キャベンディッシュ研究所

知恵の最後の結論はこういうことになる、
自由も生活も日毎にこれを闘い取ってこそ、これを享受するに価する人間といえるのだ
ファウスト ゲーテ 相良守峯訳

キャベンディッシュ研究所

19世紀の中頃から科学技術の実験の重要性が高まって,1840年代にグラスゴー大学ではトムソン教授が研究所を創った。1869年になってケンブリッジ大学も研究所設立の計画をするが費用が嵩むため着工できなかった。1870年10月になってケンブリッジ大学学長のウィリアム・キャベンディッシュが財産を寄付することになって研究所の設立が決まる。
研究所の教授候補としてグラスゴー大学のトムソン教授,レーリー卿が挙がるが,トムソンはグラスゴーから離れることを嫌がり,レーリー卿も自宅で研究をしているので辞退する。マックスウェルは、まだ『電磁気概論』が出版されていなかったので,ほとんど知られていなかったが,ケンブリッジ大学の講演で,

今までの自然科学は紙と鉛筆と黒板だけを使って進歩してきました。しかし熱と電気と磁気の物理学には実験が重要です。そして実験にあたっては定量的に測定しなければなりません。

と講演する。この講演を学長が聴いて研究所教授の候補にマックスウェルが挙がる。レーリー卿はマックスウェルの『物理的力線について』を読んで.1871年2月14日に教授就任要請の手紙を書く。
「新しく計画中の研究所の教授として貴兄が候補に上がっています。トムソン教授にもお願いしましたが,教授はグラスゴーから離れることになるので断っています。是非貴兄にお引受けいただきたくお願いします。」
トリニティ・カレッジの副学長のブロアもマックスウェルに就任要請するが,ブロアへ返信があった。
「トムソン教授は実験と,その教育に豊富な経験をお持ちですが,私はほとんど経験を持っておりませんので,私は適任では無いと思います。」
しかし1年間だけ引き受ける事になり3月8日に研究所教授に任命され,マックスウェル夫婦は再びケンブリッジに居を移す。研究所をデザインするためにマックスウェルはグラスゴー大学のトムソン教授の実験室,オックスフォード大学のクリフトン教授の実験室を調査した。
建築設計はケンブリッジ大学の校舎の設計に経験のあるフォーセットに依頼し,1872年3月に工事契約をがなされた。建物は4階建て,3階と4階には180人収容の階段教室がある。重要な実験設備はマックスウェルが自分で設計する。研究所の工事中の1873年にクラレンドン出版社から2巻からなる『電磁気概論』が刊行されてケンブリッジ大学でベストセラーとなる。
年末に研究所が完成し1874年の6月16日に開所式が行われた。研究所は資金を寄付したキャベンディッシュの名から『キャベンディッシュ研究所』と命名される。門扉にはマックスウェルがを選んだ旧約聖書詩篇の一節が刻まれる。
偉いなるかな,主のみわざ,むべなり,みわざによりて,
歓喜を享けし者,なべて,そのたくみを,明らめんとする。

科学の歴史 島尾永康編著 創元社
雑誌『ネイチャー』が研究所を取材して,
「すばらしい研究所である。マックスウェルは偉大な仕事をした。」
と書く。多くの見学者が訪問して「キャベンディッシュ研究所と命名したのはなぜですか。?」と聞くとマックスウェルは,

電気と磁気の実験をして,それを数学的に解析したのは英国のヘンリー・キャベンディッシュです。クーロンの法則もキャベンディッシュが先に発見しました。彼は克明な記録を残していますが,論文を書いていないので知られていないのです。」

マックスウェルはキャベンディッシュが1771年から1781年にかけて実験して残した膨大な記録を整理して,それらの実験器具も再現し,『ヘンリー・キャベンディッシュ電気学論文集』を執筆してマックスウェルが亡くなる直前に出版される。
研究所が完成すると,未来に向かって,自然を探求する科学者の養成に力を入れる。
J.C.clerk Maxwell with Spinning-Coil
マックスウェル(1874年頃)
Maxwell on the Electromagnetic Field by Thomas K. Simpson

Old Cavendish Laboratory
キャベンディッシュ研究所

ヘンリー・キャベンディッシュ
Henry Cavendish 1731-1810。ケンブリッジ大学に入学するが,1753年に退学して,自宅に実験機器を揃えて化学,電気の研究を行って厖大な記録を未発表のまま残した。クーロンの法則もキャベンディッシュが発見していた。

AMPHICHEIRAL KNOT

1878年にマックスウェルは宇宙と新化,科学と宗教,偶然と選択そして死と不滅を位相幾何のように詩に描いてテイトに送る。シェリーの劇詩『鎖を解かれたプロメテウス』から着想を得た詩である。

矛盾

エーテルの渦の中で
見えない存在の知性によって
私の心は絡み合う
囚人が来ているような おまえの衣服を
頑固な結び目を 綱通し針でほどこう
四次元の空間には 宇宙の長い通りが散在している
クラインとクリフォードが有限と無限で虚を埋めている
無限はついに破壊された
A Paradoxical Ode Maxwell 拙訳


結び目のような電気回路"TREATISE"

God said ... and then there was Light

1877年の春から食事をすると腹部に痛みを感じるようになるが我慢して医者に診せないでいた。1879年4月21日,妻の症状をパジェット医師に伝える時に,自分の症状も書く。この頃から講義もできなくなってきた。さらに悪化して7月にサンダース医師と,エディンバラのスペンス医師の診察を受ける。マックスウェルは手紙に書いている。
「ミルクしか飲めなくなりました。子供の頃に戻ったようです。」
9月にガーネット夫妻がグレネアーのマックスウェルを見舞う。マックスウェルはエディンバラ学院の時に書いた『卵形の特性と多焦点曲線について』や,ジャミマが描いた幼い頃のマックスウェルや,いつも持っていて数限りなく回した「マックスウェル円板」を本棚から取り出して楽しそうにガーネット夫妻に話す。翌日はガーネット夫妻と幼い頃に母のフランシスと一緒に流れる木の葉を追いかけた渓流を散歩した。
10月2日,サンダース医師が胃がんと診察して残り数ヶ月の命と告知され,サンダース医師の勧めによってケンブリッジに戻る。ひどい痛みが続くが,精神は穏やか,頭脳は明晰でシェークスピアの『ベニスの商人』の一節を口ずさむ。10月に印刷していた『キャベンディッシュの電気の研究』ができあがって病床に届く。
1879年11月5日キャサリン,甥のマッケンジー,パジェ医師,ギルマール医師に看取られて永眠した。グレネアーで葬儀されてここの教会に眠っている。妻のキャサリンはそれから7年後,ヘルツがマックスウェルの電磁波を実証した年の1886年12月12日に没した。
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佐々木 梗 横浜市青葉区
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