日本最古の街道 
 山の辺の道(その2)
    (奈良県天理市) 
  
iー愛ロマンチカ
   
桜井市から天理市渋谷町に入り、景行天皇陵に向かって進む。
   
天皇陵濠沿いに進み、分かれ道は右手に入り、畑の中の道を進む。
    
左手前方に、先ほどの景行天皇陵
景行天皇陵:渋谷向山古墳を、「景行天皇陵」として宮内庁に管理されている。
古墳時代前期に築造された前方後円墳で、墳丘は全長300m巾170mで、国内最大の古墳。

突当りの
景行天皇陵ろ号陪塚を左折して道なりに進み、突当り丁字路を右折する。
    
道なりに進み、分かれ道は花壇のある左手を進み柳本町に入り、次の交差点を右折する。
   
すぐ先の丁字路を左折し、細い道を進んで、突当りの民家の前から道なりに左折する。
   
山道のような急坂の突当りで右折して坂を下り、その先で折り返してさらに下り、
すぐ
橋を渡る
   
渡り切ったところの民家の敷地のようなところを恐縮して左折し、
草むらの道を進み、ゆるい坂を上る。
   
畑道を直進し、その先で小さな公園の中を道なりに右にカーブして上る。
    
上り切ったところの車道を左折する。
正面に崇神天皇陵に向かって坂道を下り、途中の
右手の分かれる道に入る。
    
右側の櫛山古墳濠沿い(写真右)に進み、分かれ道は直進して坂を下ってさらに濠沿いに進む。
櫛山古墳:古墳時代前期(4世紀)に築造された双方中円墳で、全長155m。
   
石畳の道を、道なりに左にカーブして崇神天皇陵濠の土手沿い(写真中)に進む。
寄り道をするため途中から土手に上がり、濠沿いにしばらく進むと
崇神天皇陵正面(写真左)
崇神天皇陵:行燈山古墳を、宮内庁が「崇神天皇陵」として管理している。
古墳時代前期に築造された前方後円墳で、全長242m後円部径158m前方部幅約100m。

元の道に戻り、土手沿いの石畳道を進み
突当りを右折する。
   
その先の分かれ道は左折し、道なりに進んで突当りを左折し、丁字路は直進する。
   
道なりに進んで突当りを左折し、続く丁字路は右折する。
   
すぐ先右側高台に、天理市トレイルセンタ.。
天理市トレイルセンタ:休憩施設。
ハイキングルート紹介、黒塚古墳の模型、文化財など展示している。

    
その先の丁字路(写真中)を左折し、なんとなく当時の面影を感じる道(写真左)を進む。
なお丁字路右手前入口は、824年(天長元)弘法大師開基と伝えられる
長岳寺への参道。
    
左折し約50m先の「山の辺の道」標柱のところから右折し、ゆるい下り坂道を進み、
突当りの
車道を左折する。
   
車道を約50m進んで民家の角から右折して、細い道に入り、
すぐ先から畑の中の
砂利道を道なりに進む。
  
その先の突当りで車道に出て右折し、アンツーカーの車道を進み、
丁字路を左折
して中山町に入る。
   
アンツーカー道が途切れるところから右折し、石垣塀脇の細い道を進み、
丁字路を直進し舗装道を進む。
    
交差点を横断して砂利道を進み、続く交差点も直進しさらに細い砂利道を道なりに進む。
少し先右側に、
柿本人麻呂の大きな歌碑
歌碑:「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし 万葉集」
   
突当りを道なりに左折して山道を上り、広場に出て「大和神社御旅所」白標柱左側を直進する。
右手林の中に、
中山大塚古墳
中山大塚古墳:標高約90m尾根上に、古墳時代初期に築造された前方後円墳。
全長132m、後円部の径73m高さ11m。
前方部は大和神社御旅所が置かれたため削平を受けた。

    
畑道を道なりに進み、丁字路を右折し、念仏寺山門前に出て右折する
   
念仏寺:開基は行基で、廃寺した旧中山寺の一坊と言われ、
1498年(明応7)の地震火災、1709年(宝永6)の火災で2度焼失している。

塀沿い
に進み、外れの分かれ道は左折し六地蔵の前を通って進む。
   
墓地の中の道を通って突当りを道なりに右折し、墓地脇の道を進む。
右手は、古墳時代前期築造の前方後円墳
燈籠山古墳で、
全長110m、後円部径55m、前方巾41m。
燈籠山古墳前方にある墓地は、念仏寺所有。

    
墓地外れの丁字路を左折し、その先の左側五社神社前分かれ道は左手をすすみ、
次の
分かれ道は右手を進み萱生町に入る。
    
道なりに右にカーブし、その先の突当りを右折して用水路沿いに進み、
分かれ道は左手を進む。
    
突当り丁字路を左折し、道なりに右折して竹之内環濠沿いに進み、分かれ道は左手を進む。
    
分かれ道左角に「西山塚古墳案内板
西山塚古墳:古墳時代後期築造の前方後円墳。
全長114m、後円部直径65m、前方部巾70m。
大和古墳群の中で唯一、前方部を北に向けているのが特徴。
墳の周囲の巾12mから20m溜池は、周壕の痕跡と考えられている。
手白香皇女の陵という説もある。

濠沿い
に進み、濠の対岸は竹之内環濠集落
    
突当り丁字路を左斜めに横断し、畑の中の道を進む。
すぐ左側に、「
衾田陵と大和古墳群案内板
衾田陵と大和古墳群:この辺りは奈良盆地で有数の古墳密集地帯で、
「萱生の千塚」と呼ばれている。
これら古墳群で最大のものは、全長234m前方後円墳の衾田陵で、
継体天皇(6世紀)皇后手白香皇女陵とされている。

さらにその先左側駐車場跡に、「
波多子塚古墳案内板
波多子塚古墳:古墳時代前期築造の全長140mの前方後円墳で、
周壕から多数の埴輪片が出土。

   
その先の分かれ道は右手を、続く分かれ道は左手を進み、道なりに右折し石垣沿いに進む。
   
丁字路は直進し、右側に「山の辺の道案内板」のある休憩所
温室の脇を通って
道路を横断し、さらに畑道を進む。
    
続いて車道を横断して細い道入って道なりに進んで乙木町に入る。
突当りを
左折してすぐ右折して家並を進んで住宅街に入り、突当りの丁字路を左折する。
   
50mほど進み、最初の丁字路を右折する。
右角に、日本では珍しい中国原産の「
ベニバナトキワゲンサクの木
石垣に沿い進む。
   
その先で道路を横断して進み、突当りの夜都伎神社鳥居手前から右折する。
夜都伎神社:俗に春日神社といい、現在の社殿は、1906年(明治39)に改築したもの。
奈良春日神社と縁が深く、鳥居は1848年春日若宮から下げられたもの。

   
真っ直ぐな舗装道を進み、すぐの丁字路を右折して細い道に入り、
道なりに進んで園原町に入り突当りの
車道を右折する。
    
約150m進んで、左に分かれる坂道を下り、細い舗装道を道なりに進み、
その先で
コンクリート舗装坂道を上る
    
坂の途中で、右に分かれる道に入り、すぐ先で左に分かれるコンクリート坂道を上り、
突当りで
石畳の坂道を上る。
    
突当りを右折して建屋前を通り、道なりに左折して木立の中のゆるい上り坂道を進む。
    
道は下り坂となり、視界が開けた道をさらに下り、突当りを左折して坂道を上り杣之内町に入る。
その先で、下り坂道となり右側に「内山永久寺跡」標識の立つ
展望台
   
展望台から道なりに右にカーブして、永久寺の浄土式庭園の跡である池沿いに進み、
右側に「
永久時跡案内板と境内図」。
永久寺:1113~1118年間(永久年間)に鳥羽天皇の勅願で創建されたもので、
興福寺との関係深い。
大和国では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ大寺で、その規模の大きさと伽藍の壮麗さを誇っていたが、明治初期の廃仏毀釈で徹底した破壊と略取で、廃寺となってしまった。
略取された仏像・仏画・経典等で国内に残っているものの大半は、
重要文化財・国宝指定を受けている。
ただ、そのような重要文化財も海外に流出させてしまったものも多いという。
廃仏毀釈とはなんなんだろう。国家権力による大量破壊行為だと思う。
お上の命令ということで、昨日まで信じていた仏さまを皆で徹底的に破壊してしまう国民性。
タリバンがバーミヤンの大仏を破壊したとき、ごうごうと非難したこの国民は

それ以上の破壊行為をしていたことをすっかり忘れている。
おぞましいというか鬼畜というか、
そういうDNAをきちんと引きついでいる自分を思うと恐ろしくなる。

道なりに進み、
突当りを右折する。
   
まっすぐな道を進み、突当り丁字路を左折して道なりに右に曲がり正面のガードを潜る。
   
その先の丁字路は直進し、続く分かれ道は右手の低い道をすすんで、
突当りで
左折する。
   
その先の分かれ道は、右手の坂道に上り木立の中を進み、
右側のちょっと薄気味の悪い
沼沿いを道なりに進んで布留町に入る。
   
石上神宮境内に入り、数段の低い階段を上って右折し、参道を上る。
山の辺の道は、このまま石上神宮前を通り奈良市まで続いているが、
今回は石上神宮までとして、参拝して終了とする。

   
石上神宮(いそのかみじんぐう):
古事記、日本書紀に神宮として伊勢神宮と並んで記されている、日本最古創立の神宮。
この神社には本殿がなく、拝殿の奥の聖地を「布留高庭」「御本地」などと称して祀っている。

   
山の辺の道」の旅は終わり、
石上神社から約2kmのJR(近鉄)
天理駅から宿泊先の奈良市へ。
   
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