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この区間は、2004.8.7から2泊3日で日本橋から倉賀野宿まで歩いたときに、歩いた。 その後2009年にホームページの写真を編集しようとしたら、時間が立ち過ぎあちこち思い出せないところが多く、 それならばと2009.3.27から2泊3日で再度大宮から高崎まで歩いた。 大宮から鴻巣までの区間は、2009.3.27に歩き 2004年当時と殆ど変らない風景であったが、この激しい競争時代を生き抜いてきた小さな店と再会し、 思わず涙がホロリ。 ただ要所に中山道標識が殆どなく、戸惑うことが多かった。 |
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経 路 | |||||||||||
(裏参道通り合流点)県道164号線(加茂神社)164号線(上尾市境界)164号線(上尾宿)164号線(桶川市境界)164号線(桶川宿)164号線 | |||||||||||
県道365号線←(加美信号)164号線(鴻巣宿)164号線(鴻巣市境界)164号線←一般道(原馬室一里塚)一般道←164号線(多門寺信号) ← | |||||||||||
→ (宮前信号)→県道76号線(蓑田追分)→365号線(JR踏切)→一般道→県道307号線(吹上本町信号)一般道(陸橋)一般道→熊谷堤 | |||||||||||
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2009.3.27 JR横浜駅を早朝出発。 JR大宮駅からタクシーで、氷川神社の裏参道通りと県道164号線が合流する信号交差点(写真右)に、6:54到着。 ワンメーター区間で内心びくびく乗車、運転手は不機嫌そのもので、あ~恐! それはそれとして、まさにすがすがしい朝の中山道を北へ向かう。 すぐ先の東武野田線・JR東北本線ガードを側道階段で潜り抜ける。 |
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通勤ラッシュ前の164号線(写真右)を進み、 大宮警察署入口信号、続いて大宮郵便局(北)信号交差点を横断した左側「COCO’S」看板(写真中)下に、 1860年(安政7)建立「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越 道」道標。 |
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立寄るため道の反対右側歩道を少し進み、大宮郵便局(北)信号から最初の小道(写真中)を右折する。 突当り丁字路を右折したところの道路上に 「人魚の肉を食べて800歳まで生きたとされる八百比丘尼が滞在した場所」とされる八百姫大明神(写真右)。 元に戻り164号線を進み、東大成小学校入口信号交差点を直進する。 なお交差点を左折して約100mの左側に、疱瘡の神様として古くから信仰篤い石上神社。 |
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その先北区役所入口信号交差点(写真中)を進み、 左側に耳や眼の神さんと大事にされている1697年(元禄10)建立東大成庚申塔(写真左)。 小さな社には何故か猿田彦大神と表示され、中に高さ142cm巾45cmの青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されている。 国道17号線高架下を潜り、東大成信号交差点を直進する。 |
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9分ほど進み宮原駅信号交差点(写真中)、続いて押しボタン信号交差点を横断し、 左側に菅原道真が祀られている小さな祠の天満宮(写真左)。 道の反対右側のブロック塀前に、「中山道分間延絵図」に記録されている天神橋の名を刻んだ石の欄干。 |
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その先右手の木立(写真左)の中に、 京都の上賀茂神社を勧請し、江戸時代から上尾の名所として親しまれている加茂神社。 |
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さらに国道16・17号線高架(写真左)下を潜り、右手前方の宮原小学校(写真中)の道路に面した敷地内に、 同校開校時植樹された樹齢100年、樹高15mのさいたま市指定天然記念物センダンの木。 |
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約10分ほど進み吉野町信号交差点(写真中)を横断し、 右側に「五街道中細見独案内」に諏訪社として紹介され、お諏訪さまと呼ばれている南方神社(写真右)。 つつじヶ丘公園(西)交差点を直進し、上尾市境界標識でさいたま市から上尾市に入る。 |
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その先押しボタン信号交差点(写真右)左角「馬喰新田」バス停脇に、 「是より秋葉へ壱里十三丁 ひご方へ壱里八丁 川越へ三里」と刻まれた、1800年(寛政12)建立不動尊道標(写真中)。 その左方ブロック塀上に、懐かしや!某石油元売りのCALTEXシンボルマーク。 |
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上尾宿:日本橋から5番目の、中山道の中では比較的小さな宿場。 ただ江戸から37km(9里16丁)の地点で、日本橋を旅立ち最初の宿泊地であったため旅籠が多く賑わった。 また飯盛り女も大勢いたため、これを目当てに周辺の川越や岩槻からやってくる遊び客も多かった、という。 1860年(安政6)の大火で、多くの歴史的建造物が焼失してしまった。 現在は、当時の史跡などは殆ど残っていない。 林本陣の規模は、塩尻宿のものに次ぐ大きさを誇っていた。 本陣1軒、脇本陣3軒 |
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164号線を約10分進み上尾陸橋信号交差点(写真左中)を横断し、 左側に疱瘡の厄除の神として信仰が篤い愛宕神社(写真左)。 さらに進み信号から約250m先丁字路右角の京染野之長嶋店(写真右中)前に、中山道上尾宿標識。 この辺りから上尾宿。 |
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小路を挟んだ反対側原内科眼科医院(写真右)辺りに、一里塚があった。 ここから、164号線に中山道標識が立ち始める。 |
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当時の面影が全く感じられない宿場通り(写真右)を進み、 左側に小鍬をご神体とし五穀を司る農耕神を祭神とする、1632年(寛永9)創建氷川鍬神社(写真中)。 境内に、1788年(天明8)雲室上人が朱子と菅原道真を祀って開いた学舎二賢堂跡碑。 この神社付近は宿場の中心で、本陣、脇本陣、問屋場などがあったが現在はそれらの標識類は全くなし。 |
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その先上尾駅東信号交差点(写真左)、続いて次の信号(写真中)を直進する。 信号から右折すると突当りに、 本尊が興教大師作不動明王で、室町時代創建遍照院。 境内墓地に、廊室妙顔信女の戒名が彫られた「孝女お玉の墓」。 孝女お玉:越後に生まれたお玉は、幼少から親思いの篤い子であったが、家は清貧洗うが如しであった。 このため、1820年(文政3)11才で上尾宿の大村楼の遊女となった。 心優しく美しかったので客の評判も高かったが、わずか25才で病にかかり亡くなってしまった。 大村楼の主人が、日ごろのお玉の孝心に心打たれここに立派な墓を建てた。 この時代たいていの遊女は、死ねば無縁仏となって小さな石塔に名を刻まれるだけという扱いであった。 誰からも愛されたお玉の人柄が偲ばれる。 |
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元の道に戻り、その先図書館西信号丁字路(写真左)の右角に、 側面に「上尾上町講中」と刻まれた古い庚申塔。 |
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続く緑丘地下横断道信号交差点(写真左)手前右角に、 「中山道上尾宿・平成の道標」碑と屋根に鍾馗さま像の「上尾宿歴史・マップ」案内板。 ここは木戸があったところで、宿場はここで終わり。 |
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宿場通りを過ぎ約13分の、北上尾駅入口信号交差点(写真中)を進む。 交差点左方突当りに、とてもスマートなJR北上尾駅(写真左)。 さらに信号から約13分の久保西信号を直進し、桶川市境界標識で上尾市から桶川市に入る。 |
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桶川宿:参勤交代が確立した1635年(寛永12)頃に宿場が設置された。 上尾宿からわずか3.7km(34丁)という距離であったが、 日本橋から約41km(10里14丁)という宿場町としては絶好の位置にあったが、 同じような位置にある上尾宿よりは旅籠が多かった。 また農産物の集散地として賑わい、穀物問屋が多かった。 特に桶川臙脂(えんじ)と呼ばれた紅花は、山形最上紅花に次いで全国第2位の生産量を誇っていた。 紅花の栽培は、桶川郷(現上尾市)の農家の七五郎が、 江戸小間物問屋「柳屋」から紅花の種を譲り受け栽培したのが始まりと、江戸の勘定奉行の記録に記されている。 本陣1軒、脇本陣2軒。 |
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富士見通り信号交差点を横断し市街地を進み、次の信号交差点手前右角に桶川宿木戸跡碑(写真左)。 ここから桶川宿となる。 さらに交差点右側に、屋根に鍾馗さま像の藤倉家。 鍾馗さま:上尾宿には昔から火事が多く、鍾馗さまを屋根にのせておくと火事除けになると信じられていた。 |
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宿場通り左前方に、火の見櫓(写真中)。 その先右側に、紅花商人としても知られた伊勢茂穀物問屋跡の秋山ビル(写真右)。 さらに先左側に、内部は当時の名残りを残す元旅籠の武村旅館。 |
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左側すぐ先の小路を左折すると、 突当りに寺鐘が桶川宿の時の鐘と言われる1546年(天文15)創建浄念寺(写真左)。 もとに戻り、その先桶川駅前信号交差点を直進する。 |
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右側「お助け蔵」看板の右脇の小路(写真中)を入ると、 穀物問屋木嶋屋の総本家・島村家の、1836年(天保7)建築木造3階建て土蔵(写真右)。 お助け蔵:この土蔵の建築工事は、天保大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、 その報酬で多くの民が餓えから救われたことから「お助け蔵」と呼ばれるようになった。 元に戻り、さらに右側に矢部家蔵造り建物。 |
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続いて右側に、府川本陣跡(写真右)。 少し先左側に、脇本陣跡辺りに建つ市観光案内などを提供する中山道宿場館。 |
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さらに左側駐車場前に、「中山道 桶川宿」案内板(写真左)。 続いて左側東和銀行前に、 宿の繁栄をもたらしていた「五十の市」と人々を守る神さまとして祀られた「市神社の跡」碑(写真中)。 その先左側に、 本堂脇に1713年(正徳3)建立「女郎買い地蔵」がある1557年創建大雲禅寺。 女郎買い地蔵:この地蔵が夜な夜な飯盛り女に会いに出るので、 和尚が地蔵の背中にカスガイを打ちつけ鎖に繋いだ。 これは和尚が寺の小僧の夜遊びを戒めたもの。 |
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その先桶川市役所入口信号交差点(写真左)手前右側に、「木戸址」碑(写真中)。 桶川宿はここで終わり。 交差点右側コーナーに、「中山道桶川宿」碑。 |
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164号線(写真左)をひたすら進み、 信号から約700mのところで桶川市から北本市に入るが、境界標識がなく正確な地点は不明。 北本市に入り約2.2kmの本宿信号交差点(写真中)を横断した左角に、 「北本の歴史」案内板と「中山道北本宿」碑。 北本の地名:江戸時代初期、この地が中山道の宿駅で本鴻巣村と呼ばれていた。 その後宿駅が現在の鴻巣の地に移されて、宿駅のあったところは本宿(元宿)村と呼ばれ、 これが北本の地名の起こりとなった。 |
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交差点から約7分の多門寺信号交差点(写真左)の右手前に、 境内に県指定天然記念物樹齢200年樹高27mのムクロジの巨木(写真右)がある多門寺(写真右中)。 並んで左に天神社。 |
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さらに164号線(写真中)を進み、 中山道古道にある原馬室一里塚を訪ねるため、交差点から2本目の細い道(写真左)を左折する。 この細い道は交差点から約100mの位置にあるが、 現地に中山道標識がないので164号線右側にある「ドラッグ セイム」が目印。 |
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細い道(写真左)を進み、最初の丁字路(写真中)を右折してJR北本駅広場方面へ進む。 |
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左手にJR北本駅(写真左)のある駅前広場(写真中)を直進し、 雑居ビルと埼玉りそな銀行の間の細い道を進む。 |
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約3分ほど進み、交差点(写真右)を左折してJR高崎線踏切(写真中)を渡り、すぐ右折して線路沿いに進む。 線路沿いを約2分進み、左側に「一里塚」案内標識。 |
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畑の中の左片隅に、原馬室一里塚(西塚)(写真左)。 なお線路沿い中山道古道は、北本市と鴻巣市の境界となっているので、左手にある一里塚は鴻巣市に属する。 元に戻り古道を進むが、その先で道が消滅しているので踏切(写真中)を渡り、 再度164号線中山道に合流し、左折して進む。 |
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164号線を約15分進み、鴻巣市境界標識(写真左)で北本市から人形の町鴻巣市に入る。 市街に入るとそれまでの単調な街道風景ががらりと変わり、 道の両側の赤で彩られたカラフルな人形店の風景が目を楽しませてくれる。 まずは「ひな人形」縦看板と電柱にはためく赤い「雛」小旗(写真中)、左側に赤い幟が並び立つ人形店。 |
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その先左側に、 江戸時代から今日までの雛人形や人形に関する古文書・写真を紹介する雛屋歴史資料館(写真左)。 さらに右角に大胆な「ひな人形」垂れ幕(写真中)。 次の本町信号交差点を直進する。 |
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鴻巣宿:当初現在の北本市に位置していたが、宿駅整備にともない1602年(慶長7)に現在地に移された。 鴻巣宿は中山道の宿場町であると共に、 松山への吉見道、忍藩城下町(行田市)に至る忍道、騎西に向かう道の追分宿として賑わい、 大きな規模の宿場町であった。 今も盛んな名産「ひな人形」の起源は諸説あるが、 その1つに、京都伏見の人形師が天正年間(1573~92)に移り住んだのが始まりとされている。 豪華衣装で着飾った古代雛は、「関東三大雛市」(鴻巣・武州越谷・日本橋十軒店)に数えられるほどになり、 一時は人形を作る家が28戸もあったという。 赤く塗られた人形も名物で、赤ん坊の魔除けに使われ人気に博した。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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交差点を過ぎると鴻巣宿、町並みの雰囲気も変わり静かで上品な商店街風景。 両側のブロック歩道に、カワユイウサギちゃん(好きです!)とコウノトリ。 |
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本町交差点から約200mの高野薬局前歩道上(写真右中)に、「鴻巣宿本陣跡」碑(写真左中)。 手前小路を左折した右側に、 猿田彦大神石碑と並んで左に、ここが本陣跡であることを示す碑文の「仲町会館建設記念碑」石碑(写真左)。 その先鴻巣駅入口信号交差点を直進し、約100m先の小路を右折した奥まったところに、 加賀藩が宿泊と利用したことで、加賀藩の梅鉢紋を寺紋として許されている1457創建(長禄元)法要寺。 |
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元に戻りさらに進み鴻神社前信号交差点(写真左)手前右に、鴻神社。 1873年(明治6)に氷川社、熊野社、竹之森雷電社を合祀して鴻三社と呼ばれ、 その後日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して鴻神社と改めた。
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鴻神社から約8分進み、加美信号(写真左)で道は2つに分かれ、 中山道は164号線と分かれ左手の県道365号線を進む。 加美信号辺りまでが鴻巣宿で、当時木戸が設置されていた。 余談:2004.8この地を歩いた時もPM2時頃の同じj時間帯で、40度を超す猛暑の中を夢遊病者となり足元はフラフラ喉はカラカラ。 加美信号の右側のラーメン屋に飛び込み、水をがぶ飲みしラーメン一丁で、ほっと一息で命が救われた。 そのときのラーメン屋が激しい浮き沈みのある世の中で今も健在。時のご夫婦もまたお元気のこととご推察します。よかった! ところで、私は街道歩きの食事はもっぱらコンビニのおにぎりとビール、食堂に入ったのは5街道を通じこれを含めて2回だけ。 ケチッ!ですか、そうではなく時間がもったいないからです、念のため。 極端に交通量が少なくなった365号線を進み、信号から2分ほどでJR高崎線踏切(写真中)を渡る。 踏切から約2分「そば処滝乃家」の分かれ道は、右手の365号線を進む。 なお左手は、糠田河岸、さらに松山へ向かう道。 |
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蓑田地区の365号線(写真左)を、JR高崎線と並行に淡々と進み、 分れ道から約15分の「蓑田観音前」バス停右側に、 羅生門の鬼退治で有名な「源頼光四天王」の一人、渡辺綱の開基と伝えられている蓑田観音堂。 本尊は、源経基が戦いの際に兜にいただいた1寸8分の馬頭観音。 |
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その先宮前信号交差点(写真左)を直進し、県道76号線を進む。 交差点から約3分の蓑田小学校前信号(写真中)を進む。 信号の右手奥に、朱印状十一通、絹本着色両界曼陀羅二幅ある龍昌寺。 |
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元に戻り少し進み、右折した参道奥に、 渡辺綱が、祖父の追善のために創建したと伝えられる宝持寺(写真左)。 再度元に戻り、隣接して渡辺綱を祀ると伝えられる氷川八幡神社(写真中)。 本殿右に、 表面に蓑田源氏の活躍、裏面には渡辺綱の辞世など刻まれている、1759年(宝暦9)建立「蓑田碑」石碑。
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只今15:26.いつの間にか空の青は消えて、風強く肌寒い。 神社から約4分で、武蔵水路(写真左)にかかる中宿橋を渡り、中宿信号を直進する。 武蔵水路:首都圏用水を確保のため、昭和40年完工した利根大堰から行田市、吹上町、鴻巣市の荒川に至る延長14.5kmの水路。 |
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道なりに進み、橋から約5分の信号のある蓑田の追分(写真左)は、左手の県道365号線を進む。 挟まれた三角地帯に、中山道標識と「江戸時代の蓑田追分周辺」案内板。 |
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単調な一本道をただひたすらに足を速め、 鴻巣市から田園の多い吹上町前砂地区(写真左)(2005.10.1鴻巣市に編入され、現在は鴻巣市前砂)に入る。 左側マンション先の丁字路(写真中)を横断し、角に「ここは中山道前砂村」石碑。 他面に「池田英泉の「鴻巣・吹上富士」はこのあたりで描かれた」と刻まれている。 どの方向に富士が見えるか不明であるが、田園が多いこの地なので、晴れていれば今でも素晴らしい富士が見える? |
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365号線を進み、左側に「史跡 一里塚」碑(写真左)。 案内板を含め文字は剥がれ、汚れて読みにくく、しかも碑は傾いている。 碑の側面に一里塚と同じ書体で「伊藤」という苗字があるということは、個人の善意で設置された一里塚かも。 さらに5分ほど進み、前砂信号分かれ道(写真中)は右手の365号線を、 JR高崎線沿いに進む。 |
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追分から約10分の最初の踏切(写真左)を右折して渡り、すぐ左折する。 ここから以降、写真の色調が変わってしまった理由。 デジカメ用の3コの電池を全部使い切ったので、予備の以前使ったいた古いデジカメに切り替えたが、 メカは理屈はともかく実技はまるっきし弱いため、デジカメの設定調整もしないまま撮り続けてたためで、 失礼しました。 |
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線路沿いに進み、すぐ左側の電柱に明らかに手書きの中山道標識(写真左)。 踏切から約3分の分かれ道(写真中)は、右手を進む。 三角地帯に、眼病にご利益のある妙徳地蔵尊。 |
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すぐ先で県道307号線と合流(写真左)し左折して進み、吹上駅前信号交差点を直進する。 |
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当時両側に茶屋本陣や立場があった道を進み、 次の吹上本町信号丁字路(写真左)を過ぎ最初の道を左折する。 ここには特に標識もなく、地元の商店街の人たちに中山道を尋ねても分からず。 商店街の道(写真中)を進み、右側に宝筴印塔といぼ地蔵尊で有名な東曜寺。 |
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突当りを、道なりに右にカーブして一直線の道(写真左)を進む。 右側に、吹上地区鎮守の吹上神社。 |
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県道66号線高架(写真右)下に、「吹上間の宿」案内板と「中山道 間の宿」碑(写真右中)。 中山道はここの先でJR線で分断されているので、 案内板の後ろの階段を上り、JR線路(写真左)を横断する陸橋を渡る。 |
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反対側の階段(写真左)を下り、(こちら側には中山道標識皆無)右折して線路沿い(写真中)に進み、 突当りで消滅した旧道と合流し道なりに左にカーブし、住宅街のゆるい坂道を上り続ける。 |
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階段を下りて約10分、荒川の堤防に突当る分かれ道(写真中)は、 右手を進み今が盛りの菜の花(写真右)に囲まれ道から堤防に上がる。 突当る手前左側に、ひっそり建つ権八延命地蔵堂。 権八延命地蔵堂:平井(歌舞伎では白井)権八が江戸へ向かう途中,路銀に困りこの地蔵前で上州絹商人を殺害 300両を奪った。 傍らで見ていた地蔵に「今のことを他言するな」と口封じをしたところ地蔵が「己れは言はぬが汝も言うな」と 口をきいたという。そこから別名「物言い地蔵」とも呼ばれている。 銘文によれば1698年(元禄11)に建てられているが,権八はその前に処刑されている。。 また権八地蔵は、鴻巣宿の勝願寺に1体とこの先の久下にも1体あり都合三体ある。 地元の人たちにとっては、それぞれが「真実」であるだろうし、3ヶ所あってもよいのではないだろうか。 ただ「事実」となると1ヵ所だけになり、3ヵ所うちの1ヵ所、または全部異なるということになりかねず、余分な詮索不用では?。 荒川の土手と続くこの辺りは、当時はとても寂しい街道であったことが現在の様子からも十分伺える。 以下の写真は、2004.8.8に歩いたとき撮った写真。 今回の写真は季節がら茶一色でとても寂しい写真だったので、差し替えたもの。 |
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堤防から熊谷市となり、熊谷堤(写真中)と呼ばれている。 熊谷堤:荒川の洪水を防ぐため、天正年間(1573~85)に鉢形城主の北条氏邦が築いた堤防。 堤防左手は、川など全くみることができない荒川の河川敷(写真左)。 堤防上を約5分ほど進み、右側に「決壊の碑」石碑。 「決壊の碑」案内板:埼玉県の中央を流れる荒川は、荒れる川としてたびたび洪水を起こし住民を苦しめてきた。 昭和22年9月のカスリーン台風では、この地点で濁流により堤防が決壊し、埼玉県北部の村々を襲うとともに おりからの利根川の決壊した濁流と合流し東京まで達し、多の人命を奪うとともに付近一帯に甚大な被害を与えた。 決壊跡付近の整備は概成したが、いつまた大災害が起きかねない。 このため堤防や護岸などを整備し、河川改修を推進していく。 (要約) 平成8年国土交通省 |
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前方に大きなマンションが2棟。 時は17:15、今日はここまで。 |
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マンションの間の道を下り、約250m先のJR行田駅へ。 駅員に駅付近に宿泊するところを尋ねたら、全くないとのこと。 仕方なく携帯電話で、次の熊谷駅付近の2,3のビジネスホテルに電話し、無事宿泊所を確保。 |
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