明治の電気通信
江戸時代の寛保2年の歌舞伎十八番『毛抜』に磁石が登場する。小野春道の娘が使っている簪(かんざし)を鉄製にすり替えて、大きな磁石を持った曲者が天井裏から娘の髪の毛を逆立たせる。粂寺弾正が鉄製の毛抜きが踊ることから曲者を見つける。
磁石とエレキテル
黄帝が蚩尤t(しゆう)と戦った時、霧の中で正確な方角を知るために指南車を使った。紀元前3世紀の中国秦始皇帝の時代の『呂氏春秋精通篇』に「慈石召鉄 或引之也」とある。日本では『續日本紀』の和銅6年紀(713年)に「近江国より慈石を献ずる」と磁石が登場する。江戸時代、三浦梅園は『玄語』の草稿本『元熈論』に、
琥珀や硝子の様に摩擦して塵を吸うような物を「有魄力」その逆の塵を吸わない物は「無魄力」と名付けた。有魄力の物は水晶、石類、石英、諸樹脂、硫黄、赤信石、硝子、磁器、木材、飾縁、綿糸、紙、象牙、毛髪、膠、封臘、皮革等を挙げ、無魄力の物は主として導体を指しているが、絶縁物でも液状のものや粉末のものは無魄力としている。
三浦梅園
1723-1789 大分県国東生。江戸時代の自然哲学者。『贅語』,『価源』,『多賀墨卿君にこたふる書』。『三浦梅園自然哲学論集』(岩波文庫)がある。
平田篤胤
1776-1843 秋田県出身。『古史伝』
後藤梨春
1696-1771。江戸の本草家。『紅毛談』は後藤梨春がオランダ人から聞いた地理,風習,言語,産物,器具,医薬を絵入りで書いた記録。
平賀源内
1728-1780 香川県さぬき生。蘭学者。
橋本宗吉
1763-1836 徳島県生。蘭学者。『オランダ始制エレキテル究理原』に出版禁止になった。
凧の実験
電信
松代藩士の佐久間象山が蘭書を読んで電信機を作り1849年に70メートルの距離で電信の実験を行ったという記録がある。1853年(安政元年)にペリーが幕府に電信機を献上する。ペリー提督の『遠征記』には電信実験に関心を示す日本人が次のように書かれている。
伝信機とは,越列機篤児(エレクトル)の気力を以て遠方に音信を伝ふるものを云ふ。越列機篤児の力は古来支那人の全く知らざる所にて,自から本邦人の耳目にも慣れず。之を簡約に弁明すること甚だ難し。 … 鍛鉄に越列機篤児の気力を通ずれば,其の鍛鉄,磁石力を起して他の鉄片を引く。気力の流通を絶てば之を放つ。伝信機は此理に基て製したるものなり。
其の神速なること、千万里と雖(いえど)も一瞬に達す。各処に線を通ずるには、其道筋三、四十間毎に柱を建て、高さ八、九尺の所に線を掛く。 … 現今西洋諸国には、海陸縦横に線を張ること恰(あたか)も蜘蛛の網の如し。互に新聞を報じ、緊要の消息を通じ、千里外の人と対話すべし。
ペリーの電信機
横浜裁判所内の電信局
電話
明治23年に東京-横浜、明治32年に東京-大阪間が開通。
夏目漱石は『吾輩は猫である』に電話を「しばらく佇んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。 … 女が独りで何か大声で話している。… 女はしきりに喋舌っているが相手の声が少しも聞えないのは,噂にきく電話というものであろう」
海外との電信
1843年にロンドンで最初に電信が導入された。その後米国、フランス、ドイツ、オーストリアにも電信が引かれる。1851年に英仏海峡に海底ケーブルが敷設されると海を越えて電信が可能となった。海底ケーブルは機密保持に優れているので、英国は植民地統治のためインド、中国、オーストラリアへと敷設する。1858年に始まった大西洋横断海底ケーブルの敷設は失敗が続いて、8年後の1866年にようやく完成した。インドには1860年に地上線によって英印間は結ばれていたが、1870年に海底電信ケーブルが完成する。1871年にはインドからシンガポール、シンガポールから香港、上海に延長された。
英仏海峡横断海底ケーブルが敷設された翌年、その話が長崎のオランダ商人から江戸幕府に報告されたらしい。
1870年9月に明治政府はデンマークの大北電信社に海底ケーブル工事を依頼して、翌年6月に長崎と上海が海底ケーブルでつながれた。11月には長崎と浦塩の海底線が開通し、日本はシべリア経由の陸線とインド洋経由の海路の2ルートによりヨーロッパとつながり、さらに大西洋海底ケーブルで北米とが結ばれた。
1872年に大久保卿がニューヨークからロンドン経由で東京あての電報を打った時、長崎まではわずか数時間で達したが、長崎から東京は飛脚郵便のため三昼夜を要した。東京と長崎の陸上電信線が完成したのは翌年の明治6年である。外国電報の数は明治9年の着信が1万2千通、明治30年には発着信合計20万通となる。
無線
工部学校で エアトン 教授に学んだ志田林三郎が1880年に英国グラスゴー大学に留学して トムソン 教授から電気工学を学ぶ。志田は帰国して工部大学校教授になる。1888年に電気学会を設立して第1回通常総会で講演する。マルコーニ
1894の年の夏、避暑のためにアルプスの別荘に滞在中のイタリアの青年が『エレクトリック』誌を見ているとヘルツの記事に目が止まる。当時、有線電信網は世界をつないでいた。1896年6月、マルコーニは『ヘルツ波を使った電信システム』の特許を英国で申請する。9月に英国郵政省と軍が立ち会ってソールズベリーで12kmの送信に成功する。マルコーニ送信機は火花放電の回路とアンテナを直接に接続していたため放電がすぐに終わって送信距離は15kmが限界であった。
マルコーニの送受信機
エアトン
ロンドン生。1847-1908。ロンドンのユニバシティ・カレッジ卒、1868年インドで通信建設の仕事に携わり、1873年に明治政府から招かれて工部大学の教授となり6年間物理学を教えた。
志田林三郎
志田林三郎
佐賀県多久市生。1855-1892。グラスゴー大学での「帯磁率の研究」が最優秀論文賞を授与された。1883年帰国して工部大学校教授と併せて,工部省電信局も兼務して,日本の電気通信技術を発展させた。1887年(明治20年)に論文「工業の進歩は理論と実験との親和に因る」と書く
マルコーニ
三六式無線電信機
1896年に英国の新聞と雑誌『エレクトリシャン』に掲載されたマルコニ−の実験の記事を見た 石橋絢彦 が逓信省電気試験所長の 浅野応輔 を訪問して無線の話をする。浅野はすぐに電信主任の 松代松之助 に無線の研究を命じる。松代は少ない文献を参考にして火花式送信機とコヒーラ検知器を作り、1897年(明治30年)10月、送信機を東京の金杉橋に設置し、受信機を現在のレインボー・ブリッシがある付近の船に搭載して無線通信に成功する。翌年12月には海軍首脳部、大学、新聞記者を招待して実演する。一方、海軍では1899年に英国公使館付武官の 川島令次郎 も海軍に無線電信の研究を始めることを提言する。海軍は 外波内蔵吉 を責任者にし逓信省から松代を引き抜いて1900年2月9日に『無線電信調査委員会』をつくり仙台第二高等学校から 木村駿吉 教授をスカウトして開発を始める。1901年に三四式無線電信機を開発、1902年5月の観艦式で明治天皇が乗船された『浅間』、供奉艦『明石』、軍艦『敷島』に装備した無線電信機は34kmの距離の通信に成功する。1903年に安中製作所が『安中式無線送信機』を開発し、海軍はこれをもとにして1903年(明治36年)に『三六式無線電信機』を開発して軍艦『浅間』、『敷島』、『明石』に装備する。
三六式無線電信機 回路図
日露戦争
1905年5月27日、ロシアのバルチック艦隊が九州の西対馬海峡に現れ、午前9時40分、哨戒艦『信濃丸』に搭載の『三六式無線電信機』から、「敵艦見ゆ」と発信した。東郷司令長官が、 「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高 し」を大本営に無線通信し、旗艦『三笠』をひきいて鎮海湾から出撃、敵艦隊を発見した長官は1時55 分旗艦『三笠』に、「皇国の興廃此の一戦に在り,各員一層奮励努力せよ。」 の戦闘旗を掲げた。
関東大震災
1923年(大正12年)9月1日,土曜日の11:58、相模灘中央でマグニチュード7.9の地震が起きる。焼失家屋45万戸、約10万人が死亡、東京と神奈川の電信線は全滅して通信は途絶する。しかし横浜港に停泊していた客船『これや丸』、『ろんどん丸』が地震発生を打電する。ラジオ放送開始
第一次世界大戦で無線は通信用として研究が進み、戦争が終わると軍用無線機器のメーカーが新市場を求めて、民間のラジオの分野へ進出する。1920年米ピッツバーグで初のラジオ放送が始まり、1922年に英国のBBCがラジオ本放送を開始する。送信機は電気試験所にあったジェネラル・エレクトリック社の出力200Wの送信機を借用した。周波数は最初800kHzであった。この送信機は東京愛宕山のNHK放送博物館に展示されている。1925年3月22日の09:30、東京田町の近くの東京高等工芸学校のスタジオから京田武男アナウンサーが,
JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。
続いて、海軍軍楽隊の演奏が放送されて、10時から後藤総裁の挨拶が放送された。