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この区間は、2011.2.26に歩いた。 ただ経路を一部間違って歩いたので、2011.3.11に城南小学校から山名まで再度歩き直した。 中山道を完歩してから、2年ぶりの本格的街道歩きの初日であったので歩き勘が冴えず 行ったり来たりのロスタイムが多く、予定の半分程度の行程しか進まず残念。 |
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高崎市市街の鎌倉街道 高崎市内の鎌倉街道は、出水や大火によりまた時代によりたびたび変化したとのことで、 それだけ多様な経路があったという。 ただ参考にした「旧鎌倉街道 探索の旅上道編」では、 高崎市街地の街道の殆どは消滅してしまったということで詳細経路を記載していない。 ここではスタートの城址から琴平神社間の約1.5kmは、 インターネット「隠居の思ひつ記」で紹介されている経路を参考にして歩いた。 |
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経 路 高崎城址→(若松町)一般道・小路(光明寺)一般道(龍廣寺)一般道・小万坂・小路・一般道 →(竜見町)一般道・小路→崖道・小路・一般道→(下和田町1)一般道(くるみ塚児童公園) →(下和田町2)一般道→(下和田町3)(城南児童公園)一般道→城南橋 →(新後閑町)一般道(城南小学校)(上信電鉄踏切)一般道・城南大橋歩道橋・一般道(琴平神社)一般道・小路 →(和田多中町)(上越新幹線高架下)一般道→(上佐野町)一般道(西光寺)(佐野の船橋歌碑)一般道 (常世神社入口)一般道→(下佐野町)一般道(定家神社)一般道・佐野一本松通一本松橋 →(根小屋町)佐野一本松通(高崎商大)一般道・県道30号線→(山名町)30号線(山科医院)一般道(山名八幡宮) |
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2011.2.26横浜を出発し、JR高崎線で高崎駅に到着。 鎌倉街道高崎の起点の富士浅間山古墳があった高崎城三の丸土塁へ、出発。 高崎駅西口から県道31号線を西へまっすぐ進み、あら町信号交差点を直進し、 超近代的ビルの高崎市役所手前で高崎市役所前信号交差点を左折する。 |
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城址公園の通りを約200m進んだところにスタート地点の三の丸土塁。 続いて堀の橋を渡り、左折して堀沿いに進む。 |
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正面に向運寺の高い屋根を見て、突き当りの丁字路を右折し、 まっすぐな道を進み、若松町地内に入り突き当りの丁字路を左折する。 |
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最初の丁字路を右折し、ブロック塀沿いの小路を進む。 |
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突き当りの変則十字路(写真中)を左斜めに進み金網沿いに進んで右折し、 突き当り(写真左)を道なりに左折して進む。 なお丁字路を右折すると光明寺。 光明寺:鎌倉時代以降の1385年(至徳2)に開山し安楽院遍照坊と称していたが、 1604年頃(慶長年間)、 ときの住職が高崎藩主酒井家次の嫡子・忠勝の病気を治癒したことの褒賞で、 家次から日宮山光明寺との名を授けられた。 墓地には、クリスチャンだった内村鑑三が建立した内村家5代の墓がある。 |
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ブロック塀沿い道を約200m進み、突当り県道25号線手前の十字路を左折する。 右折は、龍廣寺参道階段。 龍廣寺:1599年(慶長4)井伊直政によって創建され、 境内には、日ロ戦争のロシヤ兵捕虜の墓や村上鬼城の句碑と墓がある。 |
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細い道を約50m進み、その先で県道25号線をちょっと斜めに横断して小万坂を下る。 |
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すぐ先左側の小万地蔵尊(写真右)の赤い幟の手前から左折(写真中)して、坂道を上る。 小万地蔵尊由来:鎌倉時代夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没した。 その妻の名を「小万」といい、里人はこれを哀れみ 堂宇を建立して地蔵尊を祀った。 現在も堂の中には、多数のお地蔵さまが祀られている。 |
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右下方に小万地蔵尊を見て細い坂道を進み、 30mほどで左からの車道と合流して閑静な住宅街を直進し、竜見町地内の坂を下る。 |
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右にゆるくカーブする手前の丁字路(写真右)を左折して坂を上り、 すぐ墓地脇からすぐ右折して坂道を上る。 |
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ゆるい坂道を道なりに進み、当時の2m幅の街道の旧道雰囲気の道となり、ブロック塀の間を通る。 |
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ブロック塀の外れの丁字路で、旧街道は住宅で遮断されてしまう。 迂回するため、丁字路を右折し突き当りを左折して、まっすぐな道進む。 |
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その先で鎌倉街道と思われる細い崖道となり、右前方に城南野球場を見ながら進む。 |
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住宅街のブロック塀の間の道を進み、 十字路を直進し高崎南協会前を進んで、さらに塀の間の道を進む。 |
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その先で左からの道と合流して下和田町2地内に入り、突き当りで左にゆるくカーブして進む。 カーブする右側に階段があり、前方に城南野球場のネットが見える。 |
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カーブして最初の丁字路を右折する。 突き当りのくるみ塚児童公園前丁字路を左折し、 すぐ右折して公園東側沿いを進み下和田町3地内を進む。 |
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道なりに約400mほど進み、坂を下って突き当り丁字路に出る。 旧街道は、このまま直進してその先で国道17号線(中山道)斜めに横断し、 城南小学校の校庭を通り琴平神社辺りまで続いていたようであるが、現在は消滅している。 ここでは迂回するため、丁字路を左折して坂を上がり、すぐの十字路を右折して直線道路を進む。 |
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城南児童公園東側沿いを進み、突き当りで道なりに左折して国道17号線沿いを進む。 |
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さらに突き当りの丁字路を右折して城南橋を渡って国道17号線を横断し、 新後閑町地内に入り城南小学校正門前に出る。右側に城南小学校。 |
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正門の反対側の上信電鉄線踏切を渡り、右折して城南緑地の青色フエンス沿いに進む。 分かれ道は、右角に「鎌倉街道記念碑」の建つ左手の道を進み、 県道71号線(西上州やまびこ街道)城南大橋高架下を歩道橋で潜る。 |
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左手前方に荘厳寺の屋根(写真左)を見て歩道橋を下り、 左側の荘厳寺と右側の琴平神社(写真右)の間を通って丁字路に出て、左折する。 琴平神社:古来、お稲荷様が祀られていたこの地に、 文化年間(1804〜1817)頃高崎藩士寺田宗有が一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝えられる。 「多中のこんぴらさま」として毎月10日の縁日は参詣者で賑わい、正月には達磨市がたつ。 境内には、飯玉神社や和田稲荷大明神が祀られている洞穴もある。 |
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少し進み、道(写真中)の左側に明治まで琴平神社の別当であった荘厳寺(写真左)。 旧街道は、道の右側の板塀とブロック塀の間の細い道を進む。 |
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突当りを道なりに左にカーブし、細い道(写真左)をさらに進む。 その先の車道を右斜めに横断(写真中)し、上越新幹線高架下の細い道に入り、 高架を出たところの車道を右斜めに横断して和田多中町地内に入り細い道を進む。 |
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駐車場の脇を進み、すぐの丁字路を直進する。 丁字路右側に、「秩父巡礼の道しるべ」標柱とその左端に馬頭観世音碑。 (馬頭観世音の台座に、「左婦ぢおかちゝぶミち 右高崎」と刻まれているとのことであるが、現地では不明) |
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その先で左側の車道と合流して進み上佐野町地内に入り 丁字路右角に「高崎市佐野長寿センター」看板下に「→天満宮入口」標柱。 天満宮立寄り:→に従い右折して約50m先右側に、 謡曲「鉢の木」で有名な佐野源佐衛門常世が創建したと言われる太天神天満宮。 ただし現天満宮は、昭和49年に再建されたもの。 |
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さらに進み、途中の分かれ道は右手を進み、 ゆるい右カーブで住宅街の道を公民館前、らら美容院前と淡々と進む。 天満宮標柱丁字路から約500m左側ブロック塀上の照明ポールに、「西光寺」看板。 |
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佐野橋へ立寄:ここは佐野の船橋で有名なところ。 西光寺看板の道を挟んだ反対側の、ガードレールのある坂道(写真右)を下り、 最初の分かれ道は左折して道なりに進み、上越新幹線高架下を潜り、 突当りに烏川(写真左)にかかる木製の佐野橋がある。 烏川の流れとともに、当時の船橋の名残を思わせるような、心和ませる風景。 |
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ブロック塀の内側に、西光寺。 西光寺:明治2年の農民運動「高崎五万石騒動」でその舞台の1つとなった寺。 明治維新にもかかわらず、 旧態以前とした封建的な藩政を行い続ける藩に対して、五万石農民が年貢の減免を求めて立ち上がり、 足掛け3年間にわたり行った高崎藩領内全村全戸周辺諸藩を巻き込む大規模な農民運動。 先に進み、西光寺境内外れの右側に、高崎市指定史跡「佐野の船橋歌碑」。 (正面左側の細い碑。右側は「佐野橋竣工記念碑」) 佐野の船橋歌碑:碑面に「かみつけの佐野の船はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」 と刻まれている。 碑の裏面には、この歌碑は、かってここに船橋があったと伝えられた場所に、 1827年(文政10)に建立された、と刻まれている。 (船橋とは、船をつなぎその上に板を渡して浮橋としたもの。) 烏川を挟んだ2つの村の長者の息子と娘が恋仲となり夜に船橋を渡り人目を忍んであっていた。 それを知った親が、ある夜二人が会えないように橋の板をはずしてしまった。 それを知らない二人は船橋を渡ろうとして、川に落ちて死んでしまったという。 この歌碑は、その若い二人の怨霊を慰めるために建てられたものと言われている。 |
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道なりに進み、歌碑から約200mの変則4差路は直進する。 4差路を右折すると、右角に赤文字「佐野源佐衛門常世神社入口」標柱。 常世神社立寄:約100m先右側に、 謡曲「鉢木」に登場する鎌倉時代の武士、「佐野源左衛門常世」を祀った小社な常世神社。 謡曲「鉢木」のあらすじ:一族の不正のために領地を横領され、 窮迫生活をしていた武人佐野源左衛門常世のところに、 大雪の日、修行者(実は鎌倉幕府執権北条時頼)が宿も求めてきた。 常世は、その修行者のために大切にしていた鉢の木(梅、松、桜)を焚いて暖をとらせてもてなした。 常世は修行者に、 「今はこんなに落ちぶれているが、鎌倉に事あれば真っ先に馳せ参じるつもりだ」と、心の内を語った。 後に、鎌倉から召集がかかった時、常世は「いざ、鎌倉!」と、やせ馬に跨り古びた鎧姿で鎌倉に駆けつけた。 約束を守った常世に対して時頼は、横領された領地を戻し、 さらに薪にした鉢木の梅、松、桜に因んだ地名の3カ所 (上野の松井田、加賀の梅田、越中の桜井)の領地新たに与えた。 案内板には、常世神社は常世屋敷跡と言われ、墓は栃木県佐野市葛生町の願成寺境内にある、とある。 佐野源左衛門常世は、佐野市唐沢山城主とも実在の人物ではないとも言われているし・・・・。 |
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さらに住宅街の道を進み、上越新幹線高架沿いの道と合流して左折し、下佐野町地内を進む。 |
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約100m進み、最初の分かれ道を左折し(写真中)住宅街の道を進む(写真左)。 なお右折して高架下を潜ると、百人一首選者藤原定家を祭神とする定家神社(写真右)。 定家神社立寄:定家は当地とは直接関係ないと言われている。 朱色あざやかな本殿には、 定家神社縁起1巻・伝藤原定家筆「在原業平歌集」・宮部義正独詠短冊1枚・源武邨奉納和歌1首がある。 広い境内の東南の一角に、小さな古峯神社。 |
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その先の下佐野1公民館の分かれ道(写真中)は、右手を進む。 公民館敷地に、まだ新しい放光神社(写真左)。 放光神社:明治時代に放光寺伝承にもとづき創建された神社で、実際にはこの地は放光寺跡ではなかった。 約300m進み、道なりにゆるく左にカーブする。 |
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その先の分かれ道は左手を進み、さらにその先の分かれ道は直進し、 左手からの「佐野一本松通り」と合流して、直進する。 |
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その先の分かれ道は直進して進む。、 ほぼ直線的な佐野一本松通りを約800m進み、左にカーブして上越新幹線高架沿いに進む。 |
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すぐ先で右にカーブし、高架下を潜る。 高架下手前で左折する道があるが、後で一本松橋を渡るためここに戻ってくる。 |
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その先で車道と別れ、直進し河原への道を進む。 左手前方の一本松橋の袂辺りに舟の渡場があり、対岸に渡っていたと思われる。 現在は足場が悪く、近づけない。 |
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先ほどの高架下に戻り、高架沿いに進み、突当りで道なりに右折して一本松橋アクセス坂道を上る。 |
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烏川にかかる一本松橋を上がり、 根小屋町地内に入り左前方の高崎商科大学校舎を見て橋を下る。 |
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鎌倉街道は、橋の袂から高崎大学の門を斜めに突っ切っていたが、 校舎で消滅しているので、その先の信号交差点から左折して、校舎敷地柵沿いに進む。 |
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商科大学正門の反対側で右折し、 先ほど消滅した鎌倉街道と一緒になり坂道を上り、のどかな風景の中を進み、 突当りで県道30号線と合流して、左折する。 |
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まっすぐな山名町地内30号線を進み、山名町北信号交差点を直進し、 次の山科医院角の信号から、竹田屋商店脇道を右折する。 |
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中央に「注意」ポールが立つ細い道を進み、交差点を直進する。 交差点の右手奥に、安産・子育ての山名八幡宮。 山名八幡宮:新田義重の3男で山名氏の祖となった山名義範が、 文治年間(1185〜1190)に宇佐神宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。 本殿は明和年間(1764〜71)に再建された古建築物。 参道に後年線路が敷かれた為、線路下トンネルを潜り参詣するというちょっと変わった神社。 鎌倉時代には、鎌倉街道沿にあって門前町として宿も形勢されていたと言う。 |
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すぐ先で丁字路になり、鎌倉街道は右折し上信電鉄踏切を渡る。 直進は、上信電鉄山名駅へ。 |
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今日は、ここまで。 上信電鉄山名駅からJR高崎駅に戻り、高崎線経由で我が家の横浜へ。 途中から再度歩いたため正確には不明であるが、 高崎駅から山名八幡宮までは正味3時間弱くらいかも知れない。 |
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