第2回 国際学際ワークショップ参加 見聞録

 私がこの国際学際ワークショップに行くに当たっては当初いろいろな背景があった・・・
というと難しく聞こえるかもしれないが、結果的には行ってみてすごくよかったのである。その体験談を含めここにその経緯や貴重な?研修成果を話してみたいと思う。
 私が第2回国際学際輪ワークショップに参加するよう打診を頂いたのが、1999年5月のちょうどゴールデンウィーク中のことだったと思う。
 最初は何のことだかさっぱり分からず、さらに当時はまだ聞き慣れないクロアチアという国名に思わず断ってしまったのである。しかも2回も・・・。

 当時私は川崎市内の某ET中学校の美術教師として勤務していた。年齢は36歳。この打診が名誉あるご推薦であったと言うことは後日分かるのだが、そんなことよりも最初は「なんで私がそんな得体の知れない国へ行って、しかも版画を教える?版画を制作する?そして2週間戻って来れない?」

 話をよくよく聞くと、川崎市と一番最初に姉妹都市として提携を結んだクロアチア(当時はユーゴスラビア)のリエカという都市とで、前年度より美術の国際交流を勧めてきているという。しかも関係している国は日本以外にもイギリス、イタリア、ドイツ・・・などなど。しかも行ってみて分かったのだが私以外はみんなプロの作家じゃないかーーーーーー!!

 結局のところ日本からは何故教員かというと、現地で版画を教えるという(特に木版画)教育的な立場で尚かつ美術を専門にやっている人という注文だったらしい。ちなみに第2回ということは前年度第1回目はやはり日本の伝統色の濃い陶芸を専門になされていた高校の教員が参加されて、見事に現地に作品を残されてきていた。

 私はというと、たまたま大学時代に油絵と版画(主にエッチング)を専門にやってきていたため、誰かが川崎市内の教員で版画ができ、さらに教えられる者という安易な条件をどこからか探してきてヒットしたのが私だったようである・・・。

 まあ結果として行くことになったのだが、その前段階には次のような経緯もあった・・・。

私の身に何が起こったか・・・?

周囲の脅かし・・・!!


 さて、結局何が最終的には自分を未知のクロアチアへ行かせる決心とさせたのか・・・

 行くに当たっては実はかなりの人に相談した。
「旧ユーゴだろ!今でも内戦が続いている危険では?」
「勧告においても危険度が高い国!注意が必要!」
「今でも地雷があちこちに埋まっている。迂闊に歩くと地雷を踏むぞ!」

 特に国際情勢に詳しい知人と言うことで、まずは某国営放送の記者であった高校時代からの友人であるS氏にこのことを相談すると
「やばいぞ!地雷はあるし、まだ内戦は続いている!本当に安全なのか?」
と脅かされる。

 次に実弟がマスコミなのでやはり相談すると
「お兄ちゃん、心配だから俺がついていくよ!」
といきなり言われる。しかもただでさえ忙しく普段はほとんど相手にしてくれない実弟がこのようなことを口にしたことだけでも、そのクロアチアという国の実状が想像でき、この段階でもう一度打診が来たら真っ先に断ろうと思った。

 私はこの段階で
「何てひどいところへ無責任にも行かせるのだ!」
と正直、教育委員会の対応について不満がかなり募っていた。ただ裏を返せば、そんな危険なところへ行かせて、もし何かあったならばそちらの方が問題なのでは・・・?という少々矛盾するのだが、何かよほど安全であるという保証がどこかに見え隠れしているような気配が感じ取れたのも事実だった。















経験者は語る・・・
もう一度行きたい!

 結果的に私を行く気にさせたものは、何事も経験者の話である。
 こうなったら第1回目に参加している高校の美術教諭T先生に直接話を聞こう!それで決めよう!

 T氏はこう言った。
「今年は君が行くのか。実は誰もいなかったらもう一度私が行きたいと申し出ようかと思ったのだよ。それくらいいいところだった。」
 意外な応えであった。
 さらに
「危険?どこが?全然、危険じゃないよ。それどころか平和そのものさ。確かに旧ユーゴの流れはあるし、戦争の爪痕があるのも事実だ。しかし地雷なんてよっぽど私みたいに朝早くから森の奥まで散歩に行かない限りはまず踏むことはないね。とにかくいいところだよ。行って後悔することはない。是非行っておいで。」

 そして最後に付け足された言葉が2つ。
 一つは
「あそこは宮崎駿の『魔女の宅急便』のモデルにもなった場所だ」
 もう一つは
「水着は必ず持っていった方がいい」
??????
 その意味は現地へ行ってよーーーく分かった。



不安だらけの旅立ち・・・

 さてクロアチア行きが決まってからことが運ぶのは早かった。しかし私の頭の中ではクロアチアというと当時はサッカーで三浦選手こと”カズ”が首都ザグレブのチームに所属していたこと以外の情報は何もなかった。

 そのザグレブに到着するまでになんと約18時間。まずはルフトハンザ航空でフランクフルトまで11時間。そしてそこからこれも初めて聞いたクロアチア航空でザグレブまで約2時間。待ち時間がなんと3時間以上もあり、結果的にトータルで18時間くらいかかってしまった。

 ザグレブに着いたのが現地時間で夜の11時頃。恐る恐るタクシーの運転手に「パレスホテルまでお願いしたい」というと「パレス・・・・・・?」、英語が通じなかったか・・・一体どうしようかと思っていると「おー!パラスホテル」と言い換えされ、たった一語の発音でちょっとドギマギした。

 乗っている間もこのまま拉致されたらどうしよう、無謀なお金を徴収されたら・・・などと気にしながらものすごいスピードで運転をする運転手さんと無言のまま(だってクロアチア後なんて話せませんから・・・)30分くらい乗っただろうか・・・。ホテルまで無事到着した。ここはチップの習慣があるので以前の海外旅行の経験を生かして、素早くチップを払い礼を言ってホテルに入った。

 ホテルでは名前が間違って伝えられていたのか?実はあとでホテル側のミスと分かったのだが、しっかりとこの日に私が滞在するという連絡の確認が取れていなかったらしく、チェックイン自体にも少々時間がかかったが、まずは部屋に案内され疲れをとるために風呂に入った。
 するといきなり電話がかかってきて、現地で私の通訳をしてくださるという芦垣さんという方からだった。
 明日の朝、9時に迎えに来るという。リエカからザグレブまでは車で約2時間かかるらしい。まあとにかく今日は早く寝て明日に備えよう・・・。
 さて、そんなこんなで子どもたちに版画を教えたのは実質的に2時間もあっただろうか・・・。私はてっきりこの場を借りていよいよ残り約2週間、ここで制作をするのかと思いきや、今度は車に乗せられてどうやら全然違う場所へ行くと言うではないか・・・。一体どこへ?車で約1時間ちょっと言うがどうも話を聞く限りでは島へ行くらしい・・・。

 島の名前はKRK島(クルク島)というところで、1時間も走ると最後はチトーブリッジというものすごく長い立派な橋を渡って大陸を離れそのKRK島へ渡った。
 チトーとは以前ユーゴ分裂前大統領チトーから来ていると思われるが、現地の人はチトーについてあまり多くを語ろうとしない。通訳の芦垣さん曰く、チトーの時代が良かったので思い出したくないらしいという。

 日も暮れかかった夕方に・・・と言いたいところであるが、クロアチアはサマータイム制を導入しているせいで夜の9時頃まで明るい。
 私がKRK島のある村へ到着したのが5時頃。そこはDOBRINJI(ドブリン)という村であった。まずは約2週間寝泊まりをする部屋に案内され、そこはあとから来るイタリア人と一緒になる部屋だと言われた。

 3食は全て賄いが来ており、その人たちがクロアチアの家庭的な料理だけでなく、注文すればそれなりに口に合うものを作ってくださるという。私はこれでだいぶ安心した。
 今までにも何度か海外旅行の経験があるが、ほとんどの場合3日に一度は日本食が恋しくなった。せめて日本食でなくともパスタやハンバーグなどが食べれればそれで何とかいけると思った。ケロッグ、トーストも結構一時しのぎにはなった。

 どうしようもないときは本当に小さな村で人口は100人も居ないと言っていたが、私の宿泊所の周囲にだけコンビニ?と言えるかどうかの店と、カフェが2軒あった。コンビニではスナック菓子やアイス、カフェではコーヒーや酒を時々頂いた。

いよいよリエカ入り

 翌朝、緊張のためか朝6時頃目が覚めたのでまた風呂に入り、昨夜は全く暗くて分からなかったザグレブの町を散歩してこようと思った。

 まずは貴重品を持って・・・・・・・・・・・・・・・
 あらーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!
 パスポートがない!!部屋まで入って誰かが取って行ったか!!なんと危険な国だ!!どうしよう!来たばかりでパスポートがなくては何もできない!!

 冷静に考えてみると昨夜はよっぽど疲れていたのであろう。身分確認と共に貴重品管理と言うことで、受付にてパスポートを預けていたのを忘れていた。この時の安堵感は今でも忘れない。

 そうこうしているうちに迎えが来た。通訳の芦垣さん以外にリエカ市役所の役員も一緒だった。
 いろいろと気を遣ってくれ、途中幾度か景色のいいところで休憩を取ってくれただけでなく、乗車している間は始終2人よりいろいろな説明があった。お陰で2時間はとても少ない時間に感じた。

 リエカに到着するとすぐに私はリエカ市役所に通された。市役所では副市長のブランカさんと秘書のタヤナさん、そして現地のワークショップの担当者であるアンテ・ミラス、マリヤ・ズデニゴ夫妻が私を出迎えてくれた。

 私は川崎市役所からの公文書を手渡すと同時に、出立時に私自身の作品を市役所に寄贈するという話を聞いていたので、日本らしさを表現できていると思った「嗚呼!木造三階建て」というタイトルのエッチングを手渡した。

 その後、贅沢な昼食を取り、いよいよまずは一つ目の使命である現地の子どもたちに木版画を教えるという場所へ移動することとなる。

日本への興味関心

 リエカ市内にあるアンテが経営するアトリエに行き、約20名の小中学生に木版画を教えることが始まった。

 アトリエに入って驚いたのは、数々の日本に関係した作品が多く目に留まったことだった。
 陶芸はもちろん、和紙を作っていたり、針金で日本のひらがなや漢字を作ってみたり、とても日本に興味関心があるのだなと改めて感じ取ることができた。

 また和紙を作っているのにはもう一つわけがあり、それはクロアチアではノートなどの紙でも日本の4〜5倍するという。当然画用紙のような質の良い紙はなかなか手に入らないどころか高価な紙なので、日本の現状を考えるとこの点については世界各国から木を一番ムダに使っている国と言われる理由がよく分かったような気がした。
 
 木版画の制作に入る前に簡単に説明をしたかったが、そこは通訳がいたので日本語で話したことをそのまま訳してもらった。しかしよく言われるようにこういう場では言葉は関係ないなと思った。意志疎通は不思議とジェスチャーやこちらの擬態語、擬声語でも伝わっていく。

 みんな興味を持って版木を銘々に手に取り、おそらく現地にはないであろうと思った彫刻刀のセットを貸して自由にテーマを決めて彫らせてみた。(結果的にこの彫刻刀約20セットはあげてきた)

 最も興味を持った部分はバレンで刷るときである。自分が彫った形が自分が選んだ色でハッキリ出るかどうかを確認するときの表情は今でも忘れられない。みんなあの紙をはがすときの期待に胸を膨らませた表情が子どもらしさをより一層確認できた場面でもあった。

 最後に日本からのおみやげと言うことで、箸と箸仕入れと穴の空いたお金が珍しいと聞いていたので、5円玉をみんなにプレゼントした。(さすがに50円は財政的にきつかった・・・)

 この時の指導の様子は翌日のリエカ市内の新聞に私の名前入りで掲載されていた。

いざKRK島へ!

天国とはまさにここ!?

 どうやらこの国際学際ワークショップの全景が見えてきたのがクロアチアに入って3日目のこと。
 このKRK島のドブリンという村が今年で900年を迎えるらしい。そこで私たちワークショップ参加者に課せられた使命は、この村のどの部分でもいいから版画に残して保存するということ。

 参加者銘々がモチーフを探すためにいろいろとあらゆる方面へ出かけていった。もちろん主催者であるアンテ自身も車を出して参加者をあちこち連れて行ってくれた。

 私はと言うと結構一人でプラプラするのが好きなので、暇に任せて人口100人足らずのこの村をテクテクと歩き回ってみた。
 約1時間も歩けば全村の様子が分かった。少し高台に位置するこのドブリン村からは、ほとんどの場所から360度景色が楽しめる。基本的には島なので周囲は遠目で見渡せば海である。アドリア海、地中海の眺めは私にとっは初めての経験であったが、あの宮崎駿が『魔女の宅急便』の町のモチーフにしようとした意味がよくよく分かってきた。

 まさにここは天国である。来るまではいろいろと不安が錯綜したが、来てしまうと気付いてみればもう明日が帰る日になっていて、気持ちはいつしかナーバスになっていた。
 共にこの場で2週間も生活をし、制作をすれば、例えそれが赤の他人、異国の人であっても、家族同然の親しみをいつしか持ってしまっていた。
 
 私は性格上、別れが近づくと日に日にナーバスになるだけでなく、自分から少しずつ距離を起き始めないと、いきなりの別れはどうしてもつらいものがあった。

 結果として、私だけがザグレブに戻り、さらにそこで一日宿泊して帰ることになっていた。必然的に最後の日は仲間が順々に車を降りていく中、一番最後まで主催者のアンテの車でザグレブへ行き、私はアンテと別れるときに「SEE YOU AGAIN!」を連発して涙を拭きながら別れた。


肝心の制作は?

 ところでワークショップで何を制作したの?と言われてしまうような内容が続いてしまったので、最後に制作について簡単に触れておこう。

 制作自体は変な話しフリーなのである。その村にある幼稚園の体育館を貸し切り状態にしてあり、そこで朝早くから夜遅くまで、好きなときに好きなだけ制作すればよい。ノルマはないがまああるとすればとにかく最低1枚は版画を制作することと、その版画を10冊の記念誌として残すために10枚刷る。
 これが最終日までにできていればよいのだが、最終日の前日にはその村の教会をお借りして、参加者の展覧会を開催したので、まあ約10日間を制作に自由に打ち込めばよいと言う感じであった。

 やけに自由という表現を使うが、ここにはクロアチアの国民性も紹介する必要がある。
 まずはたばこ、アルコールに年齢制限がないらしい。でも不思議と低年齢の子どもがそのどちらをも乱用している様子は一度も見かけなかった。

 次はスペインのシエスタとも似ているが、お店は朝の6時から12時まで。その後、午後は6時まで店をしめる。そしてまた6時から数時間やって終わり。
 この間、国民は何をやっているかというと、まずは大変長い昼食時間。平均で2〜3時間らしい。当然ここではアルコールもあり。
 
 さらに驚くことは、夏場は皆さん毎日のように海へ泳ぎに行く。これが午後の3時くらいから夕刻まで続く。T氏が「水着が必要」といった意味がここで分かった。
 私もこれには甘えさせていただき、毎日夕方からはアンテと一緒に海まで泳ぎに行った。

 お前、そんなんで作品できたのか?と思われる方も多いと思うが、実は1枚どころか2枚制作したのだ。1枚がエッチング1枚が木版

 余談だが制作中は音楽も自由に聴いて良かった。たまたま私は自分が組んでいるバンドの演奏の録音をBGM代わりに聴いていると、周囲で一緒に制作していた参加者が「プロかと思った」とその演奏を誉めてくれた。(お世辞かもしれないが)

 また制作の様子を現地の放送局が撮影に来て、特に一番遠い日本から来た私が最も多く取材を受けた。現地のテレビでその様子が流れたらしい。

 今回の私の出張は派遣申請というものらしいが、実は予算の関係で今はもう立ち消えとなってしまっている。おそらく日本からの参加は第3回くらいで終わってしまったのではないだろうか・・・。
 

美談は続く・・・

 ところでこの話はここで終わってしまいそうだが、実はこの話には後日談があって、それは追ってまた別のページでお話しするとして、簡単にその内容に触れておくとこうである。

 主催者アンテ夫妻からこの期間中に持ちかけられた話が
「こちらの子どもたちと日本の子どもたちを交換留学させることはできないか?」
というものだった。

 クロアチアから日本に行くだけの交通費だけでも彼らにとってはかなり高額な費用となる。できれば私の学校の保護者にも協力を依頼してホームステイをさせてくれないか?という提案であった。

 私はこれも何かの縁と思い、軽はずみな返事はできないものの何とか努力してみるという返事は残した。

 そして結論として、この2年後に彼らは日本に、そして日本からも当時私が在籍していた中学生男子が単身でクロアチアへホームステイに行くきっかけに発展していったのである。

私以外はみんなプロのアーティストたち!
ザグレブの町並みです
歴史ある建物が多いです
なぜだか外国のバルコニーにはあいますね・・・
木版画にした教会付近です
コルゾと呼ばれる市役所前の広場
左よりアンテ、芦垣、ブランカ、自分、マリヤ
バレンでちょうど刷っている最中です
ドブリン村の入口
賄いさんのお2人。本当に助かりました!
エッチングにした風景です
毎日夕方は海で泳ぎました・・・幸せなひととき・・・
第1回祝賀パーティーの様子。右から3番目は村長さん
最終日、村の教会を利用して展覧会が行われました
  制作中の自分
  教会の展覧会場で。右は通訳の芦垣さん





現地で取材を受けた新聞の記事です。