歩く 中山道
 伏見宿 → 太田宿
 (岐阜県可児郡御嵩町)   (岐阜県美濃加茂市)
 iー愛ロマンチカ
  
2008.9.4~7日間で、伏見、太田、鵜沼、加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井の各宿を歩いた。
2008.5に御嶽宿まで歩いてからちょうど4カ月目で、間隔が開きすぎている。
私の街道歩きは、次の条件が必要となる。
 ・前回歩いた街道のホームページを完成させていること.
・血豆のできた足の指の爪が全てはえかわっていること
このうち年齢のせいか、爪の生えかわりが極端に遅くなり、次回の街道歩きに支障を来している。
最近は殆ど、はえかわらないままのフライング出発で、ドクターストップが気にかかる。

   
伏見宿から太田宿までの区間は、2008.9.4に歩いた。
午前中は青空の快適な街道歩きであったが、
そのうち天候が怪しくなりそして太田宿で今年はやりの集中豪雨にあってしまった。
この区間は、中山道標識が極端に少なく、
また標識位置が江戸側から歩く人にやさしくなかったりして、道に迷う不安の旅をせざるとえなかった
。    
経 路
御嶽駅)一般道→国道21号線→畑道→21号線(伏見宿)21号線→一般道→県道248号線→太田橋・太田の渡し
                    国道21号線←一般道←土手道←一般道(太田宿)一般道土手道 
横浜からJR東海道新幹線、名鉄線と乗り継いで、御嵩駅(写真左)に9:10到着。
駅の乗降客は数人。無人駅であったが確か前回利用したときは親切な駅員がいたはず。
空は青空、朝のすがすがしい空気をいっぱい吸い込んで、出発。
駅舎を出て駅前の十字路を左折し、
国道21号線方向の北へ進む。
この先中山道標識が殆どなく、道中不安になることが多々。

      
150mほど進み、カラフルな原時計店建物のある十字路(写真右)を左折する。
御嵩町中公民館前を通り、県道341号線交通標識の立つ
交差点(写真中)を直進し、郵便局前を通り、
原時計店から約600mのところの丁字路を右折する。
丁字路を左折すると、すぐ先に名鉄御嵩口駅。
   
すぐ先の分かれ道(写真左)は右手を進み、突当りで国道21号線と合流し、左折する。
    
交通量のある21号線(写真左)を数分進み、右側仲町バス停前に町重要文化財「鬼首塚遺跡(写真中)
奥の社に、
鬼首塚碑(左)と関太郎首塚碑が並び立つ。
鬼首塚伝説:鎌倉時代関の太郎と呼ばれる悪党がいて、乱暴狼藉の限りをつくし住民を悩ましていた。
住民の願により、この地の地頭が4人家来を京より派遣し、祭礼の日に女装して現われた関の太郎の首を切った。
4人の家来は、首を首桶に入れ検分のため京都に運ぼうとしたところ、首桶が急に重くなり一歩も進めなくなった。
また首桶の縄が切れ首が転がり出てその首も動かすことが出来なくなったため、やむなくこの地に首を埋めたという。

   
その先数分の大庭信号交差点(写真左)右角建物前に、「覚済心霊神巨大石碑(写真左中)
交差点を直進し、約200mのところで21号線と分かれ
右斜めに入る道(写真右中)を進む。
この道の入口左側足元に、小さな「
中山道標識があるがわかりにくく、見過ごしてしまう。
現地では、「新木野バス停のすぐ先」か、「交通標識の手前」を目印にするとよい。

   
道なり(写真右)に進み、用水溝に沿い(写真中)、21号線と並行に400mほど進んで、
再度
21号線と合流し右折する。
   
先に進み、右側に創建930年(延長8)と古く、源義家などが社殿を修営したと言う八幡神社(写真右)
その先数分の
顔戸信号交差点(写真中)、21号線の左側に沿って悠然と流れる可児川
   
交差点右手奥のこんもりとした木立は、顔戸城跡(写真左)(顔戸は、「ごうど」と読む。)
木立入口に、
顔戸城址由来が立つ。
顔戸城由来:応仁の乱(1467~77年)の頃、中央の政権をも揺るがすと言われた武将斎藤妙椿が、
東美濃の守りとしてして築城した平城。
規模は東西150m 南北167mで、空堀と高く盛られた土塁の内側に館があった。

    
21号線に戻り5分ほど進み、21号線(写真左)と分かれ右斜めに入る道(写真中)を進む。
この入口右側角に、
比衣一里塚跡碑が草むらに埋もれて立っている。
斜めに入る道には入口に車止めがあり、ここから車両は進入できないようになっている。

   
閑静な集落(写真左)を道なりに左にカーブして進み、21号線高架下(写真中)を潜り、
木立の道を進む。
   
再度集落に入り、比衣川にかかる土橋を渡り、道なりに進む。
その先の
丁字路(写真左)を直進し、右にカーブして進む。
丁字路を左折すると、すぐ21号線。
突当りの
4差路(写真中)は、正面の中山道道標に従い左折する。
   
のどかな道(写真左)を進み、数分で21号線に合流(写真中)し、右折する。
出口右角の深い草むらの中に、「
左伏見宿 右御嶽宿道標がひっそりと立っている。
   
ぽっかり浮かんだ白い雲の21号線(写真左)を進み、
5分ほどの右側「
可児警察署伏見駐在所看板(写真右)のところから、斜め右に入る道を進む。
   
駐在所建物の左側の舗装されたばかりの(写真右)を進み、
すぐの丁字路を左折して
橋を渡り畑の中を直進(写真中)する。
集落に入り細い道を道なりに左折して、さきほどの
21号線に合流し、右折する。
     
伏見宿:木曽川の流れが変わり土田の渡し場が、今渡の渡し場になり土田宿が廃止になった。
そのため間の宿であった伏見宿が、駅制度制定後92年目の1694年(元禄7)に格上げになった。
伏見宿北を流れる木曽川の新村湊船着場が、物資輸送の重要な商業地の拠点であったため、
宿もそれなりの賑わいがあった。
ただ基本的には多くは農業従事者であったため、苦しい宿場経営で毎年助成金を受けていた。
1750年(寛延3)の大火で、防火のため道幅を広げたが宿場は寂れ潰れる家もあった、という。
現在、当時の名残りを残すものは殆どない。
本陣1、脇本陣1

   
ゆるい(東坂)の21号線を登りきった左側伏見公民館敷地に、
左から順に「
伏見宿本陣之跡、「伏見宿、「是よ里東尾州領(写真左)が立ち並ぶ。
既に伏見宿に入っている。
岡田与治右衛門が務めた本陣は、実際には道の反対側にあったと言う。
「是よ里東尾州領」碑は、西坂にあったものを移設してきたもの。

   
宿場通りを進み、伏見信号交差点(写真左中)右コーナーに、
きれいに整備されたトイレも休憩所もある小さな
一本松公園(写真右中)
ここに、「
左 兼山 八百津 右 御嵩道標(写真右)が立っている。
交差点を直進し、左側にとても
古そうな建物。宿場の名残り?
   
宿場のはずれの坂(西坂)を下り、
途中「
コーヒの珈豆屋看板(写真左)のある右側に、「播隆上人名号(写真中)
御嵩町にはこの名号碑が9つ残っている。
播隆上人:1786年(天明6)現在の富山市に生まれ、生涯一介の苦行僧として過ごした。
前人未踏の3,180メートルの槍ヶ岳の開山を志し、
1828年(文政11)に筆舌に尽くし難い辛苦を重ねてその頂上を踏みした。
以来5回にわたり登山し、
一人でも多くの人が安全に登山ができるように槍ヶ岳の岩壁に鉄 鎖を懸けるための浄財集めに尽力をした。
1840年(天保11)にその念願がかなえられ、槍ヶ岳の開山となった。
さらに坂を下り、県道122号線との上恵土交差点を直進する。
信号から右手は、当時重要な海上輸送基地であった木曽川の新村湊跡へ通じる道。
   
その先で左へカーブするゆるい坂(写真左)を上り、突当りの細い道を直進する。
途中御嵩町から可児市に入り、市原産業の看板のところで
21号線と合流(写真中)し、右折する。
21号線を進み、前方の21号線交通標識と並び、中村玉緒が名誉村長の「
日本昭和村→案内板
   
21号線を7分ほど進み、交差点右側に中恵土地下道入口(写真左)
入口脇に「
中山道 一里塚の跡 これより約30m東(写真中)があり、その辺りをうろうろしたが全く不明。
交差点を直進し、どこまでも続くゆるい坂を下り、
川合口信号交差点を横断し、進む。
この頃ふと空を見上げると、朝の青空はどこへやら雲ゆきの怪しい天気の予兆

   
可茂公設市場信号交差点(写真左)で21号線と分かれ右折(写真中)し、
道なりに左にカーブして可茂公設地方卸売市場前を通り、
21号線と並行の細い道をしばらく進む。
ちなみに「可茂」とは、可児市の「可」と美濃加茂市の「茂」からとった名前。

   
細い道から車道に出て、信号から約7分でJR太多線中仙道踏切(写真左)を横断。
踏切手前右側に、新旧石碑が5本と灯篭、そして「
辞世塚(写真中)。はて辞世塚とは?
さらに進み、国道21号線との
住吉信号交差点を直進する。
   
その先右側に、1096年(永長元)愛知県津島で作られた太鼓が残っているという今渡神社(写真中)
その先で
今渡公民館南信号交差点(写真左)で、左からの県道248号線と合流し直進する。
すぐ右側に、
龍洞寺
   
その先で道は2つに分かれる(写真左)
左手の直進する道は、江戸中期まで使われていた土田の渡し場と土田宿へ通じる古中山道。
その後木曽川の流れが変わり上流側に今渡の渡し場と太田宿が作られ、土田の渡し場と土田宿は廃止された。
ここでは、右にカーブする県道248号線の今渡り場と太田宿へ通じる道を進む。
カーブする右側に、
富士浅間神社
   
前方に、木曽川にかかる青い太田橋(写真左)
橋の手前右角の広場に、「
今渡の渡し場跡
木曾のかけはし 太田の渡し 碓井峠がなくばよい 
とうたわれた難所の1つと刻まれている。
なお、こちらの岸を今渡の渡し場、対岸を太田の渡し場と呼んでいる。
中山道3大難所の太田の渡しも、上流側にできたダムで流れが穏やかになりその名残りがない。
この渡しは、昭和2年太田橋が架かるまで利用されていた。
実際の今渡の渡し場の跡は、橋から下流へ250mほどのところあるが、急ぐ旅の身につき割愛させてもらった。

   
太田橋右側の歩行者専用橋(写真中)を渡り終えたところに、「ようこそ美濃加茂へ 日本ライン」大看板。
太田橋の半ばで、可児市から美濃加茂市へ入る。
ここから右折して下り、右側の駐車場から川岸に下りたところに、日本ライン下り乗船場がある。
そこから岸沿いに太田橋の下を潜り下流へ進んだところに、太田の渡し場跡があるが、
橋の下の足場は悪そうでまた一人ではちょっと気味悪い雰囲気。ということで退散。
元へ戻り、車道反対側左手に化石林公園休憩所(写真左)
さらに進み、川が流れていない
もうひとつの太田橋を渡る。
   
橋を渡り、車道の反対側に「美濃加茂市へ大縦看板(写真左)立ち、
この看板の脇から木曽川の土手に進むが、横断歩道がない
その先進み、御門町信号交差点で横断して大縦看板まで戻り、土手へ進む。
土手から川岸へ続く坂道(写真中)を下り、化石林公園碑
平成6年木曽川河床から、約1900万年前の樹木の化石群が発見されたことで、
この地を整備して「化石林公園」としている。

   
さらに進み、「太田の渡し案内碑(写真左)
その先に
中山道石畳跡(写真中)、そして太田の渡し場跡
その左前方に今渡ってきた青色の太田橋。
当時は太田の渡し場に降りた旅人は、この石畳を歩き、今来た坂道を上り、土手に登って木曽川沿いに歩いていた。

   
このときぽつぽつと雨が降り始め、悪い予感。
先ほどの坂に戻り、
坂途中の左側の
階段(写真右)から土手に上り、左折して土手上(写真中)を右にカーブして進む。
右手下方に
化石林公園と木曽川、太田橋(写真左)
写真はくすんで平凡に見えるが、実際はとても美しい景色で、絵になる。

   
土手(写真左)をしばらく進み、美濃加茂市文化会館裏を過ぎ、
右側に新しい「
岡本一平終焉の地(写真右)
岡本一平:函館出身の大正・昭和期の漫画家で、妻は小説家岡本かの子、長男が画家岡本太郎。
その左脇に、木の葉に隠れてたたずむ「
中山道太田宿案内板で、太田宿までの経路も記されている。。
:実はここから太田宿へ入るまでの経路が、
この案内看板、地元の中山道パンフレット、参考にした他のいろいろな資料で、
経路が違うということ。
ここでは以下に、代表的な2つの経路を示す。
ただ現地には、中山道標識など全くなく疑心暗鬼で何度も行ったり来たりで、無駄な時間を費やしてしまった

雨は本降りにならず、いつの間にか止みひと安心。
    
太田宿:太田宿は尾張藩領で、1782年(天明2)に太田代官所が設置され
恵那から鵜沼までの約4.5万石の村々を統括していたため、政寺、経済、文化の中心地であった。
また交通の要衝で、中山道と飛騨高山道、善光寺道の追分としても栄えた。
中山道3大難所の1つ、太田の渡し場もある。
現在の街並みは、当時の名残りが感じさせるものが結構多い。
坪内逍遥の生誕の地。
本陣1、脇本陣1。

   
案内板から、土手と分かれ右の坂道(写真左)を進む。
経路1:すぐ先の丁字路の建物角から、右折して進む。
   
飛騨街道追分の神明堂交差点(写真左)に出て左折し、
左手の道(写真右)を進み、中山道太田宿道標に従い宿場に入る。
右手は国道21号線。

   
経路2:前記案内板に記載されている経路。
丁字路を直進し、道の右下に「水神」、「秋葉神社」、「御嶽神社」などの
5つの石碑(写真左)が並ぶ。
全ての碑の前に、ロウソクとお茶が供えられていて、今でも地元の人たちに熱心に信仰されていることがわかる。
その先で最初の
右側に入る草むら道(写真左)を、茶色屋根を目印に進む。
   
建物の間のこれが中山道?と思う細い道(写真左)を進み、宿場通りに出て左折する。
出口左角に、「
南無妙法蓮華経。(写真は宿場通りから写し、左側の細い道は今通ってきた道)
   
ひっそりした宿場通り(写真中)を進み、左側に新町木戸門跡碑(写真左)
その先で、
枡形道を左手に進む。
   
枡形道左側に、500年の歴史をもつ祐泉寺(写真左)
祐泉寺:1474年(天明6)創建。境内には松尾芭蕉、北原白秋、坪内逍遥などの歌碑や数多くの石仏が並ぶ。
槍ヶ岳を開山した播隆上人の墓碑や日本ラインの名付け親の志賀重昮の碑もある。
この辺りは、いかにも宿場通りという
街並
   
左側に無料太田宿案内所の旧蹟小松屋吉田家住宅(写真左)
大田宿の各種の地図や案内書などが無料で多数あり、トイレもある。
さらに左側に、江戸時代の原型をとどめ
国指定重要文化財脇本陣跡の林家住宅
林家は庄屋や尾張藩勘定所の御用達も務めたていた。
脇本陣林家住宅:中山道で唯一当時のままの遺構を残している建物として、昭和26年国の重要文化財に指定された。
主屋両端の卯建が、ことのほか目立つ。
現在の建物は明治6年大火のあと、再建されたもの。
   
その先左側に、中山道や太田宿の資料が多く展示され、休憩もできる太田宿中山道会館(写真左)
道の反対側に、福田家が務めた
本陣跡。現在は門しか残っていない。
門は、1861年
(文久元)皇女和宮が徳川家茂との結婚で江戸に向かう時に新築されたもの。
   
宿場のはずれに進み、
緑色「TOSTEM]看板のある
交差点(写真中)の右角に、高札場標識(写真右)
「TOSTEM」看板下に、「
左 西京伊勢 右関上有知道標
このときあっと言う間に雨が降り出し、それも今年はやりの集中豪雨型。
リックサックから慌ててカッパを取り出し、身支度をする。

    
交差点を左折し、雨の中の(写真左)を進む。
右側の
民家建物(写真中)に「庚申堂」看板と、その前に小さな社の秋葉神社。
さらに進み、突当りを道なりに
右にカーブして進む。
   
その先で国道41号線ガード下(写真左)を潜ると、右手に太田小学校。
太田小学校は、尾張藩代官所跡でここの役所長屋で坪内逍遥が生まれた。
小学校手前から
左の道(写真中)に入り、右側に虚空蔵堂
虚空蔵堂は太田宿の出口にあたり、ここには京への道標があり古くから旅人への道案内となっていた。
また、1221年
(承久3)「承久の乱」の木曾川合戦では、
木曽川を挟みこの辺りが戦場となって朝廷軍
(太田側)と幕府軍(可児側)が戦った。
   
虚空蔵堂から右折し、(写真左)を上って土手(写真右)にあがる。
坂の途中右側に、坪内逍遥夫婦そろってこの木の根本で記念写真を撮ったという
ムクノキ
   
左手に木曾川を見て土手を進み、車止めのあるところで、右側の道(写真左)に降りて土手と並行に進む。
すぐ先右前方の
ベージュ色建物(深田ポンプ場)(写真中)の手前で、階段を下りて左折し、下の道を進む。
深田ポンプ場敷地角から、右折する。
   
すぐ左折し、幼稚園の脇の細い道(写真左)を進み、深田神社前(写真中、右)に出て、道なりに進む。
   
集落の中(写真右)をまっすぐ進み、突当りで国道21号線と合流(写真中)し、左折して21号線を進む。
この頃は雨も小雨となる。

   
車の交通量の多く単調な21号線を進み、加茂川を渡り美濃加茂市から加茂郡坂祝町に入る。
その先パジェロ工場前に、取組一里塚跡碑があるはずであるが見つけることができなかった。
前方の
歩道橋(写真右)のある丁字路で、右折は坂祝町役場に通じる道。
丁字路を直進し、左手に
行幸公園入口(写真中)
ここで道路を横断し、公園から土手に上り、21号線と並行に走る
木曽川堤防を進む。
ここは飛騨木曽川国定公園、景色は最高。
   
勝山信号のところで、堤防を下り(写真左)21号線を進む。
時は、16時29分。

予定より約2時間遅れ。
潔く今日はこれまでと、タクシーを呼んで愛知県犬山市の犬山温泉へ。

    
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