縮景園 (しゅっけいえん)
    
日本歴史公園100選、縮景園
縮景園:広島城の初代藩主浅野長晟が、別邸の庭として茶人で家老の上田箇に命じて作庭させたのが起源。、
その後京都の庭師清水七郎右衛門により大改修され、その後も改修が続き明治末頃に現在のものとなった。
原子爆弾投下で壊滅的な打撃を受けたが、1970年代までに完全復旧されている。
園内は、庭の中心に「濯纓池(たくえいち)」と呼ばれる池を配し、「跨虹橋」によって池を東西に分け、
周囲には多くの樹木と茶室、四阿などが配置されている
縮景とは、各地の景勝を集め縮めて表したことの意。
入場料:大人260円、大学・高校生150円、小中学生100円。65才以上無料)

   
門を入ると正面に、園のほぼ中央に位置する1964年(昭和39)に復元された面積約178㎡数寄屋造りの清風館
清風館:当初は「壱之御茶屋」と呼ばれていた。
日清戦争で大本営が東京から広島に移されたとき縮景園は大本営となり、清風館は明治天皇の居所となったところ。


ここから、順路に従い
池を左回りに巡り歩く。
南側から見る美しい姿の
濯纓池(たくえいち):池の面積は約8,000㎡平均水深約1mで、近くの京橋川から取水している
跨虹橋(ここうきょう):池を中央で南北に結び、2分する形で地上と天井を結ぶ虹のように構築されている。長さ約25m、巾約2m石橋。
    
   
池の反対側に見える悠々亭
小さな橋の映波橋、昇仙橋、望春橋を渡り、対岸の東側に入る。
有年場(ゆうねんじょう):藩主が田植えをしてその年の五穀豊穣を祈願したと伝えられる、小さな水田。
    
大銀杏:原爆の投下後の火災から生き残った木の一本。爆風で傾いているため、倒壊しないように梢や枝を切りはらっている。
樹齢200年以上、樹高約17m、幹回り約4m。

迎暉峰
(げいきほう):園内最大の築山で標高約10m。この頂上から広島城下、広島湾そしてはるか宮島まで望むことができたという。
頂上から見る
絶景
     
香菜圃(こうさいほ):宇治茶と藩内の有名品種の茶を植えている茶畑。1963(昭和38)に種を蒔き、被爆前の姿に復元した。
十王堂:約200年前の洪水で京橋が氾濫したとき、川上から流れてきた3体の木造の仏像をお堂を建立して安置した。
原爆でお堂と大きな2体の仏像は焼失したが、残った小さな仏像1体をお堂を再建して安置した。仏像は平安時代後期の作品の十王像。
悠々亭(ゆうゆうてい):1969年(昭和44)に復元。建築面積11.10m2の瓦葺屋根の四阿。以前はここで茶会や歌会が行われていた
      
小さな橋を渡り北側に入る。 北側から見た、池2景
    
祺福山(きふくさん):標高約6m。頂上には第5代藩主浅野吉長によって建立された神社があったが、原爆で消失している。
白龍泉(はくりゅうせん):1807年(文化4)の大改修では牛田山の清水谷から取水管で引いていたが、現在は井戸水を使用。
明月亭:数寄屋造りで屋根は茅葺。景色のよい山の上にあり月を鑑賞する場所であったので、明月亭と名付けられた。
面積約43㎡で、1974年(昭和49)に復元された。

     
西側から見る
夕照庵(せきしょうあん):茅葺屋根の約8㎡の茶室。1970年(昭和45)に復元された。
超然居(ちょうぜんきょ):園内最大の島で、観瀾橋および洗心橋の2つの橋で結ばれ、人里離れた静寂な場所を表している。
中央の高台に、葺屋根の四阿がある。1970年(昭和45)に復元。

     
超然居の四阿では、ただ今結婚するお二人をカメラマンたちが撮影している真最中。
萬歳手水鉢(ばんざいちょうずばち):当時は牛田山の清水谷から清水を導き、木管を通して自然の湧水のように作ってあった。
楊貴妃型石灯籠(ようきひがたいしどうろう);形が唐の楊貴妃が付けていた冠に似ていることから、この名がついた。
     
流川(ながれかわ):かって濯纓池から流れ出た水は、まっすぐ南に流れて流川を通り、広島湾に出ていた。
現在は流川は埋立てられ、繁華街となり町名として名前のみ残っている。

流川町の繁華街には、当時広島にいたころ数百回はお世話なった懐かしいところ。
池巡りもここで、終わり。