スコットランド

一粒の砂に世界を 野の花に天をみるために てのひらに無限を ひとときに永遠をとらえよ
ウィリアム・ブレイク ブレイクの世界 土屋繁子 研究社選書

スコットランド

2005年に白血病のために38歳で亡くなった本田美奈子が歌うアメイジング・グレイスはスコットランドの民謡である。
本田美奈子

Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now i'm found
Was blind, but now I see


2世紀頃,ローマ帝国のハドリアヌス帝がブリテン島に北のケルト系ピクト人の侵入を防ぐため城壁を造った。ブリテン島のこの城壁から北の約3分の1がスコットランド,南がイングランドでそれぞれ独立国であった。1707年に両国は合併して大英帝国となった。1837年にヴィクトリア女王が即位した。英国では死亡率が減少して人口が増える。産業革命が進んで,英国は"世界の工場"になる。

英国地図

スコットランド文化

1776年にグラスゴー大学のアダム・スミスは『国富論』を発表して近代経済学の基礎を創った。『国富論』は「分業について」から始まる。
分業には作業の分割と,職業の分化とがあり,それらは労働の生産力を増進させる最大の原因である。国富論 大河内一男監訳 中公文庫
アダム・スミスの紹介でグラスゴー大学の実験器材の修理をしていたジェームズ・ワットは,ニューコメンが発明した蒸気機関を改良して実用化した。ワットの子孫のワトソン・ワットは1935年にレーダーを発明して,ドイツの空爆から英国を護ったことは『太平洋戦争レーダー史』に書いた。
1825年にジョージ・スチーブンソンが蒸気機関車を発明してストックトンとダーリントンの間を走らせる。息子のロバート・スチィーヴンソンが作った蒸気機関車『ロケット号』が1829年に機関車の競技会で優勝する。そしてスコットランドの経済発展には鉄道建設が大きな役割を果たす。
1831年にエジンバラ市と東南のダルキース市の間の10キロメートルが鉄道で結ばれて石炭と石材の輸送を始める。1842年にエディンバラ市とグラスゴウ市に鉄道が開設された。
1830年にメンデルスゾーンはスコットランドを旅行して1842年に交響曲第3番イ単調『スコットランド』を完成する。
スコットランドの水は日本と同じ軟水なので美味しい。ウィスキーはゲール語で"uisge beatha",「命の水」の意味である。15世紀頃から製造が始まり1826年にウィスキーの免許制度ができると製造が盛んになる。モルト・ウィスキーはビートの薫りが命である。ビートはスコットランドのヒースの潅木や海藻が堆積してできた泥炭である。バランタインはエディンバラの新市街で1836年からウィスキーの販売を始めた。

ロケット号
ロケット号(ロンドン科学博物館)

日本とスコットランド

150年前に日本はスコットランドと交流した。江戸時代の安政6年(1859年)9月,スコットランド出身のトーマス・グラバーが来日する。1863年(文久3年)に長州藩藩士の山尾庸三は,グラバーの支援を得て英国に密出国してグラスゴーのネピア造船所の職工となり機械技術を学ぶ。山尾は帰国後工部卿となり日本工業界の指導者となる。
明治維新から4年後の1871年12月23日,横浜港から百名を越す使節団が欧米に派遣された。特命全権大使岩倉具視である。一行は翌年の1872年8月に英国に到着し,10月にスコットランドのエディンバラ市を訪問する。岩倉具視と6人がエディンバラ市の北約80キロメートルにあるリゾート地ハイランドピトロホリを訪れる。

ピトロホリ
ピトロホリ

山脈が折り重なり,往々に2000メートルを越す峰がある。湖水が星のように散らばり,川は蛇行し,するどい岬が櫛の歯のように突き出してほうぼうに入り江がある。緯度が高いので土地はだいたい荒れて痩せており,人口は多くない。勤勉な人々によってやっと開墾されたのである。しかし,この地方の風景の美しさについては,イギリス人は大陸のスイス負けないという。
『米欧回覧実記2』 久米邦武編 慶應義塾大学出版会
1902年(明治35年)10月に夏目漱石が1ヶ月間ピトロホリに遊んでいる。
ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が,眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に,人は寝たり起きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半途(はんと)で包(くる)んで,じかには地にも落ちて来ぬ。と云って,山向(やまむこう)へ逃げても行かぬ。風のない村の上に,いつでも落ちついて,じっと動かずに靄んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。
永日小品 夏目漱石
グラスゴー生まれで,近代デザイン創始者のクリストファー・ドレッサーは1876年(明治9年)に来日して4ヶ月間視察して『日本ーその建築,美術,工芸』を書いた。

Thomas Blake Glover
右:グラバー,左:岩崎弥太郎

トーマス・グラバー
Thomas Blake Glover 1836-1911 スコットランドアバディーン生。貿易商人として1859年来日し長崎にグラバー商会を設立。後に三菱高島炭鉱,麒麟麦酒の経営に携わり日本で死去。

クリストファー・ドレッサー
Christopher Dresser 1834-1904 グラスゴー生。植物画を学ぶ。1860年頃からカーペット,食器,磁器,金属器,壁紙のデザインを始めた。

Dresser
ティーポット ドレッサー

エディンバラ

edinburgh
エディンバラ城から見る新市街,フォース湾が見える

エディンバラ市は北緯56度にあって,北海道よりも北に位置するが,ガルフ海の暖流に面して気候は穏やかで,夏に摂氏20度を超えることや,冬に零下が続くことはめったにない。しかし天候は目まぐるしく変わり,陽が照って暖い日の翌日は雨が降って寒くなったりする。
市の中心に三方が絶壁になっている高さ130メートルの岩山があって城が聳えている。6世紀頃ここに城が築かれ,11世紀にスコットランド王マクベスを征服したマルコムⅢ世の王城となった。12世紀にデヴィッド1世がここを王宮にして城の麓が商業地となって発展した。
城の門にはスコットランドの英雄ウィリアム・ウォーレスの像がある。メル・ギブソン監督主演の『ブレイブ・ハート』はウィリアム・ウォーレスを主人公とする伝記映画である。
城の南の麓にはエディンバラ大学の校舎が緑陰の中に散在している。城から東に向かって下る石畳の坂道は,ロイヤルマイルと呼ばれている。道の両側は石造の建物が密集して,路地が迷路のようで旧市街と呼ばれ,スチィーヴンソンの『ジーキル博士とハイド氏』のモデルになる街である。
城の北側の岸壁の麓にウェバリー駅がある。その北側は新市街と呼ばれる地域である。新市街は建築家のジェームズ・クレイグが1767年に設計した都市計画にもとづいて創られた街である。ナポレオン三世の命令によってオスマン知事が1853年から始めたパリの大改造に先行する。新市街の建物は計画街路に沿って同じ様式と材料で建てられている。代表的な建築はシャルロット・スクエアの北面で,集合住宅を壮麗な宮殿のようにデザインしている。19世紀の前半,エディンバラ市の人口は約16万人である。
この街でジェームズ・クラーク・マックスウェルが1831年に生まれた。

エディンバラ城
エディンバラ城

Sir William Wallace
映画『ブレイブ・ハート』

目次 マックスウェル誕生
佐々木 梗 横浜市青葉区
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