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この区間は、2008.5.2中津川宿に引き続いて歩いた。 この区間もところどころで、旧中山道はカラー舗装されている。 この区間の特徴は次の通り。 |
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・13峠: 大井宿から大湫宿の約13.5km区間は、「13峠におまけが7つ」と言われるほど厳しい上り下りの 続く山道であった。 それは道が整備された現在もそれなりの厳しさがあるが、 ただ自然に囲まれた山道を歩くことはこれぞ山岳の中山道と思わせてくれるところでもある。 ・宿泊: 大井宿から伏見宿までの約40km区間で、宿泊できるところは大井宿から約20kmのところの細久手宿に1軒あるのみ。もし中途半端になると野宿をするか、「田舎に泊まろう」になってしまう。 ここは用意周到な計画が必要。 |
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大井宿:美濃16宿中でも大いに繁盛した宿場で、現在も本陣門など当時の面影を残す建物が多くある。 また宿内を通る中山道も、昔通りの長さ、巾で6個所の枡形が残っている。 本陣1軒、脇本陣2軒。 |
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恵那峡温泉から飛び乗りでバスに間に合い、タクシー代節約。 8:58 延壽院横薬師から左折し、横町の枡形道(写真右)を進み大井宿に入る。 突当り左角に、昭和22年火災で焼失を免れた安土桃山様式の堂々とした表門の本陣跡。 |
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右折し、本町のカラー宿場通り(写真中)を進み、 すぐ右側の民家左片隅に、「上問屋場跡」木札(写真右)。 反対の左側に、菱形模様の暖簾をさげた古山家の中山道ひし屋資料館。 古山家は江戸時代に屋号を「菱屋」といい、酒の製造販売をし享保年間から約150年間庄屋を務めていた。 現在の建物は明治初年に上宿より移設したもので、江戸時代の雰囲気をよく残している。 |
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その先左側塀の前に、「下問屋場跡」案内板(写真左)。 通りを挟んで右側に、林家の宿役人屋敷跡(写真中)。 林家は1805年(文化2)から明治に至るまでの60余年間、宿役人の問屋役を務め苗字帯刀が許された。 宿場役人には、問屋(最高責任者)、年寄(問屋の補助役)、その下の下役人に人足指、馬指、書役があり、 幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送、飛脚などの継立事務を行っていた。 少し先丁字路角の旅館いち川は、 元旅籠屋角屋跡で案内板に明治初年撮影の角屋の写真が掲載されている。 |
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丁字路を右折し堅町の通り(写真中)を進み、左側に土塀塗の卯建があがるとても立派な古屋家屋敷(写真左)。 古谷家は江戸時代商業を営み、1830年(天保元)から約20年間庄屋を務めた。 突当りに、明治25年阿木川沿からここに移された市神神社。 |
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突当りを左折し茶屋町の通り(写真中)を進み、 中ほどで右へ入る道は「番所みち」(写真右)といい奥に尾張藩白木番所があった。 マンション角に「白木改番所跡」案内板(写真右)。 このとき一人の大学生風男性が一人、中山道歩きを楽しむかのようにのんびり歩きながら追い抜いて行く。 この男性には以後追いつくことはできなかった。 突当りの左折した通りを進み、先ほどの道に出て右折する。 |
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左手に鯉の垂れ下がる阿木川(写真左)にかかる大井橋(写真中)を渡り、カラー通りを進む。 |
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突当りで大通り(写真中)に出て、右手にJR恵那駅(写真右)。 中山道は横断し、商店街の中を直進する。 |
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その先で道(写真中)はカラーとなり左側に、 屋号「本酒屋」の中野村庄屋屋敷跡(写真左)。 皇女和宮の迎え準備のため、岩村藩代官は当時大湫宿の助郷であった野井村に強制的に賄役をさせた。 和宮が通過後、不満に思った野井村の百姓代表熊崎新三郎は、 中野村庄屋家に宿泊していた岩村藩吉田泰蔵に斬りかかった。 野井村では、この賄役が前例になることを恐れ、岩村藩を裁判に訴え勝訴し「代官は罷免 、野井村に金25両が下付」された。 約140年前の江戸時代の話、当時の裁判の公平さに改めて尊敬の念。 すぐ先の丁字路は直進し、右手の長島橋へ進む。 |
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丁字路の左側に、中野観音堂(写真左)、1796年(寛政8)建立常夜燈と「中野村高札場跡」碑。 永田川にかかる長島橋(写真中)を渡り、その先で県道66号線信号交差点(写真右)に出て左折する。 このとき街道歩きに旅慣れた姿と歩調の中年の美人女性が、あっという間に追い越して行く。 追いついてまた会えることを期待したが、この女性にもその後2度と会うことはできなかった。 |
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遠くなる女性の姿を見つめがら66号線を進み、 約数分で5差路(写真左)に出て、中山道は横断歩道橋を渡り多治見方向へ進む。 |
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5分ほど進み、左側に西行法師がこの水で硯をすったという小さな泉のある西行硯水公園(写真左)。 さらに進み、「西行塚」碑の立つ分かれ道(写真中)は右手の坂を上り、JR中央線を横断し、すぐ左折する。 |
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田圃道(写真左)をまっすぐ進み、突当りを右折し中央自動車道ガード(写真右)下を潜り、 左折して坂を上る。 |
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朝の緑の道は、とてもすがすがしくやはりここは山岳中山道。 左側に、「是より十三峠」碑(写真左)が立ち石畳が始まる。 ここから大湫宿までの約13.5km(3里半)は、 「13峠におまけが7つ」と呼ばれる厳しいアップダウンの続く二十余の山坂道があり、 中山道の難所の1つであった。 道が整備されたとは言え、連続する急坂には現代の旅人にとっても厳しい区間。 すぐ左側の「伝西行塚」案内板が立つ石段(写真中)を上りつめたところに、 西行を供養するためにつくられたという五輪塔の立つ小いさな西行塚。 |
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塚から少し離れたところに展望台(写真中)があり、眼下に恵那市街、遠くに恵那山(写真右)。 元の道に戻り、左側にとてもきれいで立派なトイレには正直ビックリ。 |
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坂(写真中)を上り続け、石畳もいつか無くなり、 両側に、塚の頂上の榎は残っていないがほぼ原形をとどめている槇ヶ根一里塚(写真左)。 さらに右側に、休憩所と立派なトイレ付駐車場。 正直こんなところに何故駐車場が? と疑問に思ったが、 道の左手下方一帯は市民の憩いの場となっている広大な「西行の森」公園となっているので、 それらを利用する人たちのためではないかと、勝手に納得。 |
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左側に、恵那市制施行35周年記念事業「西行の森 桜百選の園」碑(写真左)。 緑の道を進み、数分先の細い道との交差点(写真中)を直進し、すぐ石畳道となり車道に出て左折する。 |
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車道(写真右中)を下り、左側にあまりにも小さいため見過ごしてしまう「茶屋水戸屋跡」碑(写真左、左中)。 以降この類の碑は、全てこの大きさ。 車道を200mほど下り、右側のセントラル建設正門前から車道と分かれ、 右手の山道を進む。 |
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すぐ先塀の前に「茶屋東国屋跡」碑(写真右中)、さらに右側に「茶屋松本屋跡」碑(写真右)。 山道を3分ほど進み、小さな広場(写真中)。 広場右側に、江戸時代ここには茶屋が9戸あったという「槇が根立場の茶屋」案内板(写真左中)。 左側に、今は林となっている「伊勢神宮遥拝所」案内板。 このとき、おしゃべりをしながら若い女性2人が、 デジカメの電池を入れ替えている私を横目で見ながら、追い越して行った。 別に急いで歩いているわけでもない彼女らとも、この先2度と会うことはなかった。 これまで大学生、中年女性、そして若い女性2人に追い付けない自分に屈辱を感じ、 健脚を自己満足をしていたのは何だったのか! 帰宅後、原因分析: 実は街道歩きでは、このところホームページ作成用に一日900枚から1千枚の写真を撮るが、 これは例えば一枚に10秒の撮影時間がかかるとすると計約2時間半くらいとなる。 ということは、単なる歩きよりは一日それだけのハンデキャップがあり距離を稼げないのだということで、 自分を慰め納得。 ついでにもう一つ。 今夜の宿泊するところがまだ決まっていなくて、朝から憂鬱な旅をしていた。 大井宿から伏見宿までの約40km区間の中山道筋で、宿泊できるのは細久手宿の大黒屋1軒だけ。 今朝出発した大井宿から細久手宿までは約20kmで、通常は何でもない距離であるが、 峠の多い不案内の山道とホームページ取材の時間などを考慮すると果たして明るいうちに到着できるかどうか不安。 野宿だけは絶対に避ける。 結論は大井宿から約14kmの大湫宿まで行き、中山道と並行して走る国道19号線沿いの旅館に宿泊することにした。 さっそく携帯電話で瑞浪市観光課(TEL0572-68-2111)に電話し、19号線沿いの宿泊施設を5軒紹介してもらった。 そして大湫宿に着いてからJR釜戸駅前のタクシー会社に電話をし、 宿場まで迎えに来てもらい(迎車料金100円)19号線沿いの新白狐温泉旅館に宿泊した。 宿泊した旅館の女将の話では、電話をもらえば中山道まで無料で送迎するとのこと。 他の旅館は不明であるが、無料送迎してもらえるのであれば宿泊の選択の範囲が広がり中山道の旅の計画も楽になる。 こういうプランも是非提案したい。 |
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広場の出口左側に、「左伊勢名古屋道 右西京大阪道」道標(写真左)。 そのすぐ先左側に、「下街道」案内板とその足元から左へ下る細い坂道の下街道(写真中)。 中山道を上街道といい、ここから分かれて下る道を下街道と呼んだ。 下街道は釜戸から土岐市、多治見市を経て名古屋に行く道で、 殆ど平坦な道で名古屋までの距離も上街道より18km近かったので、一般旅行者、商人や伊瀬神宮参拝者も多く賑った ちなみにこの坂道を下ると、国道19号線まで1km。 さらに緑のトンネル道を進み、ゆるい坂道を下る。 |
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約10分ほどで、右側斜面に小さな馬頭観音(写真左)、 さらに2分ほど先で、右側階段(写真中)の上に「姫御殿跡」碑。 ここ祝峠は周囲の展望のよいところであったので、姫行列のときは仮御殿を建て休憩することが多かった。 1861年和宮一行のとき、ここに休憩のための朱塗りの立派な御殿を建てたので、村人は姫御殿と呼んだ。 |
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すぐ先左側の階段(写真左中)を上り、1756年(宝暦6)地元の人たちにより建立された首なし地蔵(写真左)。 昔2人連れ中間(ちゅうげん)がここで昼寝をしてしまった。 一人が目覚めると連れの首が切られて死んでいたが、犯人は見当たらない。 怒った中間は「黙って見ているとは、何事だ」と、刀で地蔵の首を切り落としてしまった。 それ以来何人かの人が、首をつけようとしたがどうしてもつかなかったという。 坂は急になり、右側に見かけによらず最近建立の「中山道 乱れ坂」碑(写真右中)。 余りにも急坂で大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾が乱れるほどであったことから「乱れ坂」と呼ばれた 急で、曲がりの多い坂を下り続ける。 右側に、こんな山奥で村役人が袴で土下座して役人を出迎えた場所の「下座切場跡」碑。 |
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乱れ坂を約5分下り、道は石畳(写真左)となり、 下り切ったところに当時は石も流すほどの急流であったとは想像もできない小川(写真右)があり、 宝暦年間(1751〜62)飛脚たちが架けた長さ7.2m幅2.2mの土橋の乱れ橋。 たまたま居合わせた地元の人の話では、橋は当時のものということであるが現在は川幅も狭くなり、 それなりに縮小されている。 |
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橋から左折し、緑の木立と分かれ、田園風景となり、カラー道の坂(写真右)を上り 久し振りの人家にお目にかかり集落に入る。 左手眼下に水田のある田園風景(写真左)、お継原坂を上り左側に中山道四ツ谷休憩所。 ただしトイレと屋外ベンチはあるが、当時カギがかかっていて室内には入れず水飲み場もない。 |
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進み、集落外れの「建築住宅センター」建物(写真右中)の陰に自動販売機(写真右)。 大井宿を出てから初めての自動販売機で、以降大湫宿までなく貴重な存在。 なおコンビニを含めた食料店は大井宿を過ぎると大湫宿までなく、コンビニは大井宿と大湫宿に各1軒、あるのみ。 さらに進み、突当りの分かれ道は左折し、水田を見ながらカラー道(写真左中)を進む。 左側の最初の民家手前の足元に、小さな「竹折村高札場跡」碑。 |
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突当りの分かれ道(写真左)は、道標に従い左手の砂利道(写真左中)を進み、林の中に入る。 右側に、新旧の「妻の神」碑(写真右中)の立つ奥の林の中にビックリするほどの小さな祠。 この妻の神は地元では有名のようで、「妻神坂」の地名となったりこの先の深萱立場案内板にも掲載されている。 その先で沢にかかる橋を渡り、道なりに右折して進む。 |
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ゆるい平六坂を上り、途中で左手からの道と合流(写真中)して上る。 合流点角に「中山道平六坂」碑(写真左)、その先右側斜面に新旧「平六茶屋跡」碑。 この坂の途中にあった茶屋の主人が「平六」ということから、名付けられたとのこと。平易な謂れで素直に納得。 |
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坂を上り切り、視界の開けた田園風景の道(写真左)を進む。 右側に、「びやいと茶屋跡」碑(写真中)。 びやいとは「枇杷湯糖」ということで、枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもので、一種の精力剤かも知れない。 いつの世も必要かも。 さらにその先右側草むらに、「夫婦岩跡」碑。どこにも岩などなく、さすがに意味不明。 |
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すぐ先林の入口両側に、原型名残のある江戸から数えて89番目紅坂一里塚跡(北塚)(写真左)。 林の中の石畳の紅坂(写真中)を下り、途中から左側がアスファルト舗装になるが、何故? |
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坂の中ほどの道幅が広くなった右側に、「ぼたん岩」碑(写真左中)。 地上に露出している直径5mほどもある岩の表面(写真左)が、 薄く層になって幾重にも削られていて牡丹の花のように見えることから「ぼたん岩」と呼ばれている。 坂を下り、武並町藤の集落に入る手前(写真右中)右側に、「うばが茶屋跡」碑。 ここで約200mの石畳が終わる。 |
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小川にかかる橋を渡り、集落を通り、道なりにアスファルトの坂を上り、里すくも坂を下る。 坂の途中変則十字路(写真右中)の左角に、 小さな社の稲荷神社(写真左)があり境内に「佐倉宗五郎大明神」碑(写真左中)が立っている。 何故ここに佐倉宗五郎? 宗五郎と言えば、関東下総の江戸時代の農民運動の義民佐倉宗五郎大明神のはず。 1700年(元禄年間)、岩村藩で農民騒動が起きるのを竹折村の庄屋田中氏が将軍に直訴し未然に防ぎ農民を救った。 ただ当時の定めで直訴した田中さんは、討ち首となってしまった。 恩に感じた農民たちが、当時同様な農民騒動で有名になっていた佐倉佐倉宗五郎をダミーにして碑を建て、 田中氏を祀ったのではないかと言われている。 十字路右側に、三社灯篭。 |
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坂を下り、突当り丁字路を右折して藤川にかかる橋(写真左)を渡り、県道418号線に出て左折する。 ゆるい坂道(写真中)を下り、すぐ右側に復元された藤村高札場と庚申塔。 |
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高札場から約50m下った右側に、「深萱立場」案内板(写真左)。 立場とは、宿間の旅人の休息所で、深萱立場には茶屋、立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があった。 加納家立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で門や式大台のついた立派な建物で、 馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして雨や日光が馬に当たらないように工夫されていた。 中山道は、案内板の脇から右に入る道(写真左)。 江戸からの旅人のための中山道標識が現地にないので、見逃してしまい418号線をそのまま下ってしまう恐れがある。 右折し、平坦な道の数分先右側にも中山道道案内を記載した「深萱立場」案内板(写真中)。 ここに前述の、小さな「妻の神」神社が記載されていて、ビックリ! その先で、道は2つに分かれ、右手の坂道を進む。 |
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ゆるい坂(写真左)を上り、2分ほどで民家の前(写真中)に出る。 すると物凄い声で吠える犬、ちょっと間をおいてもう1匹の負けじとけたたましく吠える声。大型犬だ! どうも道の両側に別々に飼われているようで、当然鎖で繋がれていると思ってもあまりの剣幕に脱兎の逃げ。 正面の林(写真中)の中に進み、落葉の重なる西坂(写真右)を上る。 だんだん枯葉が深くなり、何となく「枯葉よ!」のシャンソンの世界。 |
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道は茶屋坂の石畳(写真右)になり、その先で道なりに左折して石段(写真中)を上り、 道標に従い車道を横断してまた石段を上る。 |
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数分平坦な山道を進み、峠の頂上(写真中)。 左側に、「ばばが茶屋跡」碑と「中山道 茶屋坂」石碑(写真左)。 右側に、新旧の「三城峠」碑。 昔、この峠から藤、権現、奥の三城が眺められたので、名付けられた。 |
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峠から林の中の急坂(写真左)を道なりに数分下り、砂利道の村道(写真中)と合流し、左折する。 合流点から30mほどの右側に、 恵那市(武並町藤)と瑞浪市(釜戸大久後)の境界点に恵那市建立の中山道碑(京からの旅人に向いている)。 これで恵那市とはお別れ。 |
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道は舗装されたゆるい坂道となり、道なりに上り、数分先の分かれ道(写真左)は右手の坂を上る。 上り切り、ゆるい下り坂(写真右中)左側に、「大久後の向茶屋跡」碑(写真左中)。 さらに下り切った分かれ道(写真右)は、左手の草むら道を進む。 |
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すぐ先で右折(写真左)し、砂利道の観音坂(写真左中)を上り、 200m先頂上の右側に「観音坂と馬頭様」案内版(写真右中)。 案内板手前から右に入り、奥の大岩の上にポツンと旅の安全を祈念する小さな馬頭観音。 |
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元に戻り、その先50m(写真中)ほど右側に、1841年(天明2)建立四霊場巡拝記念碑(写真右) 左手に無料休憩所。 坂は急になり、道なりに下り細い舗装道に出て、左折する。 |
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一車線の舗装道(写真左中)を進み、左側に「灰くべ餅の出茶屋跡」碑(写真左)。 すぐ先の東海自然歩道道標のあるところで左にカーブ(写真右中)し、小さな大久後集落のゆるい坂道上る。 |
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突当りの林の中に入る右側に、観音堂と弘法様(写真右)。並んで公衆便所。 林の中(写真中)に入り、延々と続く権現坂の急坂を上る。 |
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林を抜け出て右側に「鞍骨坂」碑が立ち、再び林の中の坂道を上る。 権現坂を上がり約5分のところで頂上(写真中)となり、右手に刈安神社(写真右)の長い参道階段。 頂上を過ぎ、急な坂を下り釜戸町大畑集落を進む。 |
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途中右側に、「炭焼立場跡」碑(写真左)と案内板があるが、正面にデンと車が駐車していて近寄れず。 史跡などというものは旅人以外の地元の人たちの日常生活に関係ないことで、全国どこにでもある共通の現象。 仕方のないこと。 集落の外れで舗装が切れ、山道に入り(写真中)林の中の吾郎坂を上り、 林を抜け出て右手に水田の広がる平坦な道を進む。 |
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ゆるい坂を下り、道の真中に車止がある樫の木坂(写真左)を道なりに上り、 右にカーブしたところで石畳になる。 |
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石畳(写真左中)の切れる右側に太田南敏の紀行文一節が刻まれた樫の木坂碑(写真右中)、 両側に原型を留める権現山一里塚(写真左、右)。 |
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その先から巡礼水坂を道なりに上り、カート道との交差点(写真左)。 右手のグリーン上に赤シャツゴルファーが何か思案げに立っているが、あれ!?一人でゴルフとは。 ここは中山道GCのゴルフ場で、中山道を残すためゴルフ場が両側に分断されているということ。 交通事故のないように左右注意し、横断して進む。 |
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その先右側に、中山道道案内を記載した「巡礼水と馬頭様」案内板(写真左中)。 昔、旅の巡礼が8月1日にこの地を通りかかったとき、急に具合が悪くなり倒れたが、 石の間から流れ落ちる水を飲んで一命をとりとめたという。 普段は出ないが、8月1日には必ず水が流れ出るという言い伝えがある。 ただ現在は枯れ果ててしまい、水の出ることはないようである。 案内板の脇に、 太田南敏紀行文一節が刻まれた「中山道 順礼水」碑(写真右中)と上段に1757年(宝暦7)建立馬頭観音(写真右)。 (細かいことであるが、「順」は太田南敏が紀行文で使っている文字で、正しくは「巡」) 道は下り坂となり、再度カート道を横断して下り続ける。 車止を通り、細い一般道を横断してまた車止を通り、坂を上る。 |
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すぐ道は下りとなり、 びあいと坂を下り右側のゴルフネット(写真左)の脇を通り、続いて急な曽根松坂(写真中)を下る。 びやいとは「枇杷湯糖」と書いて枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもので旅の疲れをとるお茶。 また車止を通り、小さな広場に出る。 車止は、カーコートとの衝突事故防止などゴルフ場への安全配慮のための車侵入禁止措置なのかもしれない。 |
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広場入口近くに「阿波屋茶屋跡」碑(写真左)、 中ほど右側に「十三峠の三十三所観音石窟」案内板(写真中)と後ろに1840年(天保11)建立の石窟(写真中)。 石窟には、旅の安全を祈って大湫宿伝馬連中、助郷の村々、 定飛脚たちなどで寄進された三十三体の馬頭観音が安置されている。 広場を出て、まっすぐ地蔵坂を下る。 |
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すぐ先の樹木で分かれる左手の道(写真左中)の左側に、尻冷しの地蔵尊(写真左)。 1711年(宝永8)水場の特に少ない十三峠を旅していたとき、 伊勢の豪商熊野屋の夫人の急病をここの清水が救ってくれた。それに感謝して地蔵尊を建立したという。 清水が地蔵尊の尻を冷やしているように見えるので、尻冷やし地蔵尊と呼ばれるようになった。 さらに150mほど下り、県道(写真右中)に出て横断し、左折して県道と並行したしゃれこ坂を道なりに上る。 |
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3分ほどで左側に、太田南敏の壬戌紀行文を刻んだ「中山道しゃれこ坂(八町坂)」碑(写真左)、 並んで右に「十三峠八町坂の観音碑」碑(写真左)と後ろに壬戌紀行に出てくる観音碑(写真左)。 落葉の重なるゆるい坂道(写真左中)を下り、林から出て明るくなったところにまた車止(写真右)。 道の左手に段々茶畑(写真右中)があり、ここまでは作業車が入らざるを得ないのだろう。納得。 |
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山之神坂を下り、左からの道と合流(写真左)して急な寺坂を下り、 大木のある右側(写真中)の大湫宿を一望できる高台に、 1713年(正徳3)建立念仏碑や古い馬頭観音などが並ぶ寺坂石仏群。 ここから大湫宿に入るが、大井宿の十三峠からここまで2人組女性に会ったきりで全く人気のない中山道。 5街道を歩いていつも思うことであろうが、この車社会では足で旅するということは本当に奇特なことなのであろう。 |
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大湫宿:江戸日本橋から47番目の標高510mの山間にあった小さな宿場。 人馬継立では、標準(50人、50疋)より少ない10人、10疋の規模であったため、 大規模通行時は大井か御嶽宿から応援を受けていた。 現在でも古びた格子戸の家並みや土塀が続き、当時の風情が漂っている。 本陣1軒、脇本陣1軒。 |
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その先で左折し、左側に「中山道大湫宿」碑(写真左)の立つ坂(写真左中)を下り、宿場に入る。 左側に、四ツ谷集落以来やっとお目にかかる自動販売機(写真右中)。 丁字路を左折し、県道394号線の宿場通りを進む。 |
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左側に、文化庁登録有形文化財の古い建物(写真左)。 通りを挟んで右側の大湫公民館(写真中)の外れから、右折して坂道を上る。 |
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上り切ったところに、皇女和宮御歌碑(写真左)。 「遠ざかる都を知れば旅衣 一夜の宿もたちうかりけり 思いきや雲井の袂ぬぎかえて うき旅衣袖しぼるとは」 右手は、本陣跡(写真中)の大湫小学校の校庭。 元に戻り、坂道左脇広場奥に、生徒が作った味わい深い皇女和宮モニュメント3体。 |
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その先右側に、多分個人が提供している無料休憩所「おもだか屋」(写真左) さらに右側坂道途中に、「問屋場跡」案内板(写真中)。 続いて右側の石段を上ったところに、当時の半分の程度の規模で残っている保々家の脇本陣跡。 |
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続いて右側の神明神社境内に、県天然記念物指定樹齢1300年の巨大杉(写真右)。 結構古い建物が残っている通りを過ぎ、県道394号線の宿場外れに進む。 |
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県道65号線が合流する手前右側に、 花で飾られた中山道大湫宿碑と平成10年に復元された高札場。 |
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時は15:32。今日はここまで。 大湫宿にはタクシー会社がなく、携帯電話でJR釜戸駅前のタクシー会社に電話して高札場まで迎えに来てもらう。 国道19号線沿いの新白狐温泉旅館まで直行。 |
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