歩く 中山道
細久手宿 → 御嶽宿
 (岐阜県瑞浪市)        (岐阜県可児郡御嵩町) 
 iー愛ロマンチカ
この区間は、2008.5.3に大湫宿に引き続いて歩いた。
この日は朝から快晴で、旅の心もルンルンで山岳地帯の街道を快歩したが、
逆に午後からの日陰のない舗装道路では頭にガンガン照りつける太陽、足元からの照り返しで、
自動販売機など無縁の時間帯は地獄の苦しみに変わるのであった。
この区間の特徴は次の通り
・琵琶峠石畳 日本一長い石畳は、当時のままよく整備復元されていてその格調高い美しさはまた日本一と言える。
・山岳コース 西坂から藤上坂までの区間は、緑に囲まれた尾根道などのコースでその美しさは映画の1シーンを見ているよう。

    

前夜宿泊した新白狐温泉旅館の美人女将の運転する車で、前日の終点高札場に到着。
8:35 高札場(写真左)を出発、すぐ左からの県道65号線と合流して道なりに進む。
空は快晴、朝の空気は新鮮で身も軽く、気分に浮かれあっと言う間に左側に白い
大湫病院(写真中)
その先右側の
石畳を進み、琵琶峠に登る。
   
石畳を上りすぐ左側に、両側の仏像に挟まれて、
太田南敏の壬戌紀行「是より坂を下ること十町ばかり山には大きなる石幾つとなく 
長櫃の如きもの俵の如きもの数知らず」刻む
中山道 琵琶峠東上り口(写真左)
琵琶峠は標高558m長さは約1kmの、
美濃16宿で一番高いところにある峠で古くから中山道の名所であった。
ここには日本一長い石畳(全長約730m)が敷かれていた。
琵琶峠を中心とする区間は時代の開発から取り残されていたため、
石畳、一里塚などが現存し当時の面影を残している。
平成9年から12年にかけて石畳や一里塚などを整備し、江戸時代当時の琵琶峠に整備復元している。

大きな石が丁寧に敷きつめられて続く、本格的で格調高いな
琵琶峠石畳(写真中)は、
五街道一、日本一の美しい石畳であると思う。
朝の清々しい木漏れ日を受けてた
石畳を、登り続ける。
   
石畳を10分ほどで峠の頂上(写真左)となり、右側に1763年(宝暦13)建立馬頭観音と皇女和宮歌碑
歌碑「住み馴れし都出でてけふいく日 いそぐもつらき東路のたび」
和宮の心、察します。
     
峠を過ぎ、立派な石畳を下り、
石畳の両側にほぼ完全な姿で残っている江戸へ91里、京都へ43里の
八瀬沢一里塚(写真左、右)
   
その先左側に、立派なトイレ(写真左)
さらに下り、
舗装道路(写真中)を横断し、さらにゆるい下り坂の石畳を進む。
約20分の琵琶峠越えは、緑の中の石畳を踏みしめとても気分爽快で、楽しい時間であった。

   
その先で石畳が切れ(写真左)、真っ青な雑草区間(写真中)がしばらく続く。
林の中を抜け出て
民家の脇を通り、下る。
   
下り切ったところで県道65号線(写真右)と合流して進む、
合流点左側に、「
中山道 琵琶峠西上り口
   
朝から続く真っ青な空の下、湿度は低く足も軽やか。
道なりに県道65号線を5分ほど進み、
道は分かれ(写真中)左手の県道65号線を進む。
道が分かれる手前右側に、
北野坂の廻国塔(写真右中)が立ち、脇のヤブ道を入ると1777年(安永6)建立の廻国塔(写真右)
法華経を六十六部写経し、全国六十六州にそれぞれ奉納した行者の記念塔で、六十六部碑とも呼ぶ。
県道65号線を進み、
左側に「
株式会社国際犬訓練所 インターナショナル犬舎建物(写真左中)
犬も国際化されているのだろうか?ただ聞こえる犬の声は確か日本語のようだったが。

さらに進み、右側に「
一つ屋茶屋跡
この辺りでたった一軒の茶屋であったので、その名がついたと言う。今でも人家など全くないところ、
その勇気に敬意。
全く静まり返った林に囲まれた県道を進み、右側に「天神前バス停(写真左)
脇にこの辺りで一番古いと言われる、
天神辻の地蔵尊(写真左中)
さらに進み、左側の瑞浪農場の前を通り、右側法面に
焼坂の馬頭様(写真右中)
ゆるい坂道を上り、左側の「
旧中山道 細久手宿2.7km標識を過ぎるとすぐ坂の頂上。
   
坂の頂上で右からの道と合流して天神坂(写真右中)を下り、
右側に、長さ約50m、巾15mの池の中に弁財天の宮があある
弁財天の池(写真右)
昔から弁財天とカキツバタが有名で、必ず旅人が立ち寄ったところ。
道はゆるい下り、上り、下りとなる左側に、なになに「
笹口バス停と消火栓(写真中) !?
どこを見渡しても全く人家の気配なし、それに火の気になるようなところも。今も謎が解けない。
そのすぐ先左側に、「
瑞浪市天然記念物 南恒外ハナノキ自生(写真左中)
樹齢20-30年、樹高5-15mの6株28本が自生しているということであるが、
無知な私にはどれがどれやらさっぱりわからず。
その数分先左側に、
根元から2つに分かれ、夫婦円満のご利益のある木として街道時代の名物であった「
女男松の跡
   
ゆるい(写真左中)を5分ほど上り頂上の両側に、ほぼ原型を留めた奥野田一里塚。
南塚(写真左)は直径10m高さ4m、北塚(写真右中)は直径13m、高さ3.5m。
9分ほど坂を下り右側に「三国見晴らし台と馬頭様」碑が立ち、
法面のちょっと高いところに
馬頭観音
  
細久手宿:江戸から49番目の宿で、他の宿より遅い慶長1610年(慶長15)に設置された。
海抜420mの山中にある尾張藩所領の小さな宿で、問屋の大黒屋が尾張藩定本陣となっていた。
大黒屋は現在も旅館業を営んでいる。
本陣1軒、脇本陣1軒。

   
その先の坂の途中で、右からの県道352号線と合流(写真右中)して細久手宿に進む。
合流点角「細久手」バス停脇の小さな広場に、「
日吉第2小学校跡(写真右)
県道65号線の左側の技研日吉工場前を通り、県道65号線を道なり進み、左折して細久手宿に入る。
その先の右側庚申堂参道入口に、「
高札場跡(写真左中)
ひなびた
宿場通りを進む。
   
宿場通り中央の、左側に細久手公民館(写真左中)
右側に当時の面影を残す元問屋の
旅館大黒屋(写真右中)
本陣、脇本陣が手狭だったうえ、尾張徳川家が他の大名との相部屋を嫌ったため大黒屋が尾張藩本陣と定められていた。
従って本陣に準じたつくりが許されていて、現在もうだつ、式台、上段の間などがそのまま保存されている。
なおこの大黒屋は、大井宿から伏見宿の40km区間で唯一の中山道沿いの宿泊施設である。
その先右側に、小栗八郎右衛門家「
本陣跡(写真右)
さらに左側雑草の中に、小栗八左衛門家「
脇本陣跡
   
なんの変哲もない宿場通りをあっという間に通り過ぎ、
宿場外れの
丁字路左側電柱(写真左中)脇に「東海自然歩道道標(写真左)
直進は「平岩近道」、丁字路を右折は「開元院(本線)」とある。
「近道」と「本線」に迷い、近所の家の人に尋ねてもあいまいで、結局旧中山道に近道は不要と右折して山道を進んでしまった。
間違いを確信し、引き返すまでの往復30分は痛いロスタイム。
ここで改めて注意したいのは、中山道には「旧中山道」と「東海自然歩道」道標が共立し、その経路は多くの場合は一致するが、
一致しない所もあるということである。
数では、東海自然歩道が圧倒的に多く「線」での表示、旧中山道は少なく「点」の表示で、現地ではつい東海自然歩道に頼るが
経路が一致しないところでは混乱してしまう。
旧中山道は直進し、ゆるい坂を下り100m先右側法面(写真右中)上の小さな石窟に、
「九万九千日観音」とも呼ばれて信仰を受けた
細久手坂の穴観音
   
国道65号線をさらに進み右側に、
尾張津島神社、京都八坂神社、江戸天王社の分詞で、12世紀後半から文献にある
津島神社(写真左中)
その先で
道は分かれ(写真左)、左手は県道352号線、旧中山道はそのまま県道65号線を進む。
3分ほど先右側の足元に、とても小さな「
旧中山道くじ場跡(写真右中)
くじ場って何?富くじでも売っていた場所?それにしても失礼ながらこんな場所で、誰に?謎の残る碑である。
さらに進み、左からの
県道と合流して進み、
その先の平岩の辻で366号線と交差して坂を上る。

   
坂を上り切ってところで、県道65号線と分かれ左側の西坂(写真左)を進む。
西坂入口に、「左 中山道西の坂 旅人の上り下りや西の坂」
道標(写真中)
さんさんと陽が降り注ぐ西坂を上り、右側石垣の上に
秋葉坂三尊石窟
左の石窟に1770年
(明和7)の千手観世音、中央の石窟に1802年(寛政13)の一面六臂の馬頭観音、
右の石窟に1768年
(明和5)の三面六臂(顔が3つで腕が6本)の馬頭観音が安置されている。
    
道は下りとなり、左側に「鴨之巣道の馬頭文字碑」碑が立ち法面奥に馬頭観音(写真左)
さらに900mほど進み、
鴨之巣辻(写真右中)と呼ばれる交差点の左角に「右旧鎌倉街道迄約一里余道標(写真左中)が立ち、
ここは鎌倉街道追分。
その脇にとても古そうな
道祖神(写真中)
緑の木立の中を、木漏れ日の道を、ハイキング気分で
下り坂(写真右中)を快適に歩く。
西坂から藤上坂までの約1時間は、13峠とはまた違ったこれぞ山岳中山道を思わせてくれる区間。
数分進み、右側草むらの中に「
切られヶ洞
ほらあな(洞)らしきものはないが、昔旅人がここにある洞に逃げ込んでは切られてしまうことがあったのかも知れない。
(独断解釈)

   
さらに(写真中)を100mほど下り、両側に江戸へ93里京へ41里の鴨之巣一里塚(写真左、右)
地形の関係で、塚は16mずれてつくられている。

   
そのすぐ先で、右側に「ようこそ瑞浪市へ案内板(写真左)が立ち、
ここが行政境界で瑞浪市日吉町平岩から可児郡御嵩町津端に入る。
左側
標識(写真左)は「この先車両は通り抜けできません」
坂道は右にカーブして
下り(写真中)、その先の分かれ道は、左手は鬼岩へ、旧中山道は右手の坂を下る。
   
映画の1シーンのような素敵な尾根道(写真左)を下り、木立の中の藤上坂(写真中)を下り続け、
突然
前方が開ける。
   
足元にやさしい草道(写真左)を下り、
右側石垣のところに江戸時代酒造業を営んでいた「
山内嘉助屋敷跡(写真中)
すぐ先で道なりに左折し、
田圃道を進む。
   
突当りで何故か民家の敷地(写真左、左中)の中を遠慮しながら通り、
舗装道路に出て
突当り(写真右中)の三叉路は右手の坂道を下る。
道なりに進み
分かれ道は、道標に従い右手の道を進む。
のどかな田圃道と言いたいが、13時過ぎのこの時間気温は上昇し遮るものもなく、熱射はじわじわと身体に利いてくる。

   
突当りの車道(写真右)を横断して反対側の細い道に進み、
その先で
県道65号線と合流(写真中)し左折し、津端川にかかるを渡りカンカン照りの道を進む。
   
もうとっくに飲み水は切れ喉はカラカラ、しかしどこにも商店も自動販売機もなし。
右側の津橋公民館前を過ぎ3分ほどで、信号のない
変則5差路(写真左)
旧中山道は上り口に「
中山道至御殿場道標が立っている、右手の道を上る。
   
小さな集落を通り(写真中)は平坦になり、左手の開けた農村風景(写真左)を眺め、竹林の中の坂を上る。
   
延々と続く上り坂(写真左)、左側(写真左)に数羽の鴨が泳ぎ、
その前方の人家のところで
道は分かれ、左手を進みさらに坂を上る。
人家手前左側の
白い容器は、「くみあい配合飼料」と書かれた円錐容器を何故かさかさまに立てたもの。
   
さらに5分ほど上り、頂上(写真左)の右側の階段脇に「御殿場
階段を上ると、展望台がある。
1861年(文久元)皇女和宮の行列が中山道を下向した時、
ここに休憩のための御殿が造られたことから、御殿場と呼ばれるようになった。

   
頂上から坂を下り、分かれ道(写真左)は左手を進み、次の分かれ道(写真中)は右手を、
次の次の
分かれ道は左手を進み坂を下る。
   
途中御殿場から約500m左側に、「唄清水」碑の立つ清水(写真左)
現清水は岐阜県名水50選に選ばれている。但し現在は生水では飲めない。
清水の傍らに唄清水のいわれとなった1854年(嘉永7)建立「馬子唄の響きに波たつ清水かな 五歩」句碑。(五歩は詠人)

竹林のトンネル(写真中)
を抜け、人家の前を通り、県道と合流する。
   
合流点左側に、岐阜県名水50選の一つ皇女和宮も一息でのみほした一呑み清水(写真左)
但し現在は生水では飲めない。

皇女和宮が中山道を下向した折この清水を賞味して大変気に入り、
のちに多治見の永保寺に滞在したときわざわざこの清水を取り寄せ、点茶をしたと伝えられている。
一呑み清水の前での
分かれ道(写真中)は、
三角地帯の「舳五山茶園 右中山道石畳」
道標に従い、右手の県道の坂を下る。
    
2分ほど下り、右側に「十本木立場(写真右)
その先左側から、「中山道」標識のある
細い道(写真中)を上り、なりに進む。
   
2分ほどで、右側に謡坂十本木一里塚(写真中)
続いて右側に、安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」のモデル地案内版(写真右)
江戸時代の代表的浮世絵画家安藤広重が、
「御嶽宿」では木賃宿を中心に囲炉裏を囲んだ旅人の穏やかな談笑様子を描いている。(
右図
その作品のモデルとして選んだ場所はこのあたりだという。
道の反対側に、風化で読みずらくなっている「
十本木茶屋跡案内板(写真左)
   
そこから(写真左)は急になり、すぐ先の分かれ道(写真中)は左手を進み、謡坂石畳を下る。
石畳区間は300m続き、この間車通行禁止。
旅人が急な坂道が続くこの辺りを謡を詠いながら歩いたことから、「謡坂」と言われるようになったと言う。

   
途中右側の「左 マリア像 右御殿場」石碑(写真中)の左脇道を奥に入ると、
マリア像など隠れキリシタンにまつわる遺構が多数ある。
さらに下り石畳の切れたところで
舗装道路と合流(写真左)して左折し、
橋を渡り
県道に出て左折して坂を下る。
   
道なりに(写真左)を下り、
数分で右側の
階段(写真中)上に全国的に珍しい耳の病気に御利益のある耳神社
平癒の願をかけ、供えてある錐を1本かりて耳にあてる。
願いが叶ったら自分の年の数だけの錐を紐で編んだスダレを作りお供えするという慣わしがある。
今も多数の錐のスダレが供えられている。

   
さらに2分ほど下り、右に分かれる坂(写真左)を下る。
(写真中)を下ったところの分かれ道は、右手の坂を上る。
   
その先で落葉の重なった竹林の道(写真左)を進み、段々道の形がなくなり畑の脇で草むら(写真左中)となる。
道に迷ってしまったとの不安で、さきほどの分かれ道まで戻り民家を訪ねて確認する。
道に間違いないことがわかり、先に進み道のような
(写真右中)が現れ、
そして明きらかな
山道を下る。
   
いつの間にか枯葉の坂道(写真中)となり、右側に「牛の鼻欠け坂案内板(写真右)
ここ西洞坂は、余りにも急坂のため荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほであったため、
「牛の鼻欠け坂」と呼ばれるようになった、という。

「牛坊 牛坊 どこで鼻かかいた 西洞の坂でかかいた」
中山道は、この辺りが地理的に山間地と平坦地の境界線となっていて、
この牛の鼻欠け坂辺りから江戸へ向う東は山間地域への入口、京へ続く西へは平坦地となる。
さらに2分ほど下り、
農道に出て右折する。
   
突当り(写真左)を右折し、車道と合流(写真中)し左折して、全く車も人の気配のもしないゆるい坂道を進む。
    
道なりに進み、集落(写真左)を通り、左手に(写真中)を見ながら、広い車道と合流し左折する。
   
すぐ先の右側の「和泉式部碑 0.6km →道標(写真左)に従い、
道の反対側の
右へ分かれる道(写真左中)を進む。
注意:この分かれる道が旧中山道であるとの標識はないが、京から来る旅人には中山道標識があるので間違いない。
人家の並ぶ(写真右中)を進み、丁字路は直進し、次の分かれ道は標識に従い左手を進む。
この頃は照り返す暑さで、喉もカラカラ、どこにも自販機がなく、さすがの私も耐力の限界があることを感じつつあった。

   
畑の中の(写真左)を進み、突当りの丁字路(写真中)を右折し、数分先の信号のない交差点を左折する。
   
突当りで、国道21号線と合流(写真左)して右折し、すぐ先の(写真左中)を渡る。
右側の「
和泉式部廟所道標(写真右中)から少し入った更地の壁なし建屋中に、
「ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ」歌が刻まれている
いずみ式部廟所が収納されている。
平安時代の3女流文学者の一人和泉式部は、東山道を旅しているときこの地御嶽で病に倒れ、
1019年(寛仁3)没したと言われる。

   
国道21号線に戻り、厳しい西日を浴びながら進み、道の反対側に細久手宿を出てからの待望の自販機。
早速ボトルを2本買い込み。一気飲み。

長岡信号交差点
(写真右)を直進し、
次の泉式部道標から約1kmの
丁字路(写真右中)で左折し、県道341号線(写真左)を進む。
丁字路左角手前の民家敷地に、「左細久手宿 右御嶽宿」
道標があるが、庭木に隠れて見逃しやすい。
   
御嶽宿:美濃路で1602年(慶長7)最初に朱印状を与えられ宿場と認められたのは、
美濃の平坦部と山間部の境に位置する立地条件によるためであった。
中世から願興寺の門前町として栄え、また中津川方面へ向けての難所を控えた宿場としても栄えた。
    
突当り丁字路を右折し、御嵩宿の通り(写真中)を進む。
上町の左側に、
井戸とその上屋(写真左)と「水神」碑。前面に「秋葉神社石柱(写真左)
井戸は最近まで利用されていたとのことで、当時は防火の目的もあり「用心井戸」と呼ばれていた。
ところで秋葉神社の社は何処に?
さらに進み右側に、近代的な
郵便局の建物。
   
さらに宿場の中心に進み右側に、御嵩町指定有形文化財商家竹屋(写真右)
主屋は1877年
(明治10年)頃に建築された、江戸時代の建築様式を色濃く残す建物。
続く右側のみたけ館第二駐車場外壁に、
天保13年(1842)頃の御嶽宿の家並み図(写真中)が詳しく描かれている。
さらに続いて右側に、
野呂家本陣跡建物
建物は明治10年と大正年間に改築され、往時の姿は留めていない。

  
続いて右側に、脇本陣跡と人馬継所跡に建てられている中山道みたけ館(写真左)(入場無料)
1階は図書館、2階は郷土館で嶽宿・伏見宿に関する資料が多数納められている
その先で唐沢川にかかる
唐沢橋(写真中)を渡り、右側に天台宗の名刹願興寺 可児寺(蟹薬師
815年(拾弘仁6)天台宗開祖最澄が薬師如来(国重要文化財)を彫って小堂に安置したのが創建。
近くの尼ヶ池より蟹の背に乗った現れた金色の薬師仏を本尊の胎内に納められことに由来し、蟹薬師と呼ばれるようになった。
重要文化財の本堂は、2度も焼失した後1581年(天正9)地元の人たちが1木1板を持ち寄って再興したもので、
太い柱も丸削りのままとなっている。
  
    
すぐ先の交差点の左側に、名鉄御嵩駅
    
時は16:40。
今日はこの交差点までとし、横浜へ戻る。
次の電車まで十分過ぎる時間があり、ベンチで着替え自動販売機のドリンクを思い切り飲み乾す。

   
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