鎖国と日本の科学思想
太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した。 … 日本人の欠点は科学的精神の欠如である。
鎖国
日本が太平洋戦争で敗戦した直後の昭和25年に和辻哲郎が書いた『鎖国―日本の悲劇』の冒頭である。これに続いて、
合理的思索を蔑視して偏狭な狂信に動いた人々が日本を現在の悲境に導き入れた。が、そういうことの起こり得た背後には、直感的な事実にのみ信頼を置き、推理力による把捉を重んじないという民族の性向が控えている。推理力によって確実に認識せられ得ることに対してさえも、やってみなくてはわからないと感ずるのがこの民族の癖である。 この欠点は一朝一夕にして成り立ったものではない。近世の初めに(西欧では)新しい科学が発展し始めて以来、欧米人は三百年の歳月を費やしてこの科学の精神を生活のすみずみにまで浸透させていった。 しかるに日本民族はこの発展が始まった途端に国を閉じ、その後二百五十年の間、国家の権力をもってこの(西欧)近世の精神の影響を遮断した。
鎖国以前に日本は西欧と接触していた。室町時代の1543年(天文12年)にポルトガル人アントニア・ダモア他2名が種子島に漂着して鉄砲を伝える。
天文癸卯八月二十五日丁酉、我が西村小浦に一大船あり、何国より来るか知らず、船客百余人、其形類せず、其語通ぜず、見る者以て奇怪となす。… 手に一物を携う。長さ二、三尺 … その中常通と雖も其底は密塞を要す。その傍らに一穴あり、火を通ずるの路なり。形象物の比倫すべきなり。妙薬を其中に入れ、添うるに小団鉛を以ってす…其の身を修め、其の目を眇にして、其の一穴より火を放てば、即ちたちどころに中らざることなし。
島主の 種子島兵部之丞時尭 は二千金でこの鉄砲2挺を買い、家臣の篠川小四郎に火薬の製造を学ばせ、刀鍛冶の 八坂金兵衛尉清定 に鉄砲製造法を研究させて、翌年模造品を作った。1549年(天文18年)にザビエルが鹿児島に来てキリスト教を伝える。
江戸幕府は1633年(寛永13年)に鎖国令を発布して、日本船の外国渡航の禁止、日本人の外国渡航の禁止、外国移住の日本人の帰朝禁止、外国船および輸入を規制した。それから黒船が来日する1853年まで日本と外国が交流する場所は長崎県出島に限られた。
日本に鉄砲が伝わる頃の西欧では実験と経験を基礎とする科学が始まり、黒船が来日するまでの約200年間に、科学技術が急速に進む。
鎖国の時代の西欧科学
日本が鎖国する頃、西欧での科学がスタートする。1543年にコペルニクスが『天体の回転について』に地動説を発表するが、1616年に禁書になる。1632年2月にガリレイが自製の望遠鏡を使って天体を観測して地動説を主張して、『天文対話』を発表するが、8月に発売禁止となり翌年に禁書目録に載る。それから250年後の1889年、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がガリレオの裁判での教会の間違いを認める。1638年にミルトンがガリレオに会って『失楽園』を書く。
太陽が地球に向かって昇るのか、それとも地球が太陽に向かって昇るのか 太陽が東からその赫々たる巨歩を踏み出すのか それとも地球が西からゆっくりとした歩調で穏やかな大気と一緒にお前をそっと運びながら … そのいずれであるのかはともかく このような秘められた事項について思い悩むのはよすがよい。
と天が動くのか、地球が動くのかは、人が考えることではないと書く。フランスのデカルトはガリレイの『天文対話』が禁書になった事を知って、刊行を延期していた『方法序説』をオランダのヤン・マイレ書店から1637年に刊行する。
我思う、ゆえに我あり
『方法序説』はそれ自体として判明に認識されないどんな物事も真であるとしないを第1原則とする、4つの原則を科学的思考の原理とする。1687年にニュートンが万有引力の法則を導いて『 自然哲学の数学的原理 』に発表する。ニュートンと同じ時期に、ドイツのウィリアム・ブレイクはニュートンの科学を批判する。
一粒の砂に世界を
野の花に天をみるために
てのひらに無限を
ひとときに永遠をとらえよ
野の花に天をみるために
てのひらに無限を
ひとときに永遠をとらえよ
三浦梅園
条理の訣は、反観合一、捨心之所執、依徴於正
200年という永い鎖国の間、日本でも科学思想家が登場する。江戸中期豊後の人三浦梅園の『多賀墨卿君にこたふる書』の文である。
種族のイドラ」は人間の本性そのもの。「洞窟のイドラ」 は個人の精神に存する。「市場のイドラ」は社会生活によって入りこんだ考え。そして,「劇場のイドラ」はさまざまな哲学によって人間に入りこんだ誤った考えである。
「心の所執を捨てる」とは習気を離れることです。「徴に正しきによる」とは徴のなかには証徴と見えながら真の証拠でない徴がある。たとへば太陽と月はたしかに西に行くという徴があるが、その実東に行っている。… 「反観合一」とは条理を探求する術であって、反観合一することができなければ博覧多識、聡明穎悟の人といえども天地の核心をうかがいみることは絶対できません。
梅園の「習気を離れる」と同じ教えは西欧ではフランシス・ベーコンが書いているが、勿論、梅園の考えは独自である。。ベーコンは『ノヴァ・オルガヌム』に人間の精神には4つのイドラ=幻影 が占有していて、真理への道を妨げていると述べる。種族のイドラ」は人間の本性そのもの。「洞窟のイドラ」 は個人の精神に存する。「市場のイドラ」は社会生活によって入りこんだ考え。そして,「劇場のイドラ」はさまざまな哲学によって人間に入りこんだ誤った考えである。
帆足万里
梅園の条理を進めたのが、おなじ豊後の帆足万里である。1810年(文化7年)に『究理通』を書く。『究理通』は現存していないが、巻一は原暦、大界、小界、巻ニは地球上、巻三は地球下、巻四は引力上、巻五は引力中、巻六が引力下、巻七が大気、巻八が発気、諸生であり、付録に度量衡表がある。引力の巻ではニュートンの引力を「引力は百物発気たり」と紹介し、磁石や琥珀が二つの力を持つことを述べる。黒船が浦賀に現れると73歳の帆足は徳川斉昭に対して大鑑、巨砲を造ることを進言しようとした。三浦梅園
1723-1789 大分 江戸中期の哲学者 1772年頃に『玄語』を書く。梅園は西欧の天文、地理、医学と儒学を習慣的な知識を離れて真の認識に到達する方法を考える。
三枝博音は梅園を西洋哲学者に匹敵する思想家としている。
帆足万里
1778-1852 大分 ミュッセンブロックの『究理説』、ケメテルの『地球究理説』、志筑忠雄の『暦象新書』などの書をもとにして1810年に『究理通』を書く。