日本のレーダー製作能力

電波兵器予算

日本のレーダの製造能力はどれくらいだったか。河村豊氏が『科学史研究』に電波兵器の予算について書いている。
陸海軍合計予算(含開発費)
昭和17年昭和19年伸び
  336万円2004万円6倍

電気兵器全体の伸びは1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)の2年間で、年平均2.2倍伸びている。
兵器予算に占める電気兵器はどれぐらいであったか。1944年(昭和19年)に電気兵器は兵器予算の3分の1に迫る。
日本のレーダーは日本電気と東京芝浦電気が、そのほとんどを生産していた。『日本電気株式会社百年史』によると日本電気が生産したレーダーの台数は次の通りである。
昭和17年昭和18年伸び
142台901台6.3倍

東京芝浦電気の機種別の生産台数では『タセ3号』が30台、『タチ23号』が5台、『タチ31号』が35台、『タチ25号』が1台と記録されている。

米国のレーダー製作能力

『世界を変えた発明』によれば1944年のレーダーの開発と生産高は12億ドルであった。『第ニ次世界戦争レーター史』には戦争中にレーダーの開発に使った総金額が28億ドルとある。放射波研究所がその48%が使っていることは研究開発を集中せたことを意味している。
英国はどうであったか。『科学のプロフィール』に英国の無線工業は戦争中に6倍になったとある。そして英国ではレーダーの使った金額は5億ポンド、携わった人数は英人口の0.5%に達したとある。

エレクトロニクス部品

真空管はレーダーや無線機のキーパーツである。『日本電気株式会社百年史』に開戦前の真空管の生産高が載っている。
昭和11 年昭和16年伸び
16万円868万円50倍

戦争が始まってからの真空管の生産は『東京芝浦電機85年史』にある。
昭和15 年上期昭和19年上期伸び
1千万円8千万円8倍

それでも真空管は不足していた。昭和19年7月マリアナ諸島が米軍に占領された年、真空管を増産するために『真空管生産促進調査会』が設立される。『無線と実験』誌の昭和19年9月号の口絵には目黒区女子商業学校で女子生徒が6月から真空管の組み立て作業を始めた写真が「学校工場で真空管を作る戦列の女子学徒」の題で載っている。
米国は近接信管を大量に生産するために、箪需工場だけではなく、多くの民間工場にも生産を委託する。
ここでは新しい製造ラインに、未熟な作業者が集められて加工、組立てが行われる。どの工場で生産した近接信管も同じ品質であること、それが使用されるまで安全に保管されることが必要となる。ベル研究所の シューハート が1931年に『工業製品の品質の経済的管理法』を書いていた。米軍は近接信管だけではなく膨大な数の兵器の品質を確保するために、シューハートが開発した品質管理を民間企業にも導入して管理図法などの手法を標準規格とする。民間で生産した製品を受け取る時の受け入れ検査にも統計学を応用した抜取検査法を採用する。さらに民間企業から兵器を調達する場合には,品質管理の方法を契約条件に盛り込む。これが米軍規格 MIL-Q-9858 である。20世紀後半になるとこの品質規格は国際規格 ISO9001 に発展した。

学校工場で真空管を作る戦列の女子学徒
学校工場で真空管を作る戦列の女子学徒

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佐々木 梗 横浜市青葉区
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