画家として何を描くべきか・・・
この戦争体験から全てが始まった。


「私の戦争体験(二つの死の間で)」

                              江野永青



 太平洋戦争下の悲劇の体験については、その時代を生き抜いた全ての日本国民の中で、誰もが忘れ難い悪夢の一コマとして傷跡を残さなかった者はなかったであろう。ただそれが、沖縄やニューギニアや広島・長崎のように特別な舞台での展開ではなかったと言うだけで、戦争下に於ける人間一人の死は、その悲情さに於いて何ら変わるところはなかったのである。

 昭和二十年八月十五日は、あの第二次大戦の終結の日、私は北朝鮮(今の朝鮮民主主義人民共和国)の元山(ゲンザン)市に在住していた。旧制中等学校三年の時である。
 大戦中の日本人は誰もがそうであったように老若男女を問わず、お国の為に(つまりは天皇陛下の為に)いつでも死ぬ覚悟で毎日を過ごしていた。内地の大都市のような大空襲に見舞われることはなかったが、それでも連夜のように爆撃を繰り返され家屋や人命が次々と失われ始めたこの年の初夏、朝鮮半島とは陸続きの満州を突破して突然ソビエトの軍隊が流れ込んで来た。ソ連軍の進攻は寸刻みに地図を南下し私たちの住む元山市の進入は時間の問題と化していた。
 工業系公立校のため兵役志願を免除されていた私たちの学校にも或る朝少年兵の志願書が持ち込まれ、同時に各家庭の日本刀の有無が確認され、迫り来るソ連軍兵士を刺しちがえて斬り死にする決意を固め合う情況となった。学校でも勤労奉仕先の工場や農場でも、折りさえあれば敵を刺しちがえて死ぬ話を交わさないことがなかった。
 日本軍部が敗退しソ連軍の南下のみが暗いニュースとして危機感を伝えていた八月の或る日、内地の広島と長崎に大型爆弾が投下され大被害を受けたという噂が流れ、やがてその噂は全市に拡まった。新聞に載らない内地の出来事は、それだけで市民の間に不安感を植えつけ、その不安はそのまま誰れ言うとなく日本の敗色を口にし始めたことにより一層拡大され、それを起爆剤に朝鮮人学生や青年たちの間に日本人排斥の声と朝鮮解放・朝鮮独立の行動が起こり、昨日までの学友だった朝鮮人学生が一変して公然と反日的言動を示し始めた。

 「イルボナ、テレジョ!」(日本人を打て!)
 「イルボナ、チュゴラ!」(日本人、死ね!)

の声は日毎エスカレートし、学園の内外を問わず日本人や日本人学生に対する集団リンチは激しさを加えていった。かくて私たちの朝鮮に於ける学業は終戦を待たずして終止符を打つことになった。
 そして八月十五日は、不安を募らせたソ連軍との直接遭遇を見ないまま日本は敗戦となり、やがて戦車隊を含む物々しいソ連軍の進駐によって元山の街は占領下態勢へと暗転していったのである。
 その後、北上した米軍と南下したソ連軍により北緯38度を境に朝鮮半島は政治的に二分され、旧日本軍部が手を染めた海外植民地主義政策の真意を知らぬまま朝鮮全土を埋めつくした数百万の邦人たちは、北は地獄、南は天国という予期せぬ運命の歯車に巻き込まれることになった。満州から、そして北朝鮮に在住した多くの邦人たちが、内地生還を夢見、生命を賭して脱出を試みた北緯38度線こそは、その時以来、まさに死の38度線と化したのである。

 八月十五日を境に北朝鮮に於ける日本人と朝鮮人の立場は180度転換した。元山市内の全ての公共施設、商店街、一般住宅は朝鮮人によって占拠され、日本人は一部地区を除いて大多数が元朝鮮人労働者住宅跡の収容所へ強制収容されることになった。湾を囲むように長く拡がる元山の街の東突端に、日本海の波しぶきを浴びた廃屋のように立ち並ぶ収容所の建物は、やがて襲いくる酷寒のシベリヤおろしに耐えるにはあまりにみすぼらしい隙間だらけの木の城だった。ただ収容所の内と外を区分する張られたばかりの有刺鉄線の冷たい光だけが強く目に焼きついた。
 ソ連軍の後押しで軍隊に代わる民警隊と編する朝鮮人警察軍が編成され、昼は民警隊の許可を得た者だけが外出を許され、夜間は六時以降は犬猫人間を問わず動く者は全て射殺という戒厳令がしかれた。
 そして数日後戒厳令下最初の犠牲者が出た。元女学校の校長で教えるを尋ねた帰途での悲劇だった。後頭部が撃ち抜かれ、四散した肉片が元日本人街の板塀にコマ切れになって付着していた。私は生まれて初めて人の銃殺死体を目撃し、真夏の青空が押しかかってくる戦慄を憶えた。

 収容所の朝はソ連軍飛行場へ直行されるダワイ作業の人選によって明けた。ダワイとは英語のCome on に当たり、ソ連兵は何事によらず命令を発する毎に自動小銃を振り上げては「ダワイ!」と呼ぶのである。
 ダワイ作業は文字通り強制労働であった。材木やコンクリートの塊や高梁(こうりゃん)袋を担がされ、柔らかい少年の背骨は湾曲し亀裂を生じた。そして私は肋膜を併発し倒れた。しかし、ダワイ作業は無差別に病人までかり立てて、私は右肩下に痛みを耐えたら一つの荷物を時間をかけてゆっくり運んだ。

「ダワイ!」
「ダワイ!」

 空腹と栄養失調と病と、汗と涙が一緒になって身体は常に微熱を発していた。汗が出過ぎ右肩から水が消えてしまって干性肋膜の状態になっていた。ただ痛みだけが残り荷物を背負って歩く時、私は声を出して泣くことがあった。
 ダワイ作業に従事していた或る日、私たちは少年ばかり三、四人でソ連軍兵士用食堂の薪割りに廻された。薪を割っていた裏庭の片隅に残飯捨て場があった。誰となく仕事を放り出し私たちは残飯捨て場に吸い寄せられていた。ドロドロのシチューの塊の中から汚れたジャガ芋を掴み出し、スープで糊のようにふやけた黒パンの切れはしを拾い上げてはものも言わずに餓鬼の子のようにむさぼりついた。スープに濡れた黒パンは、どれもこれもゲロの臭いを滲みこませていたが、息を止めては一気に呑み込んだ。少しでも食べられそうなパンは濡れた部分をちぎり捨て、ポケットに隠して収容所の家族に持ち帰った。父と姉と妹がそれを食べた。そしてこの日から、この習慣は私たち少年グループだけの秘密行事となり、他の場所へ移動させられてからも長く続くことになった。垢だらけのヒビ割れた手で鼻みずを啜り、氷混じりの寒風に曝されたら、まるで乞食のように残飯をむさぼる姿は、さながら地獄絵の餓鬼図そのものであった。(戦後三十数年、パン屋の軒先に渦高く積まれたパンの山を見る度に、私の脳裏にはあの時のスープに汚れたブヨブヨの黒パンの切れはしが思い出されて今でも泣きたい気持ちに襲われる)
 餓えと寒さと病と、そしていつ内地へ帰れるか判らない不安の中で収容所の人々は希望のない毎日を送ることになった。水に浮いた高梁(こうりゃん)の粥と僅かなジャガ芋でつなぐ命は誰にとっても耐えられないものであった。平和な時であったら簡単に治る病で何人もの人々が死んでいった。
 そして私の小さな戦争史の中で忘れ去ることの出来ない二つの死の一つがやがて訪れようとしていた。

 終戦の年も暮れに近い十二月の或る日、小学生だった妹が突然歩けなくなった。調べて見ると右の足が大腿骨の付け根からズレて五、六センチも長くなっていた。原因を問い正すと、収容所の空き地でジープに乗ったソ連兵に襲われ逃げようとして倒れた体の上を背後からタイヤが乗り越えて行ったという。私と父は急いで市内の病院へ妹を担ぎ込んだが、

「日本人を見る病院は無い!」
「日本人は勝手に死になさい!」

と言われただけで病院の外へ突き出された。どの病院へ行っても同じような答えが返って来ただけで治療を受けることは出来なかった。応急の松葉杖をつくって辛うじて立つことが出来たが間もなく悪性の結核菌に犯され、やがて肺結核を併発して動けなくなった。収容所には病院は無く、医者は居ても薬物一つない情況の中で妹はただ悪化するのを待つだけの身となった。

「早く内地へ帰りたい!」
「早く内地へ帰りたい!」

 病床の妹は一日に何度となくこの言葉を口にした。しかし、収容所内の誰の心の中にも内地生還の夢は消えかかっていた。
 そうした或る夜、元教師の母娘が数人のソ連兵に暴行され首をくくって自殺した。その数日後、私の姉が襲われた。父の必死の抵抗で姉は逃れて助かったが、父は拳銃で頭部を強打され動けなくなった。ソ連兵の暴行は連夜のように続き、収容所は完全に無法地帯と化していった。餓えと寒さと病と、そしてソ連兵の夜ごとの襲来で人々の心は不安のどん底に陥って墓場のような陰うつさが所の建物を支配した。

 そんな情況下の中からいつしか人々の口に収容所脱走の話が伝わり出した。そしてそのことは満州からの脱出者を迎えた時点で一気に具体化し、間もなく最初のグループが脱走を実行に移していった。発見されれば勿論銃殺であった。
 脱走はほとんど連鎖的に実行され、収容所内の人口が目に見えて減少してゆくのが判った。脱走のルートは鉄条網のない裏山の崖を這い登って林間に身を隠し、あとは闇雲に南を目指して突っ走るだけのものであった。
 何日か経った或る朝、脱走したはずの何人かが軍用トラックに乗せられ、収容所前の道路を北へ向かって走っていくのを見た。脱走した彼らは銃殺は免れたが、その罰としてウラジオストックへ強制労働のため連行されていく途中であった。ただ捕まった筈の婦女子の姿は一人も見ることが出来なかった。
 そして収容所の人口が1/5減り、1/3減り、1/2に達した頃、収容所の廻りを有刺鉄線で囲み電流を流すことが始められた。私たち親子にも遂に脱走を決断しなければいけない時が来た。
 頭部に重傷を負った父と動けぬ妹。私たち親子の脱走が不可能なことは周囲の誰の目にもはっきりしていた。廻りの人々が次々脱走していく中で私たちだけが取り残されてゆく不安感が日毎強まっていった。病む妹の胸の中にそのことが重くのしかかり、少女の顔が冷たくもの言わぬ人形と化してゆくのが手に取るように判った。そして自ら死を急ぐように突然危篤に陥った。

「日本人は勝手に死になさい!」

 あの不幸な出遭いの日から三ヶ月目の青空が眼に滲む午後。呼吸困難で横になれない身体を、重ねた布団に寄りかかったままの姿で妹は静かに口を開いた。

「お父さま、お姉さま、お兄さま・・・。長らくお世話になりました・・・。芳子はもう内地へは帰りません・・・。」

妹は芳子と言った。

「芳子ちゃん!しっかりして・・・。みんなあなたの良くなるのを待っているから・・・」

妹の眼は水晶のように透明に輝き深く澄んでいた。

「すまないけど、そのモンペと上着を着せて下さい・・・。」

 妹の枕元にはいつも脱走用の新しいモンペと上着が用意されていた。私たちはそれまで着ていた古い下着と服を取り去り、新しい下着と上着と、そして長い時間を費やしてモンペを着替えさせた。
 あの八月十五日以来、なに一つ人間らしい喜びや幸せに触れることなく、唯、餓えと病と不安に耐えていた妹の身体は、まるで青白いミイラのように骨と皮だけのあまりに軽い物体と化していた。私は涙が流れ出て仕方なかった。父も姉も泣いた。

「みんな泣かないで下さい・・・。そして仲良く力を合わせて内地へ帰って下さい・・・。」

 内気な妹が生まれて初めて私たちに示した意志ある言葉だった。

「身体を起こして・・・。」

 私と姉が痩せた妹の肩と腕に手をやり傾いた身体を支えて起こそうとしたその時、妹の白い指がくい込むように私の手首を掴んだ。指先が小さく震えていた。その指先が、妹の声にならない私たちへの永遠の別れを伝えているのだと私は感じ取った。
 収容所の窓から、僅かな青空が隣接の屋根越しに見えていた。妹の瞳がその青空をもの思いにとらえたまま動こうとはしなかった。やがて一際瞳を輝かせ微笑を浮かべたと思うと静かに

「中清里の山は雪がキレイ・・・。」と言って眼を閉じた。(12歳であった)

 中清里の山とは、平和な時、家族揃って花見に出かけた、全山つつじとれんぎょの美しい思い出の山だった。しかし、山も八月十五日以降は、満州から辿り着いて死んだ者や収容所で死んだ者たちの死体捨て場となっていた。
 この日、収容所の外に雪は見えず、窓から数キロ離れた中清里の山を眼にすることは誰にも出来なかった。

「中清里の山は雪がキレイ・・・。」

 この言葉は、その後私の心の奥で消えることなく痛みの楔となって突き刺さったままである。(死を予知した少女の脳裏に、死体捨て場はどんな風景と化していたのだろうか?)
 私はこの妹の死を思う時、(一体、妹は何のためにこの世に生まれ落ちたのか)やり場のない怒りと、悲しみと、あまりの哀れさにいつも涙がこみ上げて来るのをどうすることも出来ない。

 妹の死後一週間目の早朝、私たちは160名による大脱走を敢行した。婦女子の多くは髪を切り落とし男装に変身した。コースは大別して三つの縦断コースであったが、この脱出は二日目で破綻した。グループが狙ったコースは日本海岸を南下するものであったが、先発隊がソ連軍と民警隊に捕らえられ、われわれを捕獲するため追跡隊が繰り出されたという情報が入ったためである。
 この情報でグループは一気に崩壊した。私たちは父の決断で単独、中央縦断コースをとることにした。これは元山→ソウル間最短直線コースであったが最も危険とされていたため誰も手をつけてはいなかった。ただ満州からの脱出者が地理に暗いためで、このコースに足を踏み入れることが屡々あったとは聞いていただけである。
 そしてそこにはもう一つの難関、朝鮮で最も高く大きな大白山脈が壁のように横たわっていた。山脈の横っ腹にはジグザグに道路が刻まれていたが、そこはソ連軍の正規ルートで、そこを歩行することは直接死を意味した。私たちはしかし、意を決しこの道を辿ることにした。
 四月の大白山脈は山肌が氷のように固く歩行は困難を極めた。途中、ソ連軍用車のタイヤのチェーンの音を聞きつけては一早く脇の谷間へ避難した。何台目かのジープやトラックを見過ごし、もう間もなく頂上へ手が届くと思われたその時、突然背後で銃声が起こりジープの音が迫って来た。ソ連兵であった。
 彼らは口々に

「ヤポン・ムスメ」
「ヤポン・ムスメ」

を繰り返し呼びながら自動小銃を撃ち鳴らした。変装した筈の姉が女と見破られたのであった。私たちは無言の中に頂上を逆に脇の谷間を下に向かってころげはじめた。まるではずみのついた石の塊のように、ただ夢中で転がり落ちていった。百メートル、二百メートル・・・。銃声は背後を追って消えようとはしなかった。五百メートル、千メートル・・・。父も姉も私も、ただ滑るにまかせ身体の傷の痛みも感じないまま下へ下へ水のない氷の谷間を滑り落ちて行った。(どれくらいの時間が経過したのか)
 恐怖で化石のようになった身体を、やっとの思いで立ち上がらせようとしていた私たちの目の前に、異様な布包みの塊が散在しているのに気がついた。よく見てみると、それは凍結した乳児の死体で、脱走の途中で死んだり、足手まといになって捨て去られた乳幼児の、そこは氷の墓場であった。私たちは数分前まで自分たちが経験した恐怖感を忘れ去ったように、ただその冷たい光景を見つめ続けていた。

 その後、私たちは数時間かかって道を離れた別峰の谷間を辿るように登りつめて行った。頂上へ着いてからも、各所にはり巡らされた検問所を避けるため全く未知の山間部だけを進むことにした。多くは夜間星座を頼りに歩き続け、昼間は山合いの谷間で眠ることにした。数日分の食糧と寒さ防ぎの衣服を入れたリュックの重みは、傷ついた私の背骨の痛みを、その間中忘れさせることはなかった。
 汽車で行けば9時間で着く元山→ソウル迄の行程を結局八日間かかって辿り着くことになった。途中、民警隊の捕獲三回。ソ連軍の発砲二回。民警隊は所持金全部を手放すことで切り抜け、ソウルを大きく東に外れた国境の町、春川(しゅんせん)を川向こうに見たのは、7日目の真昼だった。
 銃声に追われながら、川筋の柳のかげを走りに走り、南側が用意した小舟に飛び乗り、空を仰ぐように身体を伏せた。銃声はやや離れた川岸沿いの一際高い岩山の見張り台から聞こえて来た。

「チューン!」

 小鳥のような音を残して幾つもの銃弾が流れの中に突き刺さった。舟が川の中央を過ぎたと思われた頃、櫓を漕いでいた韓国の青年が、

「みなさん、ここが北緯38度線の真ん中です。今国境を越えました。もう大丈夫です。」

と声を踊らせながら呼んだ。
 私たちは思わず

「助かった・・・」

と声を出して顔を見合わせた。
 間もなく舟先が岸へぶつかる音がして舟が止まった。銃声は止んでいた。

「もう自由です」

 青年は立ちすくむ私たちに言い聞かせるように力強く言葉をかけた。放心したように岸へ降り立った私たち親子へ成り行きを見守っていた多くの韓国人たちが手を叩いて迎えてくれた。春川(しゅんせん)の四月の川風は春の臭いを感じさせた。私たちは勝ち取った自由の重みを身体一杯感じながら流れ出る涙を止めることが出来なかった。

 春川郊外から春川の中心部へ向かって歩く数十キロの道程の途中、私たちは背後から行き交うバスやトラックや牛車に助けられリレーで目的地へ着くことが出来た。或る人はタオルを、或る人は石鹸を、そしてバスの中の若い軍人が

「今、支給されたばかりです」

と言ってもらったばかりの貴重な米を私のリュックへ押し込んでくれた。(地獄で仏)、否、(地獄を越えて天国に)。38度線を境に体験したこの日の記憶は、その限りに於いて私の中で、こう述懐したがっている。
 
 春川からソウルへ向かう駅頭で、私たちはMPの手によってDDTの洗礼を受けた。途中列車の中で数十匹の、いや数百匹の虱が身体を這い出て座席の下へ落ちていった。思えばあの終戦の日以来9ヶ月間、私たちはただの一度も入浴することがなかった。衣服と下着を着たままの二百七十日であった。

 ソウルの日本人収容所で、私たちはあの日別れた160人の仲間の10人に再会することが出来た。その中の一人の若い女性は、日本海を舟で南下したため身体全体に凍傷を負い、福岡の病院で両手足切断の無惨な姿となった。(勿論他の150人余りの人々の運命は誰も知らない)

 元山を発って十一日目、私たちは夢に見た内地へ上陸した。
 博多の街は、しかし、コンクリートの瓦礫の荒野であった。
 そして内地生還の喜びも束の間、長い過酷な抑留生活と脱走時の無理が重なって姉の身体は重い結核に罹っていた。福岡の故郷の土に馴染む間もなく、姉は海の見える引き揚げ者療養所へ入院させられた。博多の港へ上陸してから僅か半年経ったばかりのその年の秋、高熱にうなされた姉は突然ベッドを跳び出し、その日看病には来れずに居た父の幻を追いながら、

「お父さま、お父さま、お父さまが来た・・・」

と、まるで狂人のように海に続く松林の砂浜を駆け走りながら息絶えて倒れた。(19歳であった)母と早く死別した私たち姉弟にとって、特に姉にとって父は、無くてはならない愛する人であった。
 私の小さな戦争史の中で決して忘れることの出来ない二つの死の残りの一つは、こうして瞼に焼きつけられた。

「戦争が終わった時から悲劇は始まる。」

 今、私の身体に二つの大きな傷跡が疼いている。
 一つは青春を知らず死んでいった姉妹への思い。
 今一つは、あの日以来消えることなく増幅し続けている背骨の傷の痛みとである。

 十数年前、或る大学病院の整形外科での診断は次の通りである。

「旧陳性骨折(第一腰椎)、椎間板ヘルニア(第三、第四椎間)」

 更にレントゲンには写らないが、寛骨(腰下の広い骨)の部分にも細かい亀裂が生じている可能性が強いと言うことである。

 去年の秋、画の制作に熱中し過ぎて私は動けなくなった。友人の車で大学病院へ運ばれたが、即時入院手術を言い渡された。しかし、私には手術を受ける意志が全くない。手術によって背中の痛みが少しでも緩和されることに私は耐えられないのだ。
 何故なら。この傷の痛みの中には、愛する二人の姉妹の死と、今は無き父や、あの日、九州の病院で両手両足を失った若い女性の戦後の記録が印されているから。ひいては、私とは違った場所で、あの広島や長崎で被爆した無数の人々の同じ苦痛と同列で居たいために、私はこの背骨の痛みを消す訳にはゆかない。
 ついでのことながら、私が画家を志したのは全くの偶然ではなく、選んだのである。それは、あの日北朝鮮元山の収容所での悲惨な経験と無縁ではない。

 今、私はおおむね日本や世界の政治や出来事を信頼していない。戦争のこと。近隣諸国との平和友好のこと。物質が豊かに繁栄した社会のこと。そして侵略と進出と言いふくめる日本政府のこと・・・。etc。
 おおよそ一見平穏無事に見えるものの中に私たちは常に裏切られて来た。従って、私は普通に描かない画家としてのみ絵を描いて来た。私は決して普通は描きたくない。それは、今度何か起こった時、自分で事の真実を見誤らないための下準備でもある。
 その意味で、戦争は一人の生き残り少年に生涯の職業選択まで関与したことになった。

「人間は歴史的産物である」と、今、私はハッキリ口にすることが出来る。



                                                   1982年9月 未完



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