日本のレーダー開発

防空体制

1918年(大正7年)11月に第1次大戦が終わる。1923年に陸軍と海軍の間で,「航空機以外ヲ以テスル帝国重要地点陸海軍防空任務協定」が結ばれる。防空に対しての陸軍と海軍の役割分担である。

陸軍は重要都市、工業地帯を主体とする国土全般を受け持ち,海軍は軍港、要港や主な港湾など関係施設に対する局地防空を担当する。陸軍は,ソ連空軍爆撃機が沿海州から日本主要都市を空爆することを想定していた。海軍は米軍との「艦隊決戦」を想定して空母搭載機の発見が目的であった。  『本土防空戦』 渡辺洋二

1937年(昭和12年)4月26日,ドイツ空軍がスペインのバスク地方にあるゲルニカ市を空襲して一般人2千人以上が死傷した。航空機を使った空爆の始まりである。日本本土防空の必要性が高まってきた。 昭和12年4月に『防空法』を公布する。

第一条 本法ニ於テ防空ト称スルハ戦時又ハ事変ニ際シ航空機ノ来襲ニ因リ生ズベキ危害ヲ防止シ又ハ之ニ因ル被害ヲ軽減スル為陸海軍ノ行フ防衛ニ則応シテ陸海軍以外ノ者ノ行フ灯火管制、消防、防毒、避難及救護並ニ此等ニ関シ必要ナル監視、通信及警報ヲ、防空計画ト称スルハ防空ノ実施及之ニ関シ必要ナル設備又ハ資材ノ整備ニ関スル計画ヲ謂フ

航空機の探知

1937年3月,陸軍,海軍,逓信省,大学が集まって『電波研究会議』を開催する。テーマは無線通信であるが,電波を使って敵の航空機を探知する技術的可能性について議論したが,

「送信した電波が10キロメートル以上も離れた場所を飛行している航空機に反射して戻ってきて,受信機で感知できるはずが無い。」

との先入観が大勢を占めて研究は始まらなかった。しかし海外で航空機の探知に関する情報も見られるようになる。1935年(昭和10年)頃,大倉商事のニューヨーク支店が『ポピュラーサイエンス』誌7月号に米国陸軍通信研究所が書いた記事を見つけて詳細情報の提供頼んだが。陸軍通信研究所のコルトンから,「申し訳ありませんが,あの記事以上に提供できる情報はありません。」と断られた。不思議な光線とは赤外線であったらしい。
1938年2月23日,中国国民軍機が台湾上空に侵入して爆弾を投下する。5月には九州宮崎と熊本上空に侵入した。
防空ポスター
防空ポスター 昭和13年
英と米のレーダー開発組織
英国と米国は科学技術を国防に集中させる体制を早くから整えている。英は1934年に英国空軍省科学研究部部長のウィンペリス『防空のための科学的調査委員会 』 CSSADを設立し,科学技術で指導的な立場にあるティザード卿を委員長にする。
米は1940年にカーネギー研究機構総長のブッシュがルーズベルト大統領に設立を強く提案して,『国家防衛研究委員会』 NDRC を設立し,ここが中心となってレーダの開発を進める。

陸軍科学研究所

1919年(大正8年)に兵器技術を研究する陸軍科学研究所が設立された。陸軍科学研究所では1936年(昭和11年)頃から日本電気や日本無線とチームを組んで航空機の接近を監視する電波警戒機の研究を始めた。これはドイツや英国がレーダーの開発をスタートするわずか2年後である。
開発を牽引したのは松尾正史少佐やドイツ駐在武官勤務を終えて1931年に帰国した佐竹金次大尉で、研究メンバーには畑尾正央少佐、民間企業からは日本電気(住友通信工業)の小林正次、田中信高、日本無線の上野辰一が参加した。

超短波波警戒機 甲

1940年(昭和15年)に日本でオリンピックの開催が予定されていた。欧米ではテレビの研究が始まっていて,日本電気の小林はテレビの技術調査のために1938年5月にヨーロッパに出張し,そこでテレビの電波が航空機によって乱れる事に気付く。日中戦争が始まって日本でのオリンピックは中止となるが,小林はテレビ用の送信管を開発して日本電気の玉川工場から送信し,受信機を自動車に積んで試験をしていた。ある日,近くの立川飛行場に離着陸する飛行機が飛んでいる時に送信機から直接に受信する電波と,航空機に反射して受信される電波が干渉して電波が乱れることを発見して、このことを陸軍に報告する。
報告をもとに陸軍は電波警戒機を開発する。送信機と受信機を離れた場所に置いて、送信機と受信機を結ぶ線上に飛行機が接近する時に干渉する電波を受信して探知する仕組みである。1939年(昭和14年)2月20日に栃木県の金原飛行場で実験して航空機からの反射波の受信に成功して本格的な開発が始まる。日本電気玉川工場から電波を発射して、箱根十国峠と静岡県沼津 香貫山で航空機からの反射波を捉える。10月に阿南陸軍大臣が視察してから配備が決まる。製造は東芝と日本無線である。このレーダを配備する候補地は,ソ連からの空襲に備えるために日本海沿岸の新潟県 火彦山、親不知 海岸,富山 泊温泉を選ぶ。12月に佐竹中佐、河野大佐、伊東中佐が調査して送信機を泊温泉に、受信機を小樽、清津(現在の北朝鮮)に設置することを決める。
これが日本での最初の航空機早期警戒レーダー 超短波警戒機 甲 である。1940年(昭和15年)10月に中国の漢口に開発品を設置し,1941年(昭和16年)から主に中国本土に数百台が配備される。
電波が干渉する現象を利用して航空機を探知する方法は,米国でも8年前に研究されていたが,この方式は目標までの距離と方向を測定できないので,飛行している航空機の数が多い欧米では使用できないため開発されなかった。
超短波警戒機 甲 の仕様
方式電波干渉電波干渉電波干渉電波干渉
出力 W1020100400
周波数 MHz45-7545-7545-7545-75
発振水晶水晶水晶プッシュプル
警戒距離 km80120200350

佐竹金次
佐竹金次

ME664
5極管 ME664 住友真空管

海軍技術研究所

海軍は日露戦争で無線が戦闘に有効なことを経験した。第1次世界大戦では航空機や戦車が使われて戦争に科学技術が必要であることを知る。1923年(大正12年)に 海軍技術研究所 を設立する。翌年,東京帝国大学工学部を卒業した伊藤庸ニが海軍に入る。東北帝国大学の八木秀二教授の紹介で,伊藤は1925年11月からドイツのドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授のもとに留学して,1928年に帰国すると海軍技術研究所電気研究部に配属となり電離層の研究を始める。1932年に電波を使って電離層の高さを測定する研究を行っていた。
  1936年(昭和11年)11月に海軍技術研究所電気研究部の 谷恵吉郎 造兵中佐がレーダー研究を始める事を提言すると,上官から、

敵艦を探知するのに自分で電波を発射するのは恰も暗夜に物を探すのに提灯を用うる如きものである。物を探し当てることは出来るかもしれないが、その前に自分の所在を暴露するものである。隠密行動を必要とする海軍に於いては必要のないものだ。『日本無線史 第十卷』

と言われて,研究は始まらなかった。
1937年(昭和12年)5月,英国ジョージ六世の戴冠式に日本から重巡洋艦『足柄』が参列して英仏海峡を夜間に通過中、英国沿岸の探照灯が瞬く間に航空機を捉えているのを同乗していた牧野茂少佐が気づいて海軍技術研究所に報告するが誰も関心を示さない。『海軍技術研究所』中川靖造
1937年(昭和12年)に伊藤はブカレストで開かれる国際無線学術会議とウィーンで開催される国際短波学会に出席するため再びドイツに出張する。ここでバルクハウゼン教授を訪問してドイツにおける電波応用研究について聞く。

ドイツ海軍は夜間に,目標までの距離を測定する装置を開発した。

と情報を得る。ドイツの GEMA 社が開発していた艦船搭載レーダー SEETAKT のことであったと思われる。伊藤はこのことを海軍に報告するがこれも関心を惹かないので,ドイツ駐在武官の小島秀雄中佐に引き続き調査をするよう依頼して帰国する。

伊藤庸ニ
伊藤庸ニ

海外レーダー情報収集

1940年(昭和15年)10月号の『米海軍報告』に『秘密の電波眼』が掲載された。陸軍はこの記事を日本に送付する。

英國は防空上の立場から見ると,全く損な地形の上に立っておるが,それにも不拘、ドイツ空軍の來襲する以前に高射砲や戰闘機は戰闘體形を完了してゐる。此の事は普通の監視方法では果たされないことであり,何か他の方法があるのではないかと云う疑いを懐かせるに充分である。それは Radio Searchlight 即ち電波により數十哩先の飛行機を晝夜,雲霧の有無如何にかゝはらず「見」得るものがあるからであらう。装置については英國は極秘にして居るが,電波の反射現象を利用するものであらうことは疑いを容れぬところである。… 此の装置に利用する電波の波長としてはテレビジョンに使用する程度の波長であらうこと。英に於てはテレビジョンの研究過程に於て偶然的動機からそれを發明することとなったこと。それはニ年前,繁忙な空港の附近に設置さられたテレビジョン受像器に時々二重の像が現れ,それが空港を發着する飛行機からの反射波であること。その二つの像と,飛行機とテレビジョン装置との距離には或る關係のあることが判ったこと。そしてドイツの科學者は永らく超短波の実驗行って居たから,恐らくドイツは同様な装置を持ってゐるのではないだろうかとおもわれること。…この装置は防空上非常に重要な装置であるだろうこと。」
『ラジオロケーターの話』  泉信也

ロンドンでは駐英大使の重光葵,駐英武官の源田實が連日ドイツからの空襲を経験していた。英本土航空戦である。重光は,戦後戦争犯罪人として虜因中に書いた『昭和の動乱』に英国のレーダー防空について書いている。

「英国はすでに前からチャーチル等の主張によって,防空の設備は,相当強力なる空軍の建設とともに,かなり進んでおった。電波探知の方法の如きも,亦戦前すでに或る程度完成して居って,開戦の時は,海峡に面した方面はいずれもその設備を有ち,七,八十浬以内における敵機の存在を探知することを得た。

後に真珠湾攻撃の航空参謀となる源田も1940年(昭和15年)9月まで英国に滞在していた。しかし源田がレーダーについて書いた資料は無いようだ。
ロンドンに駐在していた造兵監査官 浜崎諒造 中佐は1941年(昭和16年)2月号の『ライフ』誌に掲載されている戦艦『キング・ジョージX世』にレーダーらしい装置が搭載されているのを見つけて、この雑誌を海軍艦政本部に送る。

ドイツへの軍事技術調査団派遣

ヨーロッパでは1939年(昭和14年)にドイツがポーランドに侵入すると英国,フランスが参戦して第二次世界大戦が始まる。1940年(昭和15年)9月に日本,ドイツ,イタリアが三国同盟に調印するとドイツは日本からの軍事技術調査を受け入れことを了解し,日本陸海軍合同の調査団の派遣が決まる。
陸軍は山下奉文中将が団長となり,12月にモスクワ経由の鉄道で出発する。陸軍のレーダー調査担当は 佐竹金治 中佐と 木原友二 少佐である。
海軍はドイツに滞在していた 野村直邦 中将が団長となる。翌年の1月16日に特務艦『浅香丸』で出航し米領パナマ運河を通り2月24日にベルリンに到着する。海軍のレーダー調査担当は 伊藤庸二 である。
伊藤は3月8日にドイツ海軍からレーダーについて話しを聞く。伊藤がバルクハウゼン博士の弟子で,ドイツ語に堪能であるためドイツも協力的であった。
ドイツでは3機種のレーダーが開発され,すでに運用を行っていた。周波数 375MHzの艦船搭載用航空機監視レーダー SEETAKT ,周波数120-130MHzの陸上設置用の航空機監視レーダー FREYA ,そして周波数550MHzの射撃制御レーダー Würzburg である。
伊藤はどのレーダーもパルス波を採用していることを知って驚く。

メートル波あるいはセンチメートル波の反射作用を利用して,これを約1万分の1以下のインパルスにして…

さらに送信アンテナと受信アンテナを共通に使うためにの特別な回路ー 送受切り替え装置 を使と,方向測定精度を高めるための ビーム切り替え方式 を使っている事などを聞いて,すぐに報告書を書き,海軍艦政本部に3月11日に暗号で報告する。この報告書によって海軍はレーダーにパルス波を使う方針を決める。
伊藤がベルリンからフランスのビスケー湾に面した潜水艦基地のロリアン港に向かう途中,英国がダンケルクから撤退するときに破壊して遺したレーダーを見た。これは射撃制御レーダー GL Mark Ⅱ と,移動式の CHAIN HOME MRU で,GL Mark Ⅱ には 八木・宇田アンテナ が使われていたが,伊藤はこれには気付かなかった。ロリアンの近くでは FREYAが据え付けられている場所を通過する。
3月23日,陸軍の佐竹と木原,海軍の伊藤はドイツ潜水艦基地であるロリアン港で合流し,ここで射撃制御レーダー Würzburg を見学する。

見学時間は僅か30分だけに限られていたが,佐竹と伊藤は Würzburg が航空機を探知し,これに連動している103ミリメートル高射砲を制御しているのを知って
「ドイツのレーダーはこんなに優れている。」 と驚愕する。

伊藤は Würzburg の調査結果をまとめ,ホテルにあった『ネイチャー』誌の1941年6月号に英軍需相ビーバー・ブルックが書いたレーダーの記事とを海軍技術研究所に報告する。

陸軍調査団
団長山下奉文中将,坂西一良中将,綾部橘樹少将,穐田弘志中佐,高崎正男少佐,遠藤悦少佐,棚橋茂雄少佐,原乙未生少将,一瀬渉大佐,角健之中佐,館野基忠中佐,田中賢治中佐,佐竹金次中佐,高山信武中佐,細田熈中佐,権藤正威中佐,原田貞慧大佐,飯島正義中佐,有森三雄中佐,岸本重一中佐,木原友二中佐,中村昌三少佐,梼原秀晃少佐,篠尾正明中佐

海軍調査団
団長野村直邦中将,三戸由彦少将,入船直三郎少将,酒巻宗孝少将,佐藤波蔵大佐,仁科宏造大佐,松尾実大佐,横田俊雄大佐,頼惇吾大佐,永井太郎中佐,小林淑人中佐,内藤雄中佐,大友博中佐,跡部保中佐,稲葉柾中佐,喜安貞雄中佐,伊藤庸ニ中佐,森永健三少佐,萩尾重樹,松本清,樽谷由吉,金川漸

ウルツブルグD
Würzburg D

ギリシャ沖海戦

遣独調査団がドイツに滞在中にレーダーを使ったニつの海戦が行われた。1941年3月26日,27日の夜,ギリシャ沖でイタリアの軍艦が英レーダーに捕捉され砲撃され沈没した。4月にワシントン駐在イタリア武官が 横山一郎 海軍武官を訪問してイタリア海軍がレーダーを使って砲撃された情報を提供する。

3月27日22:00,ギリシャ南端のマタパン岬沖でイタリアの3隻の重巡洋艦と2隻の駆逐艦が英海軍に砲撃されて沈没した。英戦艦『ヴァリアント』,巡洋艦『アジャックス』,空母『イラストリアス』は航空機早期監レーダー Type 279 ,巡洋艦『オリオン』は Type 286M を搭載して3500mの距離でイタリア軍艦を発見した。

Type 279 の仕様
周波数40MHz
パルス幅7-30μs
パルス繰返し周波数50Hz
出力70kW
探知距離50-75km(高度400m)
距離精度450m

Type 286M の仕様
周波数214MHz
パルス幅2μs
パルス繰返し周波数50Hz
出力6kW
探知距離6-10km(駆逐艦)
距離精度200m
アンテナ宇田・八木アンテナ固定

横山が海軍に「航空機や艦船に向けてある種の電波を発射し,その反射電波を捕捉すれば,肉眼では見えなくても,その航空機を探知できる。」と報告すると,海軍から米軍のレーダーの装備状況を調査するよう指示が出る。有坂盤男が米海軍の港を調査し,
「全ての空母,戦艦,巡洋艦の艦橋にレーダーアンテナが設けられている。」
と報告した。これらは航空機捜索レーダー CXAM と,射撃制御レーダー FA である。

Type 279 アンテナ
Type 279 アンテナ

Type 286 アンテナ
Type 286 アンテナ


ドイツ戦艦『 ビスマルク 号』撃沈

ドイツ戦艦『ビスマルク』と英海軍の海戦は 英国本土航空戦 に匹敵するレーダーが使われた戦である。1940年に戦艦『ビスマルク号』が竣工した。排水量4万2千トン,全長251メートル,15万馬力,最高速度30ノット,8門の38センチ砲を搭載し,舷側の鋼板は浸炭硬化処理されている。
戦艦『ビスマルク号』がレーダーで追跡され英国戦艦『ロドニー』,『キング・ジョージ五世』からの砲撃と,重巡洋艦『ドーセットシャー』の魚雷攻撃で,5月27日の10:36,沈没した。
『ビスマルク号』が撃沈されたことを知った軍令部第三部長の 前田稔 から6月12日に英国駐在の 近藤泰一郎 武官に対して英国が保有しているレーダーを調査するよう指示する。

情報によれば英海軍は電波放射により視界外相当遠距離にある潜水艦その他の艦艇 飛行機の方位距離を探知し 作戦に資しある如し 右に関し貴地に於ける観測知らされ度

金鶏

前田が英国の近藤に指示した数日後の6月18日、英軍需相ビーバー・ブルックが米国向けの放送の中でレーダーの存在を明らかにして、英国本土航空戦では『金鶏』が防空に貢献したと話す。『金鶏』はロシアのリムスキー・コルサコフが作曲したオペラで金鶏はレーダーのことである。ビーバー・ブルックはこの中で一般無線技術者の協力を要請する。
現在,英陸・海・空軍に於てラジオ・ロケーターに關する仕事に從事する者の數は數千人に達するが,然し,之では刻下の要求を滿たすにはなほ不十分であり,現在,無線技術の經驗ある十八歳から六十歳までの男女一萬人を必要とする。今後の見透しに於ては,空軍には男子八千人,女子三千人,陸軍には相当數,海軍にはニ千人の男子と三百人の女子とを必要とするであろう。
ラジオロケーターの話
『金鶏』は6月28日号の雑誌『ネイチャー』にも掲載されて、この記事は日本に送られて『無線と実験』誌が1941年(昭和16年)12月号に、英国の航空機早期監視レーダー CHAIN HOME を紹介し、そのレーダー指揮室の写真を掲載する。
7月6日に英国駐在の浜崎諒造から、
ロンドンハイドパークに高射砲と一緒に、レーダーらしいものが設置されている。車両は4輌でアンテナの幅は10m、高さは4m、アンテナの形から推定すると周波数は150MHzである。
と報告がある。
ビスマルク
戦艦『ビスマルク号』

金鶏
敵の侵攻を心配していたドドン王に星占いが,危機が近づくとそれを知らせる金鶏をプレゼントする。市川猿之助が2002年にパリオペラ座で演出した『金鶏』のDVDが販売されている


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佐々木 梗 横浜市青葉区
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