央3丁目信号から右折し、突当りに、 武蔵7党の児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎が仏門に帰依し、1475年(文明7)開基の安養院(写真左)。 信号に戻り約8分の右側に、彫刻を施した丹塗社殿の本庄宿総鎮守541年創立金鑚神社(写真中)。 境内には、県指定天然記念物の樹齢350年の巨木クスノキ。 |
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元に戻り392号線を進み、すぐ先の千代田3丁目信号交差点(写真左)を右折する。 その先横断歩道橋(写真中)のところから左折して、ひっそりした住宅街を進む。 左折するところには、中山道標識はない。 |
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突当りで、県道392号線と合流(写真左)し右折して進む。 小島4丁目信号(写真左)を直進し、392号線を約15分進んだところの上里町標識で、 本庄市から上里町に入る。 |
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上里町を数分進んだ左側に、 直径約38m高さ約6m浅間山古墳(写真中)、頂上に全長約9.5m横穴式石室(写真左)。 そのすぐ先、丁字路右角に泪橋跡と泪橋由来石碑。 泪橋:幕府の伝馬役(助郷)の苦役に、どんな厳しいときでも伝馬の人々は当時ここにあった川の橋に憩い、 家族を偲び、身のはかなさを嘆じて涙を流したという。。 |
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392号線を進み、神保原陸橋(北)信号交差点(写真左)で県道22号線を横断し、 右にゆるくカーブして名前負けしそうな用水路のような御陣場川(写真右)にかかる楠森橋を渡る。 |
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その先で左にカーブし392号線(写真左)を道なりに進み、 橋から約5分で左側日野岩酒店。 時は17:35。 今日はここまで。 この日は風が強く、また寒い一日でこの時点では身体は寒さを通り超し冷たくなっていた。 |
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酒店角から右折し、約6分のJR神保原駅からJR高崎駅へ。 道中予約してあった、高崎駅近くのちょっと安すぎる旅館へ、そしてそのころは身体は氷に! |
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