その後のマックスウェル方程式

And God said...and then there was light

ヘルツ

1886年11月1日,森鴎外がドイツに留学している頃,ベルリンのカールスエー工科大学のヘルツ物理学教授が自宅の実験室で実験している。扉が開いてポテトと芳ばしいベーコンのスープの薫りをまとって妻のエリザベスが入って来る。
「ハインリッヒ,食事よ。」
「この実験が終わったら。」
ヘルツが実験室の油燈を消し,エリザベスも傍に立つ。木の机の上に,銅線を巻いた円筒形の誘導コイルと金属の2つの棒が向き合っていて棒の両端は直径30cmの球である。2つの球の間隔は7.5cm。そこから約1.5m離れて直径70cmの金属の輪があって,この輪には細い間隙がある。電池から出る刺激臭が微かに漂う中で,暫くすると,向き合う球の間に小さな稲妻が飛び,その光が球の表面に反射して,複雑に輝き,「パリパリ」と空気が裂ける。

Herts Experiment
ヘルツの実験回路図

その瞬間,エリザベスが金属の輪に設けてある細い間隙に微かな光が飛んだのを見つけて,
「あちらのリングに火花が飛びましたよ。」
ヘルツが,
「あそこに火花が見えた。」
と聞き返す。
ヘルツはベルリン大学のヘルムホルツ教授からマックスウェルが1861年に理論的に存在を予測した電磁波を,実際に発生させる実験をするように指導されていた。コンデンサーに充電した電気を雷のように放電させて,その火花から電波を発生させる仕組みである。エリザベスが発見した火花は,電波が空間を伝わって別の場所で検知できた証拠だとヘルツは確信する。
それから2本の金属棒の長さや,金属の輪と棒との距離,金属リングの隙間の寸法などを変えて,数ヶ月間実験して電波の性質を調べて,電波が光と同じように回折,屈折,反射する事を確認し,電波の速度が光と同じ1秒間に30万kmであることを確かめる。ヘルツの火花放電の周波数は,受信したリングの直径から計算して,およそ60-500MHzと推定されている。ヘルツは電波が亜鉛板に反射する事も確認する。
大学でこの実験を実演するとある学生が,
「それは何に使うのですか。?」と聞くが,
「マックスウェル教授の理論を証明しただけで,電波が何に使えるのかは私には分からない。」
と答えた。ヘルツは1888年に論文『電気放射』をベルリン科学協会に提出する。雑誌『エレクトリック』がヘルツの実験を記事にする。 ヘルツが論文を発表した1888年に英リバプール大学の物理学教授のロッジがロンドン王立研究所で無線通信の実験をする。1889年にはパリのカトリック大学教授のブランリーがガラス管に詰めた金属粉末の抵抗が,電波の側で低くなる現象を利用したコヒーラ検知器を発明する。露のペテルスブルグ大学のポポフ教授もコヒーラ検知器を改良し,さらにアンテナとアースを考案して540mの距離の通信に成功して1895年5月7日にロシア物理学会に発表していた。

Herts
ヘルツ

ヘルツ
Heinrich Rudolf Hertz 1857-1894。ハンブルグ生。ヘルムホルツに師事。1885年にカールスエー大学教授。敗血症のため36歳で死亡。

マルコーニ

1894の年の夏,イタリアの青年が避暑のためにアルプスの別荘に滞在中に『エレクトリック』誌をぱらぱらと見ているとヘルツの記事に目が止まる。当時,有線での電信ネットワークは世界をつないでいた。
ヘルツ波を使って,電線を使わないで電信を送ることができるかもしれない。
マルコーニはボローニャ大学のリッチ教授の下で電信,マックスウェルの電磁気学,ヘルツの実験,ロッジとブランリーのコヒーラ受信機を学んでいた。マルコーニは自宅に戻ると装置を揃えて無線実験を始める。マルコーニは一挙に遠い距離で実験しないで,先ず部屋の中で実験して,少しずつ距離を延ばして確かめていった。違う部屋の間で送信してベルを鳴らすことに成功すると,母のアイルランドの実家に頼んで大きな装置を作る資金を得る。
1895年の夏,丘を挟んで距離2キロメートルで実験する。遠くに送信するために銅版のアンテナを使う。成功すると銃を撃つ手はずでマルコニーが送信すると,「ダーン,ダーン」と銃声が聞こえた。
1896年6月にマルコーニは『ヘルツ波を使った電信システム』の特許を英国で申請する。9月に英国郵政省と軍が立ち会ってソールズベリーで12キロメートルの送信に成功する。マルコーニ送信機は火花放電の回路とアンテナを直接に接続していたため放電がすぐに終わって送信距離は15キロメートルが限界であった。
1898年9月20日に独ブラウンが火花放電の回路とアンテナの間に同調回路を入れて接続する方法を発明し1899年1月26日に英で特許を得る。マルコーニはブラウンの技術を採用して1899年に英仏海峡を挟んで51キロメートルの無線通信に成功する。しかし英仏海峡には1851年に電信用の海底ケーブルが敷設されていて無線を使う必要が無いため,電信省は無線を採用しない。マルコニーの無線は海底ケーブルが無い海軍の船の間の通信に使用された。
次は大西洋横断無線通信に挑戦する。英国最南端のコーンウォール半島のポルデュを送信場所に,大西洋を越えて米マサチューセッツ州のケープコッドを受信場所に選ぶ。しかし9月に受信アンテナが強風によって倒壊してしまう。追加の資金が必要とってマルコニーは出資者を安心させるために,受信場所を英からの距離がマサチューセッツ州よりもよりも近い,カナダのニュー・ファウンドランドのセント・ジョーンズとする。距離は3200キロメートルである。25kWの発電機を使って2万ボルトで強力な火花を発生させる。送信アンテナは高さ45メートルの柱に多数の導線を扇子の骨のように張る。ニュー・ファウンドランドも風が強いので受信アンテナは凧を上げて120メートルの長さの導線を吊り下げる。 受信機はコヒーラである。。周波数は500〜800kHzと推定されている。

1901年12月12日,12時30分,
「 ト,ト,ト 」

モールス信号の"S"をマルコーニが受信する。さらに3日間実験を続けて成功を確信してから新聞記者を呼び1901年12月15日にニューヨーク・タイムズが成功を報道する。

Marconi
マルコーニ

マルコーニ
Guglielmo Marconi 1874-1937。伊ボローニャ生。

Poldhu Station
ポルデュの送信アンテナ

ヘビサイド

ヘビサイドは大北電信会社に入社して電信の仕事をしていた。1873年,23歳の時に,出版されたばかりのマックスウェルの『電磁気概論』に出会う。ヘビサイドは会退職して独学で電磁気の研究を始める。
出会った瞬間,この本は未来に巨大な可能性を持っていると直感して,これを完全にマスターしようと決心した。ここに書かれている数学を知らなかったので理解するまでに7年間かかった。それからはこの本を横において自分の研究を進めた。
1884年ヘビサイドはマックスウェルの20の方程式を,,ベクトルを使って,現在の4つの方程式に整理した。
ヘビサイドは1902年に電離層の存在を予測している。
『ヘビサイド層への旅』
ラッセルホテルを超えて、昇れ
ヘビサイド層まで、昇れ
ラッセルホテルを超えて、昇れ
ヘビサイド層まで、昇れ

ミュージカルキャッツアンドリュー・ロイド・ウェーバー      

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ヘビサイド

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