黒船

黒船

江戸幕府が生まれて間もない1609年(慶長14年)、将軍 徳川秀忠が大船建造の禁令を制定して、大名が五百石積(凡そ100トン)以上の軍船を持つことを禁止した。それから200年間平和が続く。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)午後5時頃、4隻のアメリカ軍艦が江戸湾西の浦賀町沖に投錨した。旗艦サスケハナと、ミシシッピの2隻の蒸気船と、プリマスとサラトガの2隻の帆船のペリー艦隊である。7月14日に久里浜に上陸して米国大統領から将軍宛ての国書を渡して、3日後に江戸湾を退去した。サスケハナは2450トン、ミシシッピは3200トンである。
日本は、鉄砲伝来以来の西欧軍事技術の衝撃によって開国の道を選ぶ。艦隊が退去して1853年9月15日(嘉永6年)、幕府は「大船建造の禁」を解く。
荷船之外大船停止之御法令に候処、ただ今之時勢、大船御用之儀に付、自今諸大名は大船製造致候儀、御免被成候間、作事方並びに船数共、委細相伺、差図可請之旨被仰出候 …
老中阿部伊勢守正弘
1854年2月13日(安政元年正月16日)にペリー艦隊7隻が再来して羽田沖まで侵入した。幕府は1854年3月31日に日米和親条約を締結する。
ペリーは米国の科学技術と国力を示すため徳川幕府に、蒸気機関車の模型、電信機、ライフル銃、時計、望遠鏡、ミシン、地球儀、天球儀、六分儀などの工業製品を献上する。
蒸気機関車の模型は横浜に陸揚げされ、幕府の横浜応接所裏の麦畑で、1周約110メートルの円状軌道が敷設され運転された。4分の1のスケールの機関車、炭水車、客車が連結されている。機関車は長さ1.8メートルで石炭を焚いて時速32キロメートルで走った。幕府の役人たちは乗ってみたらしい。
電信機はモールス電信機で、応接所と近くの名主中山吉左衛門邸とのあいだに電線を引いて通信の実演を行った。
ペリー提督は『遠征記』に書いている。
日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功をめざす競争に加わるだろう。
『ペリー艦隊大航海記』 大江志乃夫 から引用

軍事技術導入

「黒船の衝撃」によって「蒸気の時代」の技術人材の養成が日本の緊急課題になる。開国に重要な役割行った米国では南北戦争が起きて国際舞台から一時後退している間に英国が日本との通商の主導権を獲ろうとしていた。一方オランダは貿易の既得権益を持っていた。
老中阿部正弘は長崎奉行を通してオランダに軍艦を依頼する。この軍艦が1855年6月に長崎に到着する。排水量720トン、150馬力の スムービング 号で、名称を『観光丸』と改めた。7月に海軍伝習所を設立して、1856年初から伝習が始まる。訓練生は幕臣36名、総取締は永井玄蕃頭尚志、伝習生の長は勝麟太郎である。
訓練は学課と乗艦しての訓練であった。航海術と運用術の ぺレス・ライケン 一等士官、造船術と砲術はスガラウエン二等士官が担当した。航海術のテキストはピラールの航海書であった。1857年春に訓練が終わって訓練生は『観光丸』を操艦して江戸に向い、江戸築地の海軍講武所でも教育が行われる。
長崎で訓練が行われている間、オランダでは日本向けの蒸気軍艦が建艦されて、1857年8月に長崎に到着する。100馬力の木造機帆船『咸臨丸』である。翌年の夏には幕艦は観光丸、咸臨丸、朝陽丸鵬翔丸蟠竜丸の5隻となる。1860年(万延元年)に始めての遣米使節が米軍艦『ポーハタン号』に乗船してアメリカに行く時に『咸臨丸』も随行して太平洋を越える。
黒船
蒸気車模型の図
献上された蒸気車模型

佐賀藩精練方

江戸幕府の命で長崎警固を行っていた佐賀藩は海外の最新情報を入手する唯一の場所で、西欧軍事技術の脅威を感じて、軍事技術の近代化を始めていた。
1842年(天保13年)にアヘン戦争で清朝が英国に敗れると、佐賀藩は大砲の製造を始めるため「蘭伝石火矢製造所」を設けて反射炉の建設を始める。
1852年には鋳造、冶金、薬品の研究を行う「佐賀藩精練方」を作る。精煉方主任は佐野常民で、京都で理化学の研究をしていた 中村奇輔、蘭学者 石黒寛次、久留米の 田中久重 が雇われる。
石黒寛次が翻訳、中村奇輔が蒸気機関のメカニズムを研究、田中久重が部品を製作し、1855(安政2)年8月、小型蒸気車雛型が完成する。
蒸気車模型
佐賀藩精練方蒸気車模型
長さ39.8cm,高さ31.5cm,幅14.0cm

長崎製鉄所

長崎海軍伝習所の総取締永井尚志は艦船を修理する施設が必要と老中に伺い出る。
我が国が仮令海軍を興し伝習を開き、軍艦を購入するも、汽缶を修繕し若くは据え替ゆる道具なければ、破損を生ずる際奈何ともすること能わず、故に製鉄所、船渠を開設せざるべからず。
永井は帰国するオランダ海軍中佐 ファビウスに製鉄所の建設を依頼する。建設責任者としてオランダから二等機関将校 ハルデス が来日して長崎飽ノ浦を建設地として、1857年11月(安政4年)に工場建設が始まり、1860年(万延元年)に第一期工事が落成した。製鉄所は鋳物工場、鍛冶工場、製罐工場、機械工場からなる。
竪削盤 長崎製鉄所開設時の工作機械
ボール盤3台
2軸ボール盤1台
平削盤3台
旋盤4台
足踏旋盤1台
中ぐり盤1台
正面盤1台
ねじ切盤1台
めねじ切盤1台
竪削盤1台

長崎製鉄所 楠本寿一 中公新書, 写真は三菱重工HPより

遣米使節団

1856年(安政3年)10月に老中の阿部正弘が海防係に外国への派遣を検討させる。
海軍御創業については、何も外国の通路あいひらけ候期運到来の御時節に付き、外国往来の義是までの重き御国禁には候えども…時勢に従い、御変革遊ばされ候方、御為然るべく、其の他品々便利な義もこれ有り候に付き、ジャカルタへ伝習人遺わされ候方に評決相成り申し候
開国への布石 土井良三
阿部正弘は1858年に38歳で急逝し、老中は堀田正睦井伊直弼となって1858年(安政5年)6月に日米通商航海条約を調印の後、条約批准書の交換のために幕府はアメリカに77名の使節団を派遣する。使節団は1860年(万延元年)1月にアメリカの軍艦のポーハタン号に乗船して出航、9月に帰国する。副使の外国奉行の村垣淡路守範正は帰国後の日記に次のように書く。
…此度我朝の人来る者総て77人なり、大抵半は彼を悪む者なり、然りと雖も其の実を知るに及ては人皆前非を悔い夢のさめたるが如し …
近代日本の海外留学史 石附実 中公文庫
村垣は人の平等と実学的な合理主義に驚く。使節団に27歳の福沢諭吉が同行する。

遣米使節団がニューヨークを凱旋した光景を詩人のホイットマンが『草の葉』に書いた。
OVER THE WESTERN SEA HITHER FROM NIHON COME, …

遣欧使節団

最初の使節団が外国渡航への心理的な壁の一角を崩す。1862年(文久2年)1月21日に遣欧使節団が派遣される。団長は外国奉行の竹内下野守保徳で総勢38名、目的は1858年の修好通商条で交された江戸,大阪,兵庫,新潟の開港開市期日の延長交渉と,ロシアとの樺太国境確定交渉である。1年間かけて仏,英,オランダ,ロシア,ポルトガルを訪問し1863年1月29日に帰国した。
使節団には福沢諭吉が通訳として同行、福沢が各国の文化,技術,制度を書きとめた日記が『西航記』で『西洋事情』の柱となる記録である。ここに蒸気 電気 伝信の言葉がみえる。
洋籍の我邦に舶来するや日既に久し。其翻訳を経るもの亦尠からず。然して、窮理、地理、兵法、航海術等の諸学、日に闢け、月に明らかにして、わが文明の治を助け武備の闕を補ふもの、其益、豈亦大ならずや。
西洋事情 福沢諭吉

パリ万国博覧会

1867年4月,パリ万国博覧会が開催される。幕府 徳川昭武 の一行が4月11日にパリのリオン駅に到着する。万国博覧会に将軍 徳川慶喜 の名代として訪問し ナポレオンV世 に国書を奉呈するためである。一行がパリに一年半滞在中、日本では大政奉還となり翌年の10月15日に帰国する。
一行はヨーロッパ各地の都市を訪問して鉄道,製鉄所,ガス灯,上下水道を見学し,西欧の会社制度を学び,生活を観察する。
この万博の展示場は長径488b,短径385bの楕円形で,後にエッフェル塔を建設するエッフェルが建築した。展示方法はル・プレイがを考える。同心円上に同じ種類が展示され,一つの国の展示は放射状に並ぶ。この万博は21世紀まで続く世界ブランドを多く生んだ。スタインウェイ の金属フレーム製のピアノが金賞を受賞し, ルイ・ヴィトン のトランクが銅賞を受賞した。日本は和紙、漆器、陶器、武具などを展示する。檜造りの茶屋では江戸柳橋から派遣された3人の芸者が茶をサービスする。
同行した27歳の渋沢栄一は『雨夜譚』に書く。
国家の富強というものは物質上の事物が進歩発展しなければいけないもの、商工業者の社会の中での地位が、日本と違って平等であることでした。
雨夜譚 渋沢栄一

西欧文化の理解のし方

福沢諭吉, 渋沢栄一,それから明治初期に西欧を訪れた日本人は西欧の科学技術を正確に理解して記録する。これらの中でも明治になってからの岩倉使節団の漢学者 久米邦武 の『米欧回覧実記』は、西欧の科学技術を詳細に描写している点で日本技術史の重要な記録である。
日本からの使節や留学生は言葉が不自由なまま、最初は食事,衣服,鉄道,建物といった物質文化を体験する。江戸幕府が輸入しようとしている物質文化は見聞して理解することができる。『和魂洋才』はまさに現実的な方法であった。「精神文化」を理解するには言葉と歴史を知らねばならない。この時代に英語,フランス語が堪能な日本人はほとんどいないので、政治や経済の制度は通訳を通して学ぶ。精神文化を理解するために一番に必要なことは、違った西欧の文化を解釈できる物差しを持っていることである。福沢諭吉は『文明論の概略』の緒言に、

この学者たるもの、二十年以前は純然たる日本の文明に浴し、ただにそのことを文見したるのみにあらず、現にその事に当りてその事を行うたる者なれば、既往を論ずるに憶測推量の曖昧におちいること少なくして、直に自己の経験を以てこれを西洋の文明に照らすの便利あり。
儒学が西欧文化を理解するための比較の物差しになると言う。福沢や渋沢は生まれつきの才能に加えて、この物差しと、柔軟な吸収力を持っていた。福沢は4歳から論語、孟子、詩経、左伝、戦国策を学び19歳で長崎に遊学してオランダ語を学び、さらに江戸で英語を学んだ。ヨーロッパに行く前の1859年にミル『自由論』を翻訳している。英国ではバックルの英国史など書籍を購入して帰り、1875年に『文明論之概略』を書く。福沢は日本の近代化を「外に現れる事物」と「内に存する精神」の観点で考える。
渋沢は6歳から大学、中庸、論語。小学、四書、五経、史記、日本外史を学んで、論語を一生の書に選んだ。『論語と算盤』、名著『論語講義』を書いている。渋沢は西欧の事物と接触する時に儒教の目を通す。渋沢は英語もフランス語も全く勉強していなかったが、彼の儒学は彼に西欧の事物と制度に対しての感受性と理解力を与えた。
文久使節団
文久使節団 ナダール 撮影
左から5人目が福沢
西洋事情
西洋事情

Paris Exhibition_1867
パリ万博会場

徳川昭武
徳川昭武一行
後列左端:渋沢栄一
1867 Paris Exposition Japanese Women
パリ万博での日本女性
出典:長崎大学


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