玉音放送
玉音放送を聞く人達
この御前会議の様子は終戦時の鈴木内閣の書記官長であった迫水久常が『終戦の真相』に書いている。昭和天皇が戦争終結を聖断する。
大東亜戦争が始まってから陸海軍がしてきたことを見ると,どうも計画と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り,勝つ自信があると申して居るが,自分はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが,実はその後侍従武官が実地に見てきての話では,総長の話とは非常に違っていて,防備は殆ど出来ていないようである。又先日編成を終わった或る師団の装備については,参謀総長から完了の旨の話を聞いたが,実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない有り様であることが判った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか自分は非常に心配である。或いは日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るのか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていていて貰って,その人達が将来再び起ち上がってもらう外に,この日本を伝える方法は無いと思う。それにこのまま戦を続けることは世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇三国干渉の時のお心持も考え,自分はどうなっても構わない。耐え難きこと忍び難きことであるが,この戦争をやめる決心をした次第である。
8月10日の午前2時30分であった。スイスの 加瀬公使 とスエーデン 岡本公使 を通して米国、英国、ソ連、中国の4ヶ国にポツダム宣言を受諾することを伝える。4ヶ国からの回答に対して陸海軍が反対して最高戦争指導会議は再び分裂するが、14日深夜10時50分からの御前会議で「最後の聖断」が下る。翌8月15日 12:00に玉音放送。
朕深ク世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。朕ハ帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。…
この戦争で日本は117万人の兵士と、70万人の市民を亡くした。停戦命令に先立ち,第五航空艦隊司令長官の宇垣纒中将は艦上爆撃機『彗星』で沖縄の米艦に突入した。特攻作戦の創始者と伝えられている大西瀧治郎中将は16日の朝方,英霊とその遺族に謝す遺書を残して自殺する。陸軍大臣阿南惟幾は官邸で割腹自殺する。遺書は「一死以て大罪を謝し奉る。」1945年(昭和20年)8月30日米軍は日本を占領し,9月2日に米戦艦『ミズリー』船上で日本は降伏文書に調印する。
レーダー復興
ウルツブルグレーダーを指導するために潜水艦で来日した,テレフンケン社のフォーデルスは捕虜になって1947年にドイツに帰り1948年に釈放された。海軍技術研究所の伊藤庸二は1947年に,航海用無線方位測定機の光電製作所を創立する。伊藤が社長時代の1953年に東ドイツに出張した際,フォーデルスと会う。米国占領軍は日本のレーダー研究とその使用を禁止して,調査団が9月から翌年の11月まで日本のレーダー技術を含む軍事技術を調査して1万ページに及ぶ報告書を纏めた。米国の押収資料は3500点,物品は15000点と報告されている。本ホームページの今回改訂版で日本海軍のレーダーのブロック・ダイアグラムの多くはこの資料から拝借している。
1947年(昭和22年)の第2次南氷洋捕鯨で航行安全のためにレーダーが必要になる。連合軍の許可を得て大洋漁業の『第一日新丸』と,冷凍工船『第二天洋丸』に,旧海軍に保管されていた 2号2型電波探信儀改3 を装備して1950年 まで使う。据え付け工事は日本無線が担当した。
1950年 1月米軍は日本政府宛覚書 AG413, 684号によって日本のレーダーの研究や使用を禁止する。
しかし船舶用レーダーは航海安全上重要な装置なので1951年8月7日に船舶用のレーダーについては装備が許可されて、日本無線が1952年に国内初の舶用大型レーダー NMD-401 を開発し1号機を航海訓練所練習船「北斗丸」に搭載する。
周波数 | 9375MHz |
送信尖頭出力 | 30kW |
パルス繰返し周波数 | 2000Hz |
パルス幅 | 0.3μs |
最小探知距離 | 60m |
水平ビーム幅 | 1.8度 |
垂直ビーム幅 | 19度 |
アンテナ | パラボラ 軽合金鋳物 |
表示方式 | 12インチCRTによるPPI |
1954年には国内初の気象レーダー NMD-451 が大阪の高円寺気象研究所に納入される。
米海軍調査報告書
2号2型電波探信儀