エディンバラ大学
「宇宙は神が創ったのよ。自然をよく観察すると,その中にいる神を発見できるの。」
"Look up through Nature to Nature's God
誕生
1831年の6月13日にエディンバラ市の新市街のインディア通りに面する石造の家で男の子が生まれた。父はジョン,母はフランシス・ケイで二人は1826年10月4日に結婚した。ジョンはエディンバラ市の南にあるミドロシアン地方のクラーク家の一族で,南スコットランドのグレンレアーの領地を相続したが,両親と一緒にエディンバラ市に住んでいた。母はノーサンブリアン家の出身である。マックスウェルが生まれてまもなく,一家は南スコットランドのダンフリースに近いグレンレアーに引っ越す。 1831年秋にコレラが英国に上陸して、グラスゴーにも病気が広がり、この頃コレラの治療法は無いためコレラを避けるためにジョン一家は田園のグレンレアーに引っ越す。独コッホがコレラ菌を発見するのは1883年である。エディンバラ市からグレンレアーまでは鉄道がまだ無いので.馬車に乗って2日間かかった。グレンレアーはアイリッシュ海に面しているために気候温暖である。どこまでも緑の大地がゆるやかに隆起していて,川と湖に恵まれた美しい田園である。敷地は広大で面積は6.1キロ平方メートルである。ホー川には鱒や鮭がいる。父のジョンがここに灰色の石造二階建ての家を建てた。
愛しい雷鳥
ヒースが咲き 草を刈る朝早く 若者は狩りに
荒野と沼地の向こうは峡谷
ついに雷鳥を見つけた
同時代の人達
マックスウェルが生まれた年にゲーテが『ファウスト』を書き上げた。その翌年にスコットランド小説家のウォルター・スコットが没した。マックスウェルと同じ時代に『種の起源』のダーウィン,遺伝学のメンデル,化学者のパストゥール,ノーベル賞のノーベル,『資本論』のマルクス,デザイナーのウィリアム・モリス,『不思議の国のアリス』のルイス・キャロル,詩人のテニソンや仏のボ−ドレール,音楽家にはワーグナーやショパンがいる。
自然を観る
2歳半になって歩けるようになったマックスウェルは暖かい春の日,渓流を流れる木の葉を追っている。渓流に沿い,あざみが咲く草の中を走り,ブラックベリーの実がなる潅木の中を歩いて葉を追う。この渓流は別の渓流と合流して,鮭が上ってくる大きな河となる。小高い丘の上からは海が見えて,晴れの日には無数のさざ波に太陽が反射して,ダイヤモンドを敷き詰めたようである。雨が上がった後,海の上に虹の橋が架かる。緯度が高いスコットランドでは太陽は家の硝子窓の横から射し込んでくる。マックスウェルは太陽の光を,銀の皿を鏡にして,反射する光を部屋の壁や天井に映して遊んでいる。
「父さん,太陽を掴まえたよ。」
ジョンは喜んで
「大きくなったら月や,星もつかまえてごらん。」
と答える。
マックスウェルが渓流から石を拾ってきて,
「これは赤,それは青,だけどどうしてこれが赤で,それが青なのかなあ。」
マックスウェルが何に対しても,
「どうしてこうなるの」
と聞くと,
「宇宙は神が創ったのよ。自然をよく観察すると,その中にいる神を発見できるの。」
と母のフランシスが必ず答えた。
8歳になるとマックスウェルはミルトンの詩を読んで暗記する。絵は色と形が極めて精密に描く。母が多くの色の毛糸を使って複雑な模様のセーターを編んでいると,側で見ているマックスウェルも自分で独特のパターンを描く。滞在していたジャミマがこの頃のマックスウェルを絵に描いている。ジャミマは1849年にグラスゴー大学数学教授のヒュー・ブラックバーンと結婚して西ハイランドに住んで水彩画を描いていた。ジャミマ宅には美術評論家のラスキンや,画家のミレーが訪れる。
母フランシスに抱かれたマックスウェル
父ジョン
グレンレアーのマックスウェルの家(1884年頃)
ヒース
ロバート・バーンズ
Robert Burns 1759-1796。スコットランドの国民的詩人。バーンズが収集したスコットランド民謡『蛍の光』,『故郷の空』は日本でもポピュラーとなっている。2009年は生誕250周年記念行事がスコットランドで行われている。
エディンバラ学院
1839年12月,マックスウェルが8歳の時に母が癌で亡くなる。47歳であった。マックスウェルの教育のために叔母のケイと父が相談してマックスウェルをエディンバラ学院に通わせることに決めた。幼いマックスウェルはエディンバラの新市街ヘリオット通りに住んでいる叔母のイザベラの家に1841年11月18日に引越してエディンバラ学院に入学する。スコットランドは毛織物のタータンを伝統に持つ。タータン模様は,日本の家紋のように,スコットランド氏族(クラン)がそれぞれ違う柄を持ち,それぞれの地域にある植物を使って染められていた。マックスウェルは父がデザインしたクラーク家のタータン服を着て学院に通う。そして南スコットランドの方言を級友たちにからかわれて引っ込み思案となって級友からは「ださい」と綽名で呼ばれた。
父のジョンは毎週,グレンレアーからエジンバラ市に来て息子と会った後,エディンバラ王立協会の会合に出席していた。マックスウェルが15歳になると,父は彼を王立協会に連れて行く。ここでマックスウェルは室内デザイナーのデビッド・ラムゼイ・ヘイに紹介される。ヘイは形と色の美しさを数学で表現する研究をしていた。1846年に王立協会で『完全な卵形を描く機械』の講演をして『対称美の基本原理』を書き,『人体画で開発された美の原理』ではスタイルの良い体を幾何学的に研究していた。
マックスウェルが論文に描いた卵形 父のジョンは,
「マックスウェルは数学に適性があるのかもしれない。」
と気づいて,マックスウェルが書いたノートを整理して,エディンバラ大学のフォーブズ教授に見てもらう。教授はマックスウェルが数学に非常に優れている事に驚いて,論文に『卵形の特性と多焦点曲線』と題をつけて,1846年4月に王立協会に提出した。フォーブズ教授はマックスウェルにデカルトの『幾何学』やユークリッドの『幾何学原本』を読むように勧める。
3年生になって成績が良くなると積極的になり友達ができた。テイトとルイスである。5年生の時に数学の成績はテイトが首席,ルイスが次席,3番がマックスウェルであった。6年生になるとマックスウェルが首席になる。
エディンバラ学院
エディンバラ学院
少年の紳士教育のためラテン語,ギリシャ語,数学を教育する学校で1824年に創設された。
エディンバラ王立協会
The Royal Society of Edinburgh。エディンバラ哲学協会を母体にスコットランドの農業改革と工業の要請を目的に1783年に創立。
- 美の科学 1836
- 人体画で開発された美の原理 1852年
- 対象美の基本原理 1846
- 美の幾何学
- 色彩調和の原理
ヘイ 人体画で開発された美の原理より
テイト
Peter Guthrie Tait 1831-1901 ダルキース生。マックスウェルのクラスメイト。後にベクトル解析を確立し,マックスウェルは電磁方程式をテイトのベクトル理論を使って表現した。
ルイス
Lewis Campbell 1830-1908 エディンバラ生。セント・アンドリュース大学のギリシャ文学教授。1882年にマックスウェルが書いた手紙や詩を集めてマックスウェルの生涯 を書いた。
エディンバラ大学
1847年6月にマックスウェルはエディンバラ学院を卒業して11月にエディンバラ大学に入学する。1学年目にフォーブズ教授の物理学,ケランド教授の数学,グレゴリー教授の化学,ケンプの応用化学,ハミルトン教授の論理学を授講する。2学年目はフォーブズ教授からポアソン力学,光学を学ぶ。マックスウェルはハミルトン教授の哲学と論理学を熱心に勉強し筋道をたてて考えることを学び,ブールの論理学に深く惹かれる。マックスウェルは楕円形が数学を使って厳密に表現できる事を知り,興味を持っていたサイクロイド曲線について1847年に『回転曲線論』を書く。サイクロイド曲線は円周上の1点を固定して,この円を転がしたときにできる,その点の軌跡である。この論文はマックスウェルがまだ18歳で未成年のため,ケランド教授が1849年に王立協会で代理発表した。
一緒に入学したテイトは翌年ケンブリッジ大学のピーターハウス・カレッジに転校,ルイスはグラスゴー大学からオックスフォード大学に転校する。
マックスウェルは7時に起床し1時間半ほど前日の復習をする。朝食は紅茶,シリアルと鰊の燻製または玉子焼きである。9時35分に家を出て春には桜が咲くプリンセス公園沿いを通り,王立協会の建物を曲がって,鉄道のトンネルの上にある道を通って雑踏と,馬鈴薯と肉のスープの臭いがする石畳の旧市街のロイヤル・マイルを横断して大学に着く。10時から数学,11時から物理学の授業。昼食はバターを挟んだじゃがいもの丸焼き,昼休みには天気が良ければ近くの草原を散歩する。午後は論理学で,そのあとは図書館で本を読む。9時に帰ると羊の挽肉が入ったパイ,スモークサーモン,牛挽肉と馬鈴薯のスープ,豆のスープなどの夜食を摂る。日曜日には父のジョンと新市街にある聖アンドリュース教会,午後には叔母のケイと一緒に聖ジョン英国教会礼拝所に行く。聖アンドリュース教会は長老派の教会で,英国教会は英国国教である。
図書館で読む書籍は数学,物理,古典文学など幅広い。ニュートンの『光学』,ヤングの『音と光の実験』,仏フレネルの光の波動説,コーシーの『微分法』,フーリエの『熱の解析的理論』,ポアソンの『力学』,ブールの『思考の法則に関する研究』,モンジュの『画法幾何学』,モーズレィの『機械技術』を読む。クセノフォンの『ソクラテスの思い出』や,ヘロドトスの『歴史』をギリャ語で読む。シェークスピアが好きで音読し,印象に残る詩と文章は直ぐに覚える。
エディンバラ大学(1827年)
エディンバラ大学
ジェイムズ六世の1582年に設立。
フォーブズ
James David Forbes 1809-1868 エディンバラ生。エディンバラ大学物理学教授。
ハミルトン
Sir William Hamilton 1788-1856 グラスゴー生。オックスフォード大卒。エディンバラ大学哲学教授。スコットランド哲学にカントの哲学を取り入れた。
モンジュ
Gaspard Monge 1746-1818 仏。理工科学校の初代校長,1799年の『画法幾何学』は立体を平面図,立面図,側面図として描く三角図法として現在も図面の世界標準になって,異なる所の,異なる人が同じ機械を作ることを可能にした。
光
エディンバラ学院時代の1847年4月に母フランシスの兄のケイがマックスウェルと,ルイスをエディンバラ大学物理学者ニコルの研究室に連れて行く。ここでマックスウェルはガラスの加工の仕方,焼入れの方法を習う。ニコルから教わった偏光ガラスの研究も始め,窓ガラスやステンドガラスの屑を集めて,ダイヤモンドのナイフでこれを三角形や四角形に切り,鉄板に乗せて台所の窯の火で熱し,赤熱したガラスを水につけて急冷し,このガラスをマッチの大箱に組み込んで色の実験をする。マックスウェルはフォーブズ教授から正確な実験をする方法,実験結果を正確に記録して理論化する方法を学びながら光弾性について研究する。1850年2月に『弾性固体の平衡について 』をエディンバラ王立協会に提出する。ニュートンがプリズムを使って太陽光線を赤,橙,黄,緑,青,藍,紫の7色に分解し,分解した色を再び混ぜ自然光に戻す実験をした。それから約100年後ヤングが色を混ぜて見るための回転円板を考案する。スコットランドでは色彩の研究が進んでいてブルースター,フォーブズ教授,デザイナーのヘイが色彩の研究をしていた。
マックスウェルも色彩の研究を始めてヘイから貰った色紙を使って独自の回転円板『マックスウェル円板』を作る。この頃のマックスウェルは食事中に水が入ったガラスのコップに太陽光が差し込んで,そこからプリズムのように複雑な色を出しているのをじっと見ている事が多くなった。
ニコル
William Nicol 1770-1851 スコットランド。1828年に偏光プリズムを発明。
プリズム分光
マックスウェル円板
19世紀前半のスコットランド
エディンバラ大学入学の翌年にグラスゴーを経由して実家のグレネアーに近いカークブリをつなぐ鉄道が完成すると,マックスウェルは休日にグレネアーの家に帰るようになる。グラスゴー市のクライド峡谷沿いは工場地域になっていて製鉄所,鉄道線路の製造工場,機械工場,造船工場が林立し,無数の工場の蒸気機関の煙突から煙が立ち上って,空を薄暗く覆う。グラスゴーから南に向かうと,鉄道は丘陵と田園と畑の中を走る。マックスウェルは車内から丈の高い草が右に,左に,時には渦巻いている光景を見て,車外では強い風が渦をまいて吹いていることを知る。クライド峡谷沿いは工場地域になっていて製鉄所,鉄道レールの工場,造船工場が林立し,それらの蒸気機関の煙突から煙が立ち上って,この地域の空を薄暗く覆っている。グラスゴーから南に向かうと,低い丘が続き,鉄道は田園と畑の中を走ります。マックスウェルは車内から,丈の高いヒースが右に,左に,時には渦巻いている光景を見て,外では風が渦をまいて吹いていることを知る。マックスウェルが生活した英国は『世界の工場』の時代である。鉄道が急速に発展して19世紀の中頃までに英国の主要都市が鉄道で結ばれ,鉄道は鉄と石炭の需要を激増させ,さらに石炭と鉄の運送費用を激減させる。農業生産性が向上して食料が増え,衛生や住宅が改善されて子供の死亡率が減少し,アイルランドからの移民もあって英国の人口が1815年の13百万人から,1871年に26百万人と2倍に増加する。
しかし食料を馬鈴薯だけに頼っていたアイルランドでは1845年から発生した胴枯病が馬鈴薯を襲って飢饉になり,3年間で100万人が餓死しアイルランドから英国や米国への移民が続く。
1840年にアヘン戦争が始まり1842年に南京条約を締結して清国が香港を英国に譲り,上海他の5港を開港した。日本は英国と1854年(安政元年)に和親条約を調印して長崎と箱館を開港した。