日本の無線通信の始まり

無線の実用化

日本での電気研究の母体はスコットランドである。江戸時代の1863年(文久3年)に5人の長州藩士が海軍技術を学ぶため英国に向けて密出国した。このうちの一人の山尾庸三は1866年にグラスゴー市にあるネピア造船所で機械職工となって造船技術を学び,明治元年11月に帰国する。山尾は工部卿となって1873年に工業技術教育のための工部学校を設立する。工部学校は電信学と物理学を教える物理学教授としてスコットランドのグラスゴー大学からエアトンを招聘する。エアトンに学んだ第1回の卒業生の中から志田林三郎が1880年に英国グラスゴー大学に留学して,トムソン教授から電気工学を学ぶ。志田は明治16年に帰国して工部大学校教授になり1888年(明治21年)に電気学会を設立する。その第1回通常総会で講演する。

「猶ほ一歩進め学理の蘊奥(うんおう)に拠り想像を試みるに光は電気,磁気,熱の如く勢力にして唯異なる所は其種類に在るは物理学家の深く信じる所なるを以て,電気又は磁気の作用に拠りて光を遠隔の地に輸送し遠隔の地に在る人と自由に相見る事を得る方法の発見を望も敢て夢中の想像にあらざるべし
『明治期の電気工学機器について』千葉政邦

志田が講演した年に独ヘルツが電波の存在を実験で実証して『空気中での電磁波とその反射について』の論文を書いた。ヘルツは電波が何に使われるかを学生から質問されて,
「電波が何に使われるのか私には分からない。」
と答えた。

1896年(明治29年)にマルコニーが英国郵政省と陸海軍に対して無線通信の実演をして、英国の新聞と、雑誌『エレクトリシャン』に掲載される。この記事を見た石橋絢彦(あやひこ)逓信省電気試験所長の浅野応輔を訪問して無線の話をする。浅野はすぐに電信主任の松代松之助に無線の研究を命じる。
松代は少ない文献を参考にして火花式送信機とコヒーラ検知器を作り,1897年(明治30年)10月に送信機を東京の金杉橋に設置し,受信機を現在のレインボー・ブリッシがある付近の海に船に搭載して無線通信に成功する。翌年12月には海軍首脳部,大学,新聞記者を招待して実演する。
一方、海軍では1899年(明治32年)に英国公使館付武官の川島令次郎も海軍に無線電信の研究を始めることを提言する。海軍は外波内蔵吉を責任者にし逓信省から松代を引き抜いて1900年(明治33年)2月9日に『無線電信調査委員会』をつくり仙台第二高等学校から木村駿吉教授をスカウトして開発を始める。1902年(明治35年)5月に行われた観艦式で明治天皇が乗船された『浅間』,供奉艦『明石』,軍艦『敷島』に装備した無線電信機は34kmの距離の通信に成功する。1903年(明治36年)に安中製作所が『安中式無線送信機』を開発し,海軍はこれをもとにして 三六式無線電信機 を開発して軍艦『浅間』,『敷島』,『明石』に装備する。

Ayrton
エアトン

エアトン
ロンドン生。1847-1908。ロンドンのユニバシティ・カレッジ卒,1868年インドで通信建設の仕事に携わり,1873年に明治政府から招かれて工部大学の教授となり6年間物理学を教えた。

志田林三郎
志田林三郎

志田林三郎
佐賀県多久市生。1855-1892。グラスゴー大学での「帯磁率の研究」が最優秀論文賞を授与された。1883年帰国して工部大学校教授と併せて,工部省電信局も兼務して,日本の電気通信技術を発展させた。1887年(明治20年)に論文「工業の進歩は理論と実験との親和に因る」と書いている。36歳で死去。

日本海海戦

1905年(明治38年)5月27日,ロシアのバルチック艦隊が西対馬海峡に現れ,09:40,哨戒艦『信濃丸』に搭載の『三六式無線電信機』から,「敵艦見ゆ」 と発信する。東郷平八郎連合艦隊司令長官が,
「敵艦見ゆとの警報に接し,連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」
を大本営に無線電信し,旗艦『三笠』を率いて鎮海湾から出撃する。ロシア艦隊を発見した東郷長官が13:55に「皇国の興廃此の一戦に在り,各員一層奮励努力せよ。」の戦闘旗を旗艦に掲げた。日露戦争の後,海軍は無線通信の研究に力を入れる。
三六式無線電信機の仕様
波長600m
送信機インダクションコイル使用の火花式
受信機コヒーラによる印字
送信電力600W
無線到達距離約1000km

三六式無線電信機
三六式無線電信機回路

関東大震災

1923年(大正12年)9月1日,土曜日,11:58,相模灘中央でマグニチュード7.9の地震が発生する。焼失家屋45万戸,約10万人が死亡,東京と神奈川の電信線は全滅して通信は途絶する。しかし横浜港に停泊していた客船『これや丸』,『ろんどん丸』が地震発生を打電する。
「地震のため横浜岸壁破壊し死者多数の見込み。」
この無線を銚子無線局が受信して潮岬局に転送,午後3時に潮岬局から大阪中央電信局に無線電信する。『これや丸』の送信機は7kWの佐伯式瞬滅火花式送信機である。福島県磐城局もこの無線を受信して,
「本日正午,横浜において大地震に次いで大火災起こり,全市ほとんど猛火の中にあり,死傷算なく,すべての交通通信機関途絶した。」
この電波は福島県原町市のアンテナから送信されて米国サンフランシスコで直接受信されて,世界に震災情報が伝わる。

ラジオ放送開始

1925年3月22日,09:30,東京田町の近くの東京高等工芸学校のスタジオから,京田武男アナウンサーが,

「JOAK,JOAK,こちらは東京放送局であります。」

送信機は電気試験所にあったジェネラル・エレクトリック社の出力200Wの送信機を借用し,改良して使う。周波数は最初800kHzであった。この送信機は東京愛宕山のNHK放送博物館に展示されている。

八木・宇田アンテナ

1925年に日本で無線通信の分野で世界的な発明が生まれた。
東北帝国大学の八木秀次教授の研究室で学生の西村雄二がコイルの共振の実験をしていると,不思議な現象がおきて八木に相談する。アンテナの前に波長の半分より少し短い長さの導体を置くとその方向に指向性が高くなる現象である。八木はこの現象を講師の宇田新太郎と一緒に研究し,1926年2月に論文を発表し,「電波指向方式」の特許を得る。しかし日本では学界も無視し,海軍も陸軍も関心を示さない。
1928年に八木はニューヨークで開かれたアメリカ無線技術者協会の総会で,このアンテナを発表して高い評価を得る。八木の講演録は1928年6月号の『IRE会誌』に掲載され,八木は1932年5月に米で特許を取得する。その後,マルコニー社は八木・宇田アンテナの特許を買い,RCA社も八木と契約する。後に米国,英国,ドイツは八木・宇田アンテナをレーダー用のアンテナとして採用した。欧米で八木・宇田アンテナが採用されたレーダーの例を挙げる。 日本では八木・宇田アンテナは全く無視されたが,開戦後の1942年1月,日本軍はシンガポールを占領し,ここで英国の射撃制御レーダー GL Mark Ⅰを捕獲するとこれに八木・宇田アンテナが使用されていた。この後,陸海軍はレーダーのアンテナに八木・宇田アンテナを採用する。

マグネトロン

1920年にドイツのドレスデン大学のバルクハウゼン教授がマイクロ波振動を発見した。その翌年に米国ジェネラル・エレクトリック社のハルが2極真空管の軸方向に磁界を加えて電子流を制御するマグネトロンを発明する。
1925年に東北帝国大学の八木秀次博士がバルクハウゼンのマイクロ波振動を使って周波数780MHzを発生させる。1927年に岡部金治郎博士が,ハルのマグネトロンを研究している時にマイクロ波が発生していることを発見する。厚い銅板の中心に孔をあけ,周囲に直径約1cmの孔をあけて,中心の孔に陰極を入れて,周囲の銅を陽極とし,そこに磁気を与える構造で10GHzの振動を発振した。岡部は 分割陽極型マグネトロン 「超短電波発生用真空管」の特許を取る。
海軍技術研究所の伊藤庸ニはこのマグネトロンの研究を進め,日本無線 が製品化して1939年に送信用のマグネトロン M312 と受信用 M60 を完成し,海軍のレーダー 電波探信儀2号2型 に使用される

八木アンテナ
八木・宇田アンテナ

東北大学電気通信研究所
岡部金治郎

岡部金治郎
1896-1984。東北帝国大学卒,1925年同大学教授,1935年に大阪帝国大学理学部に移り,1937年同大学教授となる。

岡部マグネトロン
岡部金治郎 マグネトロン

M312
日本無線が開発したマグネトロン M312

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佐々木 梗 横浜市青葉区
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