明治の鉄道

1854年2月(安政元年正月)にペリー艦隊が来てに日米和親条約を締結した時に、ペリーは4分の1のスケールの蒸気機関車の模型を時速32kmで試走させ、モールス電信機で通信の実演を行った。

欧米の鉄道

英国では1814年にステイーブンソンが蒸気機関車を完成させ、1825年の恐慌の年にロコモーション号が世界で始めての公共の鉄道としてストックトンとダーリントン間の15kmを、38輌の貨車に600人を乗せて時速15kmで運転して、蒸気機関車の輸送力が認められる。
1829年にリバプール・マンチェスター鉄道会社が競技会を開催してロバート・スティーブンソンが設計したロケット号が勝つ。ストックトン・ダーリントン会社は線路を保有するだけであったが、リヴァプール・マンチェスター鉄道は線路、機関車、車両、駅、従業員の全てを運営して二〇世紀の鉄道会社の形をつくった。
フランスは実用化の面で英国に遅れていたが、1837年にパリのサン・ラザール駅とサン・ジェルマン間の19kmに旅客鉄道が開通する。1842年に『フランスの鉄道憲章』が成立し、パリを中心とする鉄道網を策定して、国が基礎工事を行い、私鉄会社が線路を敷設し、車両を購入して経営を行うことを定め、これにより鉄道会社の数は33社に増えるが、地方の多くの会社は破産した。1846年に銀行家のジェームズ・ロスチャイルドが鉄道事業に進出して北部会社を作り、フランス北部の鉄道を地域独占する。1842年にフランスの鉄道の距離は564kmであったが1867年には15,000kmになり、鉄道従業員は50万人に達した。鉄道網が広がって別々に引かれていた線路がネットワークされると、輸送の生産性が急激に増加して経済が急成長する。マルクスが「事業の戴冠式」と呼ぶ鉄道は、最初は鉄や石炭の輸送手段として完成し、大きな株式会社を誕生させていた。
ロケット号
ロケット号

1850年の鉄道総距離
英連合  6621マイル
ドイツ  3639マイル
フランス 1869マイル

日本人の鉄道の理解

幕末の1853年(嘉永6年)、ロシア艦隊司令官プチャーチンが蒸気機関車の模型を長崎に持ってきた。 この模型を見た佐賀藩の精錬方が、1855年(安政2年)に全長約40cmの模型機関車を完成させた。1854年(安政元年)にペリーが幕府に鉄道模型を献上する。
福沢、渋沢 そして『米欧回覧実記』の久米邦武はそれぞれ違った観点で鉄道を理解する。1862年(文久元年)にヨーロッパに渡った竹内使節団の副使松平石見守の従者の市川渡は、まずびっくりしている。
其の車数多きに至りては凡そ三丁程にも続きたるを、前車にある一車の蒸気力にて千万里外に電馳せしむ豈驚目駭心なさざらんや
福沢は『西洋事情』に
旅客を乗せ荷物を運送し、東西に馳せ南北に走る。あたかもこれ陸路の良船、千里を遠しとするに足らず。蒸気車の法、世に行われてより以来、各地産物の有無を交易して物価平均し、都鄙の往来を便利にして人脈相通じ、世間の交際にわかに一新せり。
と鉄道の技術そのものではなく,鉄道が国を発展させる基盤であることに気づく。 渋沢は『西航日記』に、
総て西人の事を興す、独一身一箇の為にせず、多くは全国全州の鴻益を謀る、其の規模の遠大にして目途の宏壮なる、猶感ずべし
と鉄道のように大きな投資が必要な産業を興すためには 株式会社 が必要と気づいて株式会社の制度を学んで,帰国後に多くの株式会社を設立する。
久米邦武は『米欧回覧実記』に
1830年の季に、鉄道の発明ありしより、仏国にては、其の建築は都て政府の所有に定めんとせしも、1842年より以後は、改めて会社に委ね、政府は只其の工事を総監し、之を助力することに決定し、是より其建築も盛んに備わり、1871年までに落成せる総長は17,600英里に及べり、此内に新旧の両道あり、旧道は正路の線なり、新道は支線にて、国民の便利のため、利得をはからず架せるものなり。
と1842年の『フランスの鉄道憲章』から、始めは政府が鉄道建設を経営し、後に会社に経営を任せること、幹線と支線の考え方を聞く。
蒸気車模型の図
ペリーが献上した蒸気車模型の図

鉄道開通

明治になって1869年(明治2年)三条実美邸で、大納言岩倉具視、外務卿沢宣嘉、民部兼大蔵大輔大隈重信、民部兼大蔵少輔伊藤博文、英国公使ハリー・パークスの5名が日本での鉄道建設について話し合う。そして翌年の1870年に英国から29歳の鉄道技師エドモンド・モレルが日本に到着し、彼の指導を受けて横浜と新橋間の鉄道が1872年5月7日に開通し、9月12日に明治天皇が臨行して開業式が行われる。天皇は新橋駅で10両編成の列車に御乗車、10時に出発し、11時に横浜に到着して、勅語をだされる。
今般、我が国鉄道首線工竣るを告ぐ。朕親ら開行し、その便利を欣ぶ。ああ汝百官この盛業を百事維新の初めに起しこの鴻利を万民永享の後に恵まんとす。その励精勉力実に嘉尚すべし。朕我が国の富盛を期し、百官のためにこれを祝す。朕また更にこの業を拡張しこの線をして全国に蔓布せしめんことを庶幾す
新橋 横浜
新橋と横浜間鉄道
新橋と横浜の片道料金は、上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘。明治6年の利用人数は約144万人であった。1874年に大阪〜神戸1877年大阪〜京都間が開業する。新橋〜神戸間の東海道線が全通したのは1889年である。日本の鉄道網は1890年に2200キロメートル,1900年に6000キロメートルとなる。
1875年に鉄道院の神戸工場が客車を製造し、トレシビックのの孫の指導を受けて1893年に機関車が完成する。1901年に約900台の機関車を保有し、このうち約3パーセントが国内製造であったが、1920年になると国内製造割合が90%を越す。

工事見積り 計画の技術

柏木博氏は『近代的問題の処方』に、鉄道の建設が工事の見積り技術、計画と管理の技術を発達させたと述べている。スティーブンソンの時代には工事の前に、鉄道建設に必要な時間と経費の正確な見積りが出来なかった。例えばスティーブンソンはロンドンとバーミンガム間の工事費用を1マイルあたり21,736ポンドと見積もるが、実際の原価は50,000ポンドになってしまう。ジョーゼフ・ロックは正確な工事の管理と、正確な見積りをする一つの標準を作り上げ、この計画と管理の技術は鉄道建設工事だけではなく、エジソンの発電システムのような近代的な都市の計画に応用されてゆく。

夏目漱石の汽車

夏目漱石は汽車を西欧の文明に喩える。
汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱の中に詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へ止まってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車に乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車で行くという。余は運搬されるという。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏みつけようとする
『草枕』 夏目漱石 1906年

二百里の長き車は、牛を乗せようか、馬を乗せようか、如何なる人の運命を如何に東の方に搬び去ろうか、更に無頓着である。世を畏れぬ鉄輪をごとり転す。あとは驀地に闇を衝く。離れて合うを待ち侘び顔なるを、行いて帰るを快からぬを、旅に馴れて徂来を意とせざるを、一様に束ねて、悉く土偶の如くに遇待うとする。夜こそ見えね、熾んに黒烟を吐く来つつある。
『虞美人草』 夏目漱石 1907年
新橋-横浜に使用した機関車

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佐々木 梗 横浜市青葉区
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