土星の環
天のモデルを造り 星の位置を測定し,たとえば,この巨大な宇宙の機構をどう考えたらよいか。
天体の書現象を辻褄の合うように説明するためには,その機構をどう組み立て,どう組み直し,考案したらよいか。
天体の書現象を辻褄の合うように説明するためには,その機構をどう組み立て,どう組み直し,考案したらよいか。
土星の環について On Saturn's Rings
1856年4月3日に父のジョンが69歳で亡くなる。マックスウェルは父の葬儀を済ませて,11月にアバディーン市のマリシャル・カレッジの物理学教授に就任する。25歳である。1855年3月にケンブリッジ大学がアダムズ賞の課題として『土星の輪の構造について』を募集する。アダムズ賞はケンブリッジ大学の学生アダムズが1845年に計算だけから観測されていない惑星の存在を予測し,翌年にその惑星が実際に発見されて海王星となる。アダムズ賞はこれを記念して創られた。
1610年にガリレオが土星の両側に2つのぼんやりとした突起があることを望遠鏡で観測したが,性能が悪いため何であるか分からなかった。1659年にホイヘンスが,この突起は環であることを確認した。1675年にカッシーニが環の間に暗い隙間を発見した。1785年に仏ラプラスが計算によって土星の環は固い岩ではないと予測する。それいらい,土星の環が何から出来ているかが天文学者の関心になってきた。
マックスウェルはこの課題に取り組む。土星の環が無数の小さな粒子の集まりで,それぞれが独立して土星を周っていることを理論的に導いて,『土星の環の安定性』を提出し,1859年にアダムズ賞を獲得する。
それから120年経って,1977年9月に米国が打上げたボイジャー1号が1980年11月に土星に接近して土星の環を撮影してマックスウェルの推論が正しいことが確認される。
土星環模型(マックスウェル)
結婚
マックスウェルはマリシャル・カレッジの学長ダニエル・デュアーの家に時々招待される。そこでは学長の娘のキャサリンが同席し,日曜日には彼女と時を過ごすようになって1858年2月に婚約し6月2日に結婚する。マックスウェルはスコットランド民謡でロバート・バーンズが作詞した『誰かが誰かと』に作詞してギターを弾く。
めぐり合い
誰かと誰かが 土星の環の中で衝突したら どこに行くのか
衝撃は大きくて 私は測れない
でもあなたは 私を見ている
『誰かが誰かと』原詩
たれかがたれかと麦畑でこっそりキッスした いいじゃないか
わたしにはいいひといないけれど
たれにもすかれる,ネ,麦畑で
マリシャル・カレッジ
マリシャル・カレッジ・アバディーン
アバディーン市はスコットランド北東部にある港湾都市。市にはキングズ・カレッジ(1495年設立)とマリシャル・カレッジ(1593年設立)の2校があったが,1860年に統合される。
キャサリン
土星の環
ガスの動的理論の概要 Illustrations of the Dynamical Theory of Gases
マックスウェルはエディンバラ大学時代にラプラスの『解析的確率論』を読んでいた。受賞後の1859年5月頃に偶然クラウジウスの『気体分子運動論』を読んで,土星の環の構造になっている大きさが異なる無数の粒子が違った速度で土星の周りを回転している運動と,気体分子の運動が似ていることに気がついて『土星の環の安定性』を書く。ケンブリッジ大学のストークス教授に粒子の衝突について数学的に解析することを伝え,ストークスから提供された気体のデーターを使って,1860年に『ガスの動的理論の概要』を『哲学雑誌』に載せる。クラジウスは無数の気体分子が衝突するまでの平均の距離を算出したがマックスウェルは粒子の速度を分布関数で表した。
統計
この頃から社会科学にも統計的な考えが使われるようになってバックルの『英国文明史』(1857年)や,ジョン・ステュアート・ミルの『論理学体系』には,個々の人の活動ではなくて,多くの人間の平均の活動で文明の流れを表現する。1859年にダーウィンの『種の起源』がロンドンで刊行されて,すぐに評判になってマックスウェルも読む。
福沢諭吉はは1861年に英国を訪問した時に統計に注目する。福沢はバックルの『英国文明史』を購入して,帰国後に『文明論の概略』に次の様に書く。
天下の形勢は一事一物に就いて憶断す可きものにあらず。必ずしも広く事物の働を見て,一般の実跡に顕れる所を察し,此と彼とを比較するにあらざれば真の情実を明にするに足らず。
斯の如く広く実際に就いて詮索するの法を,西洋の語にてスタチスチク(統計)と名づく。此法は,人間の事業を察して其利害得失を明にするため欠く可らざるものにて,近来西洋の学者は専らこの法を用ひて事物の探索に所得多しという。
斯の如く広く実際に就いて詮索するの法を,西洋の語にてスタチスチク(統計)と名づく。此法は,人間の事業を察して其利害得失を明にするため欠く可らざるものにて,近来西洋の学者は専らこの法を用ひて事物の探索に所得多しという。
ストークス
George Gabriel Stokes 1819-1903。アイルランド生。ケンブリッジ大学入学,1841年にラングラー首席卒業。1849年ケンブリッジ大学数学教授,1885年に王立協会会長。1842年『非圧縮流体の運動』。
ダーウィン
Charles Robert Darwin 1809-1882。エディンバラ大学で医学,ケンブリッジ大学で神学を学ぶ。1859年『種の起源』で進化の理論を確立する。
キングズ・カレッジ
1859年にエディンバラ大学のフォーブズ教授から,「体調が良くないので物理学部長を辞任する。」と連絡がある。マックスウェルはここのポストを希望してファラデーに,「エディンバラ大学物理学部長の後任候補として私の名も挙がっています。差し支えなければ物理学部長選定委員に私を推薦していただければありがたいのです。」
と応援を頼むがテイトが就任した。エディンバラの新聞はこう論評する。
マックスウェル教授は科学の世界では著名である。しかし大学教授は学問が未完成な学生を教えなければならない。この点ではマックスウェル教授の講義は,高度であるが,必ずしも理解し易くはない。従ってエディンバラ大学の物理学部長としては最適な候補ではないかもしれない。
1860年にマリシャル・カレッジとキングズ・カレッジ・アバディーンが合併して,双方の同じ部門が合併すると若くて講義が下手なマックスウェルは失職した。29歳,社会に出て始めての苦い経験である。悪い事は重なり,マックスウェルは天然痘に罹る。妻のキャサリンが献身的に看病して治った。
1860年秋にマックスウェルはロンドンのキンクズ・カレッジの物理学教授に就任する。住いはロンドンケンジントンのパレスガーデンテラス8番。キングズ・カレッジはマックスウェルが科学の分野で多くの成果を出した期間である。
マックスウェルは実験をしている時や思索中に口笛を小さな音で鳴らすのが癖である。愛犬のトビー,クーニーを研究所にも連れて行く。キャサリンの鬱病を緩和するために乗馬を始めて驢馬のチャーリーを飼う。子供がいない2人にとって2匹の犬とチャーリーは可愛い家族である。夜は2人で聖書を朗読する。この頃からグレネアーの教会への寄付を始める。この頃のマックスウェルは髪はアイアングレイ,深みのある顔になって,明敏さの中にユーモアのある容貌になった。マックスウェルは1865年にキングズカレッジを辞めてグレネアーに戻る。
熱
ロンドンでは気体の実験も始め。ガスの粘度や気圧や温度を変えるために暑い日でも何時間も火を使って,湯を沸かして部屋を蒸気で満たし,ある時には大量の氷を運び込んで部屋を冷やして実験して,1866年に『空気とその他の気体の粘度について』,1867年に『気体の動的理論』,1870年『熱の理論』を書いた。
キングズ・カレッジでのマックスウェル
カラー写真
マックスウェルは1855年頃から色覚の研究をしていた。ロンドン自宅の屋根裏に暗室を作って色彩の実験をする。マックスウェルが装置を操作してキャサリンが色を観察したり,今度はキャサリンが操作をしてマックスウェルが観察したりする。窓際に大きな装置があって何時間も実験しているので,近所の人が2人を変人と噂した。これらの実験から色覚異常は赤を認識できないためであると実証して1860年にルンフォードメダルを獲得する。1861年5月17日に王立協会で『三原色の理論』の講演をしたときにタータン柄リボンのカラー映像をスクリーンに映してカラー写真の原理を実演した。赤,緑,青のフィルターを通してカメラで撮影した映像をそれぞれ別の投影機で重ねるとカラー画像が再現できた
マックスウェルが実演したカラー写真
ルンフォードメダル
1796年にルンフォードが熱と光の優れた研究に対して創った賞。ルンフォードは王立研究所の創立に尽力した。
カラー写真
1873年に独フォーゲルが色彩に反応する感光剤を発見した。1907年に仏ルミエール兄弟がオートクローム法とよばれるカラー写真用の乾板を開発する。1935年に米コダックが3層塗布式のカラーフィルムを発売する。
1862年ロンドン万国博覧会
日本は1858年(安政5年)に米国と通商航海条約を調印し,1860年(万延元年)に条約批准書の交換のために77名の使節団を米国に派遣した。正使は外国奉行新見正興,副使は村垣淡路守範正である。随行の咸臨丸には27歳の福沢諭吉が同行する。帰国後に村垣は,
此度我朝の人来る者総て77人なり,大抵半は彼を悪む者なり,然りと雖も其の実を知るに及ては人皆前非を悔い夢のさめたるが如し…
パリの街はオスマンの都市計画によって旧い建物が次々と壊され,広い道路や公園が造られ,建物の高さと外観が法律で決められて建築されている。
英パーキンが藍色の化学染料を発明してから次々に合成化学染料ができて女性の服の色が豊かになる。デザイナーのウォースが1858年にパリのオペラ通りに店を開き,季節毎に服をデザインし,モデルを使って流行を創り,モードを産業化する。コルセットで腰を細く締め針金や鯨骨で作った輪を心にしたクリノリンというスカートが大流行し,これがロンドンにも流行していた。
ボードレールがこの頃のパリを描いている。
昔の巴里はもはや無い (都市と言われる形態の
移り變りの迅速は,人の心の變貌より更に激しい。)
使節団は4月29日にロンドンに到着し5月1日に第2回ロンドン万国博覧会の開会式に出席する。博覧会には駐日公使のオールコックが日本の品物を展示していた。福沢諭吉は,
移り變りの迅速は,人の心の變貌より更に激しい。)
場はロンドンの東北にあり。巨大の石室,屋は玻璃ガラスにて覆えり。故に巨大の家にて,各所に多く窓無しといえども,室内甚だ明なり。展観場に行きものを観るものは,人毎に1シルリングを払う。大抵一日場に入るもの,四,五万人,現今は欧羅巴諸州の王侯,貴人,富商,大賈,皆来て展観場を観ざるもの無し。ロンドン府内の旅館,客を入るるに足らずと云。
福沢諭吉は電信についても記している。
伝信機しは、エレキテルの気力を以って遠方に音信を伝ふるものをいふ。…現今西洋諸国には、海陸縦横に線を張ること恰も蜘蛛の網の如し。
徳川幕府は翌年にもフランスに使節団を派遣する。池田使節団で『スフインクスと34人の侍』の傑作写真を残している。
ロンドン万博を訪問する使節団
パリの福沢諭吉
大流行のクリノリン
スフインクスと34人の侍 維新前夜 鈴木明