レーダー開発加速化
ガダルカナル沖海戦での敗因の一つはレーダー装備の差であった。陸海軍も漸くレーダーの開発に本腰を入れる。1943年7月,陸軍航空本部の遠藤中佐と海軍艦政本部の細谷少将が発起人となって射撃制御レーダーの基礎技術の進歩を図るための官,軍,民の懇談会が開催される。陸軍はレーダーの開発を集中するため,6月に陸軍多摩技術研究所を設立する。そして電波兵器の研究を促進するために軍の研究を公開して,民間の研究者の協力を得ること。量産のために機械技術者の協力を得ること。真空管の生産増,電波妨害対策を行うことを決める。
民間の研究者の協力を得ることについては1943年から陸軍が『無線と実験』誌にフィリピンとシンガポールで取得した,英米のレーダーの写真や,その解説を頻繁に掲載して民間をレーダー技術に動員するための広報を行った。真空管の生産増は電球の生産を1割減らして資源を真空管に転用することを決めた。
海軍はガダルカナル島でのレーダーによる敗北がきっかけとなって1943年1月26日に開かれた「戦備考査会議」ではレーダーが議題となる。海軍大臣がレーダーの新規設計と基礎研究を緊急に進めるよう2月17日に指示を出し,レーダーの開発のための組織的な整備が始まる。3月に月島,鶴見,千葉県の大東岬にレーダーの試験場が設置され,6月にレーダーを生産するため沼津海軍工廠が設立され,7月に海軍技術研究所にレーダーを専門に開発する電波研究部を設ける。
河村豊 氏は『 レーダー開発計画の決定過程―太平洋戦争直前期の旧日本海軍の取り組み 』の中で,この頃の海軍技術研究所のレーダー開発者の人員は凡そ400名と推定している。
10月に海軍大臣が大東岬のレーダー実験場を視察する。1944年3月に射撃用電探促進会議が開催され,電波研究部が電波本部となる。
1943年10月,『科学技術動員総合方策確立に関する件』が閣議決定される。
「航空戦力の急速なる強化を中心として科学技術の動員を徹底し科学技術に関する軍官民の研究体制を総合能率的に整備し其の総力を発揮し米英を圧倒すべき研究成果を急速に達成すると共に右研究成果を神速に戦力化すべき方策を確立せんとす。」
具体的には科学技術を動員するために内閣総理大臣の下に少数の軍官民の委員からなる研究動員会議を設ける。これは,戦争遂行上,急速に成果を得るために,科学技術上の重要研究課題と解決に必要な方針を決定する機関である。続いて1944年(昭和19年)9月には『科学技術ノ戦力化に関する件』を閣議決定して大学の研究も全面的に軍に協力する仕組みをつくる。
Z研究
海軍ではレーダーの開発が加速しないので伊藤庸二も追い詰められ,伊藤が中心になって Z研究 が始まる。数メガワットの大出力マイクロ波を敵機に放射して,その電気機器を狂わせて撃墜しようという研究で、1944年6月に静岡県島田に研究所を設立する。
開発目的
極超短波を発生輻射し物理科学及び生理作用を研究し,之が用兵並びに技術上における利用につきて具体案を立て以って之等の利用に用いられるべき装置を試製する。
Z研究と同じように、大出力マイクロ波を敵機に放射する研究は、第二次大戦前に英国でも行われた。しかしワトソン・ワットが1935年にマイクロ波を使用して航空機のパイロットに負傷を与えられるかどうかを問われて、科学的に「不可能である。」と計算して回答した。
これに対して同じ科学者である伊藤庸二は科学的理由を提出できなかった。伊藤は戦後この研究について『機密兵器の全貌』の中に、
本質的に非なりしや,時期的に非なりしや
と書いている。理論的には不可能と解っていたが,科学が『空気』に支配されていた。3GHz,500kwのマグネトロン
海軍 射撃制御レーダー
日本の射撃制御レーダーの開発経緯は 松井宗明 が『日本海軍の電波探信儀』に詳述している。戦況が有利であった開戦後、暫くは光学測定に絶対の信頼をおいていた。しかし1942年10月のガダルカナル沖の夜戦で米国のレーダーの威力を知ると、水上見張りレーダーと,射撃制御レーダーが無いと,戦争はできない。
と言われるようになる。このため艦船搭載条件であったレーダーの設置面積,重量の制限が撤廃された。しかし人や資源が逼迫している情勢下であるにもかかわらず、射撃制御レーダーの開発でも3つの開発が同時に,ばらばらに進められる。1つは既存の航空機早期警戒用レーダー 2号1型電波探信儀 の改良であり,2つはマイクロ波の 2号2型電波探信儀 の改良であり,そして3つはドイツ ウルツブルグ のコピー機開発である。2号1型電波探信儀 にビーム切り替え回路を附加して方向精度を高めて,1943年に対艦船用の射撃制御レーダー 2号1型改3 が完成する。しかし期待性能が得られないので採用されない。
3号2型電波探信儀
2号2型電波探信儀 の丸型ホーンアンテナを,大型の四角形ホーン3個に変更した 3号2型電波探信儀 が1944年9月に完成する。性能は良かったが,重量が5トンで,これを装備するには艦橋を補強しなければならなかった。沿岸での監視用として60台製作される。周波数 | 3GHz |
パルス幅 | 10μs |
出力 | 2kW |
探知距離 | 30km(艦船) |
方向精度 | ±0.5度 |
距離精度 | ±100m |
Block Diagram |
3号2型電波探信儀
電波探知機 E-27
1943年1月に電波探知機 E-27 を開発する。探知できる周波数は75-400MHz,探知距離300km。高周波部は3個で周波数によって差し替える。アンテナは指向性のあるラケット型と,無指向性がある。2500台生産されて,4月に巡洋艦『那智』,『熊野』,『足柄』に,5月に『翔鶴』に装備する。さらに7月までに全ての潜水艦に装備する。E-27 電波探知機