チャフ
1937年に英空軍省の物理学者の ジョーンズ が空中に小さい金属箔を撒くと、これがレーダー波を反射させると予測した。1942年に英 TRE の女性科学者 ジョン・カラン がアルミニウム片を空中に撒いて敵のレーダー波を乱すことを考えついて、直ぐに実験するとレーダーが役に立たなくなることが確認できた。英国はこのアルミニウム片を 窓 と名づける。米は チャフと呼ぶ。ドイツも同じ発明をして 欺瞞と呼んだが、その威力に驚いて、連合国に使われることを怖れて最高の防衛秘密にして研究を禁止した。
日本でも同じ発明をして、これを 欺瞞紙 と呼んだ。1943年5月にガダルカナルを爆撃する時、米の SCR-268 に探知されないようにレーダー波長1.5mの半分の長さの75cmの 欺瞞紙 を撒いた。
英国ではドイツ爆撃の際に 窓 を使うかどうか意見が別れた。6月23日、チャーチル首相が出席して会議が行われる。ワットは 窓 の使用に慎重であったが、爆撃部隊の責任者の レイ・マロリー が、
ドイツに 窓 を知られることよりも,爆撃機と搭乗員の命を守ることを選択したい。
と主張する。チャーチル首相は暫く考えてから,よし,窓を開けよう。
ハンブルグ市爆撃
1943年7月24日深夜、英空軍爆撃機編隊がハンブルグに向かい北海上空で爆撃機から無数のアルミ箔を投下する。ドイツ軍の WÜRZBURG 基地から司令室に、
北海上空を大編隊がドイツに向かって飛行して来る
と連絡が入るが、その後、表示機の敵機の位置が動かない。司令室からレーダー基地に何が起きているかを聞くと、レーダー表示機の中に光点が無数に現れて,何か起きているのか分からない。
と報告がある。さらに空から何かが落ちてくる。
と報告が入る。正常に働いている早期航空機探知レーダーの FREYA と MAMMUT からの情報をもとにして夜間戦闘機BF-109がスクランブルするが、搭載レーダー Lichitenstein SN-2 も探知できない。ハンブルグ市の周辺に配備されている22箇所のサーチライトも光の中に何も捉えることかできず、54基の高射砲は敵機の無い空に向って無闇に砲を撃つ。英空軍では アーサー・ハリス がレーダーを使った精密爆撃を拒否して無差別爆撃を主張する。彼は 爆弾ハリス と仇名された。7月27日の深夜739機の英爆撃機がハンブルグ市に焼夷弾を投下する。摂氏800度の火炎の竜巻が約20平方kmの広さの街を燃え尽くす。7月29日は700機,爆撃は8月3日まで続き,爆撃機3000機が9000トンの爆弾を投下。ハンブルグ市民5万人が死亡した。
爆撃後、街には大量のアルミ片が散乱していた。アルミ箔の長さは27cm,幅は12mmである。これはドイツ射撃制御レーダー WÜRZBURG の波長54cmの半分の長さである。撒かれたアルミ箔約の量は9200万枚、重量にして40トンである。
それまで英の爆撃機の損失は約5%であったが、ハンブルグの爆撃では、 窓 が威力を発揮して爆撃機の損失は1.5%に下がる。
窓 を撒くと WÜRZBURG は役に立たなくなると思われたが、ドイツはドップラー効果を応用して動いている目標と、静止している目標を分離して、動く目標だけを分離して探知する技術を開発する。ベルリン爆撃では連合国の損失が再び10%を越える。
窓
ドレスデン市空襲
ドレスデン廃墟
ドレスデン市はエルベ川の水運を利用した商業都市として、16世紀以降はザクセン王国の首都で芸術と文化の街、磁器の産地として繁栄した。第二次世界大戦時の人口は63万人である。
1945年2月13日の夜、英空軍の地形レーダー H2S を搭載したランカスター爆撃機約800機、モスキート9機が市に1478トンの爆弾と1182トンの焼夷弾を投下する。14日の昼には波長3cmの地形レーダー H2X を搭載した米空軍B-17爆撃機311機がレーダーによる爆撃を行い783トンの爆弾を投下する。この空襲でのドレスデンの死者は凡そ3万5千人、2日間の爆撃で美しい街並は瓦礫の山となった。ヨーロッパでの大規模な空襲はドレスデン市が最後となる。5月8日ドイツが降伏する。
爆撃されて廃墟になった聖母教会はベルリンの壁が崩壊した年から復興が始まり、破片数十万個を使ったパズルが完成して2005年10月30日に復元された。
復元された ドレスデン聖母教会