マグネトロン
ドイツに留学中にバルクハウゼンから通信工学を学んだ伊藤庸ニは帰国してから電離層やマイクロ波の研究を行っていた。1935年(昭和10年)に周波数5GHz,出力30Wのマグネトロンを作り『電極を線輪型とせるマグネトロン』と,『多分割二重電極マグネトロン』の特許を出願する。1932年(昭和7年)からマイクロ波用真空管の開発をしていた日本無線は,1934年から海軍技術研究所と協同研究を始め、海軍技術研究所開発した8分割橘型磁電管や菊型磁電管を基にして製品化を進め,1939年(昭和14年)に銅の厚板を打ち抜いて陽極とする周波数3GHz,連続出力500Wの水冷式キャビティ・マグネトロン M3 を開発する。日本無線が開発した送信用のマグネトロン M312A と,受信用マグネトロン M60 は海軍のレーダーに採用される。この頃の日本でのマイクロ波の研究は伊藤庸ニ編『極超短波磁電管の研究』に詳しく書かれている。
形式 | 橘型陽極分割数4 |
周波数 | 3GHz |
パルス幅 | 0.67μs |
ピーク出力 | 6.6kW |
冷却 | 水冷 |
M60 は周波数3GHz,波長は9.8cm,ピーク出力50mWである。上野国立科学博物館には日本無線製の M312A を保存されている。 日本無線が M312A を製品化した翌年、英国バーミンガム大学のランドルとブートは周波数3GHzのキャビティ・マグネトロンを発明する。これをもとにして英と米はマイクロ波レーダーの技術協力を始めて射撃制御レーダーや地形レーダーを開発し,これらが戦争中期以降のヨーロッパと太平洋の戦局に重大な影響を与えた。
日本無線が開発したマグネトロン
マグネトロン M312A
マグネトロン M60
二号ニ型電波探信儀
海軍は伊藤が開発を進めてきた周波数3GHzの『100号』レーダーの開発も進めていた。これ伊藤研究室の森精三大尉と水間正一郎技師が担当し,日本無線の中島茂が開発に協力して送信用マグネトロン M312A と,受信用マグネトロン M60 を使って試作品が完成する。試作機を海芝浦駅(JR鶴見線)前の芝浦製作所の屋上に設置して,1941年10月28日,紀元二千六百年の大演習のために東京湾に集結している空母『赤城』からの反射波を捉える。12月には23kmの距離の『浅間丸』を捉える。1942年4月,二号一型電波探信儀 と『100号』の比較実験が行われる。二号一型電波探信儀 を戦艦『伊勢』に装備し,『100号』を戦艦『日向』に搭載して四国沖で試験する。試験の結果、二号一型電波探信儀 は高度3000mの航空機を55kmの距離で探知し,20km離れた戦艦『日向』を探知する。一方『100号』は36kmの距離の『伊勢』を探知したが,航空機の探知が出来なかったので 二号一型電波探信儀 だけ装備化が決まり『100号』は取り外す事に決まるる。しかし戦艦『日向』はミッドウェー作戦への出撃が迫っていて撤去工事ができず搭載したまま出航する。レーダー開発を担当してきた海軍技術研究所の広瀬健三と松村武一がレーダー操作員として同乗する。このレーダーはキスカからの撤退時に濃霧や夜間の航行に有効と認められ,12月に日本無線に注文され,翌年試作機が完成して千葉県太東岬にあった海軍のレーダー実験場に設置する。これが 二号二型電波探信儀 である。受信機は超再生検波回路で局部発振に日本無線のマグネトロン M60 を使うが,動作が不安定であった。
その後、対潜水艦見張用として小型艦艇に搭載するため電磁ラッパ(アンテナ)を導波管で結び、アンテナだけ旋回するように改良された。これが 二号ニ型改ニ で1942年10月に完成した。1943年10月に『武蔵』,『大和』に搭載される。
周波数 | 3Ghz |
パルス幅 | 2-10μs |
パルス繰り返し周波数 | 2500Hz |
ピーク出力 | 2kW |
探知距離(大型艦船) | 35km |
距離精度 | 500m |
方向精度 | 3度 |
送信管 | M312A |
受信機 | 超再生検波発信管 M60 |
アンテナ | 送信受信別のホーン型 |
ブロック回路(改4) |
1944年(昭和19年)1月にオートダイン受信機が完成し、7月に菊地正士が発明した鉱石検波を使ったスーパーヘテロダインに改良されてから動作が安定してすると全艦艇に装備される。生産台数は300〜400台である。
二号二型電波探信儀
二号二型電波探信儀操作盤