明治の電気通信

歌舞伎十八番 毛抜
江戸時代の寛保2年の歌舞伎十八番『毛抜』に磁石が登場する。小野春道の娘が使っている簪(かんざし)を鉄製にすり替えて、大きな磁石を持った曲者が天井裏から娘の髪の毛を逆立たせる。粂寺弾正が鉄製の毛抜きが踊ることから曲者を見つける。

磁石とエレキテル

黄帝が蚩尤t(しゆう)と戦った時、霧の中で正確な方角を知るために指南車を使った。紀元前3世紀の中国秦始皇帝の時代の『呂氏春秋精通篇』に「慈石召鉄 或引之也」とある。日本では『續日本紀』の和銅6年紀(713年)に「近江国より慈石を献ずる」と磁石が登場する。
江戸時代、三浦梅園は『玄語』の草稿本『元熈論』に、
磁石と鉄と相去ること数寸、鉄自ら寄り、磁石自ら引く…琥珀よく塵を引いて鉄を引くこと能わざるは琥珀の気鉄と接せざればなり …
と磁石が鉄を引くのと、琥珀が塵を引くのは別であると書く。平田篤胤も1825年の『古史伝』に,
磁石という石の,よく鉄を吸ひて南北を指す…
と磁石が南北を指すことを書いている。 オランダから摩擦起電機とライデン瓶が日本に伝わると、後藤梨春が1765年(明和2年)に『紅毛談』(おらんだ話)に摩擦起電機を「エレキテル」と紹介して禁書になる。1773年(安永2年)に長崎のオランダ商館長がライデン瓶を幕府に寄贈した。『紅毛談』を読んだ平賀源内が長崎で壊れたエレキテルを購入して江戸に持ち帰り1776年(安永6年)に復元する。源内は『放屁論』後編に,
えれきてるせいりてぃと云える,人の體より火を出し,病を治する器 … 抑もこの器は西洋の人、電の理を以て考へ、一旦工夫は付けれども、其身の生涯には事成らず、三代を経て成就しけるといへり、阿蘭陀人といへども知る者は至て少なく。
フランクリンの実験からおよそ50年後の、1811年(文化8年)に蘭医の橋本宗吉が南大阪熊取谷の中喜久田家の庭で凧の実験を行う。橋本宗吉は『オランダ始制エレキテル究理原』に書いている。
「エレキテル」は「エレクトリシテイト」と云と倶に琥珀の力と云ことなり是によりて我輩エレキテルを魄力車と喚びエレキテルの気を魄力と呼ぶ。
琥珀や硝子の様に摩擦して塵を吸うような物を「有魄力」その逆の塵を吸わない物は「無魄力」と名付けた。有魄力の物は水晶、石類、石英、諸樹脂、硫黄、赤信石、硝子、磁器、木材、飾縁、綿糸、紙、象牙、毛髪、膠、封臘、皮革等を挙げ、無魄力の物は主として導体を指しているが、絶縁物でも液状のものや粉末のものは無魄力としている。

三浦梅園
1723-1789 大分県国東生。江戸時代の自然哲学者。『贅語』,『価源』,『多賀墨卿君にこたふる書』。『三浦梅園自然哲学論集』(岩波文庫)がある。

平田篤胤
1776-1843 秋田県出身。『古史伝』

後藤梨春
1696-1771。江戸の本草家。『紅毛談』は後藤梨春がオランダ人から聞いた地理,風習,言語,産物,器具,医薬を絵入りで書いた記録。

平賀源内
1728-1780 香川県さぬき生。蘭学者。

橋本宗吉
1763-1836 徳島県生。蘭学者。『オランダ始制エレキテル究理原』に出版禁止になった。

凧の実験
凧の実験

電信

松代藩士の佐久間象山が蘭書を読んで電信機を作り1849年に70メートルの距離で電信の実験を行ったという記録がある。
1853年(安政元年)にペリーが幕府に電信機を献上する。ペリー提督の『遠征記』には電信実験に関心を示す日本人が次のように書かれている。
電線は真直ぐに、約1哩(マイル)張り渡された。一端は條約館に、一端は明かにその目的のために設けられた1つの建物にあった。両端にいる技術者の間に通信が開始された時、日本人は烈しい好奇心を抱いて運用法を注意し、一瞬にして消息が、英語、オランダ語、日本語で建物から建物へと通じるのを見て、大いに驚いた。
1855年に勝海舟と小田又蔵がこの電信機を将軍徳川家定の前で実験する。 まだ江戸時代の1866年に福沢諭吉が『西洋事情』に書く。

伝信機とは,越列機篤児(エレクトル)の気力を以て遠方に音信を伝ふるものを云ふ。越列機篤児の力は古来支那人の全く知らざる所にて,自から本邦人の耳目にも慣れず。之を簡約に弁明すること甚だ難し。 … 鍛鉄に越列機篤児の気力を通ずれば,其の鍛鉄,磁石力を起して他の鉄片を引く。気力の流通を絶てば之を放つ。伝信機は此理に基て製したるものなり。
其の神速なること、千万里と雖(いえど)も一瞬に達す。各処に線を通ずるには、其道筋三、四十間毎に柱を建て、高さ八、九尺の所に線を掛く。 … 現今西洋諸国には、海陸縦横に線を張ること恰(あたか)も蜘蛛の網の如し。互に新聞を報じ、緊要の消息を通じ、千里外の人と対話すべし。

1869年(明治2年)に東京〜横浜間の電信架設が始まり、東京築地運上所から横浜裁判所まで約32kmに電柱593本を立てて初めて電信が実用化する。1870年に大阪〜神戸、1873年に東京〜長崎、1874年に東京〜青森、1875年に青森〜函館間が開通して日本縦断の電信網が完成した。1873年に大日本政府電信取扱規則が公布された。

ペリーの電信機
ペリーの電信機

横浜裁判所内の電信局
横浜裁判所内の電信局

電話
明治23年に東京-横浜、明治32年に東京-大阪間が開通。
夏目漱石は『吾輩は猫である』に電話を「しばらく佇んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。 … 女が独りで何か大声で話している。… 女はしきりに喋舌っているが相手の声が少しも聞えないのは,噂にきく電話というものであろう」

海外との電信

1843年にロンドンで最初に電信が導入された。その後米国、フランス、ドイツ、オーストリアにも電信が引かれる。1851年に英仏海峡に海底ケーブルが敷設されると海を越えて電信が可能となった。海底ケーブルは機密保持に優れているので、英国は植民地統治のためインド、中国、オーストラリアへと敷設する。
1858年に始まった大西洋横断海底ケーブルの敷設は失敗が続いて、8年後の1866年にようやく完成した。インドには1860年に地上線によって英印間は結ばれていたが、1870年に海底電信ケーブルが完成する。1871年にはインドからシンガポール、シンガポールから香港、上海に延長された。
英仏海峡横断海底ケーブルが敷設された翌年、その話が長崎のオランダ商人から江戸幕府に報告されたらしい。
1870年9月に明治政府はデンマークの大北電信社に海底ケーブル工事を依頼して、翌年6月に長崎と上海が海底ケーブルでつながれた。11月には長崎と浦塩の海底線が開通し、日本はシべリア経由の陸線とインド洋経由の海路の2ルートによりヨーロッパとつながり、さらに大西洋海底ケーブルで北米とが結ばれた。
1872年に大久保卿がニューヨークからロンドン経由で東京あての電報を打った時、長崎まではわずか数時間で達したが、長崎から東京は飛脚郵便のため三昼夜を要した。東京と長崎の陸上電信線が完成したのは翌年の明治6年である。外国電報の数は明治9年の着信が1万2千通、明治30年には発着信合計20万通となる。海底線百年の歩み 海底線施設事務所編

無線

工部学校で エアトン 教授に学んだ志田林三郎が1880年に英国グラスゴー大学に留学して トムソン 教授から電気工学を学ぶ。志田は帰国して工部大学校教授になる。1888年に電気学会を設立して第1回通常総会で講演する。
猶ほ一歩進め学理の蘊奥(うんおう)に拠り想像を試みるに光は電気、磁気、熱の如く勢力にして唯異なる所は其種類に在るは物理学家の深く信じる所なるを以て、電気又は磁気の作用に拠りて光を遠隔の地に輸送し遠隔の地に在る人と自由に相見る事を得る方法の発見を望も敢て夢中の想像にあらざるべし
『明治期の電気工学機器について』千葉政邦
志田が講演した年、独ヘルツが電波の存在を実験で実証する。

マルコーニ

1894の年の夏、避暑のためにアルプスの別荘に滞在中のイタリアの青年が『エレクトリック』誌を見ているとヘルツの記事に目が止まる。当時、有線電信網は世界をつないでいた。
ヘルツ波を使って、電線を使わないで電信を送ることができるかもしれない。
マルコーニはボローニャ大学の リッチ 教授の下で電信、マックスウェルの電磁気学、ヘルツの実験、ロッジとブランリーのコヒーラ受信機を学んでいた。マルコーニは無線実験を始める。一挙に遠い距離で実験せずに少しずつ距離を延ばして確かめてゆく。違う部屋の間ので送信に成功すると、母のアイルランドの実家に頼んで大きな装置を作る資金を得る。1895年の夏、丘を挟んで距離2kmで実験する。遠くに送信するために銅版のアンテナを使う。成功すると銃を撃つ手はずでマルコニーが送信すると、「ダーン、ダーン」と銃声が聞こえた。
1896年6月、マルコーニは『ヘルツ波を使った電信システム』の特許を英国で申請する。9月に英国郵政省と軍が立ち会ってソールズベリーで12kmの送信に成功する。マルコーニ送信機は火花放電の回路とアンテナを直接に接続していたため放電がすぐに終わって送信距離は15kmが限界であった。

Marconi
マルコーニの送受信機

1898年9月20日に独の ブラウン が火花放電の回路とアンテナの間に同調回路を入れて接続する方法を発明し1899年1月26日に英で特許を得る。マルコーニはブラウンの技術を採用して1899年に英仏海峡を挟んで51キロメートルの無線通信に成功する。しかし英仏海峡には1851年に電信用の海底ケーブルが敷設されていて無線を使う必要が無いため,電信省は無線を採用しない。マルコニーの無線は海底ケーブルが無い海軍の船の間の通信に使用された。

エアトン
ロンドン生。1847-1908。ロンドンのユニバシティ・カレッジ卒、1868年インドで通信建設の仕事に携わり、1873年に明治政府から招かれて工部大学の教授となり6年間物理学を教えた。

志田林三郎
志田林三郎

志田林三郎
佐賀県多久市生。1855-1892。グラスゴー大学での「帯磁率の研究」が最優秀論文賞を授与された。1883年帰国して工部大学校教授と併せて,工部省電信局も兼務して,日本の電気通信技術を発展させた。1887年(明治20年)に論文「工業の進歩は理論と実験との親和に因る」と書く

Marconi
マルコーニ

三六式無線電信機

1896年に英国の新聞と雑誌『エレクトリシャン』に掲載されたマルコニ−の実験の記事を見た 石橋絢彦逓信省電気試験所長の 浅野応輔 を訪問して無線の話をする。浅野はすぐに電信主任の 松代松之助 に無線の研究を命じる。松代は少ない文献を参考にして火花式送信機とコヒーラ検知器を作り、1897年(明治30年)10月、送信機を東京の金杉橋に設置し、受信機を現在のレインボー・ブリッシがある付近の船に搭載して無線通信に成功する。翌年12月には海軍首脳部、大学、新聞記者を招待して実演する。
一方、海軍では1899年に英国公使館付武官の 川島令次郎 も海軍に無線電信の研究を始めることを提言する。海軍は 外波内蔵吉 を責任者にし逓信省から松代を引き抜いて1900年2月9日に『無線電信調査委員会』をつくり仙台第二高等学校から 木村駿吉 教授をスカウトして開発を始める。1901年に三四式無線電信機を開発、1902年5月の観艦式で明治天皇が乗船された『浅間』、供奉艦『明石』、軍艦『敷島』に装備した無線電信機は34kmの距離の通信に成功する。1903年に安中製作所が『安中式無線送信機』を開発し、海軍はこれをもとにして1903年(明治36年)に『三六式無線電信機』を開発して軍艦『浅間』、『敷島』、『明石』に装備する。

三六式無線電信機
三六式無線電信機 回路図

日露戦争

1905年5月27日、ロシアのバルチック艦隊が九州の西対馬海峡に現れ、午前9時40分、哨戒艦『信濃丸』に搭載の『三六式無線電信機』から、「敵艦見ゆ」と発信した。
東郷司令長官が、 「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高 し」を大本営に無線通信し、旗艦『三笠』をひきいて鎮海湾から出撃、敵艦隊を発見した長官は1時55 分旗艦『三笠』に、「皇国の興廃此の一戦に在り,各員一層奮励努力せよ。」 の戦闘旗を掲げた。

関東大震災

1923年(大正12年)9月1日,土曜日の11:58、相模灘中央でマグニチュード7.9の地震が起きる。焼失家屋45万戸、約10万人が死亡、東京と神奈川の電信線は全滅して通信は途絶する。しかし横浜港に停泊していた客船『これや丸』、『ろんどん丸』が地震発生を打電する。
地震のため横浜岸壁破壊し死者多数の見込み。
この無線を銚子無線局が受信して潮岬局に転送、午後3時に潮岬局から大阪中央電信局に無線電信する。『これや丸』の送信機は7kWの 佐伯式瞬滅火花式送信機 である。福島県磐城局もこの無線を受信して、
本日正午,横浜において大地震に次いで大火災起こり、全市ほとんど猛火の中にあり、死傷算なく、すべての交通通信機関途絶した。
この電波は福島県原町市のアンテナから送信されて米国サンフランシスコで直接受信されて、世界に震災情報が伝わる。

ラジオ放送開始

第一次世界大戦で無線は通信用として研究が進み、戦争が終わると軍用無線機器のメーカーが新市場を求めて、民間のラジオの分野へ進出する。1920年米ピッツバーグで初のラジオ放送が始まり、1922年に英国のBBCがラジオ本放送を開始する。送信機は電気試験所にあったジェネラル・エレクトリック社の出力200Wの送信機を借用した。周波数は最初800kHzであった。この送信機は東京愛宕山のNHK放送博物館に展示されている。
1925年3月22日の09:30、東京田町の近くの東京高等工芸学校のスタジオから京田武男アナウンサーが,

JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。

続いて、海軍軍楽隊の演奏が放送されて、10時から後藤総裁の挨拶が放送された。

目次 20世紀の技術予測
佐々木 梗 横浜市青葉区
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